先輩U


 名前を高専に連れてきたのはまず第一に保険が欲しかったからだ。家族、友人、恋人。繋がりが多くなればなるほど、その場所から離れがたくなる。肉体的にも、精神的にも。
 だから高専に連れてきた。かつての先輩、新たな友人、そして恋人である自分。名前にとって必要なものはすべて自分が用意してやろうと五条悟は考えていた。そしてその目論み通り、名前はすぐに真希たちと仲良くなっていった。

「お疲れ、二人とも」

 帳は上がり、舞台上から役者は降りる。呪術師から学生へ。制服を着た名前と狗巻はそこらを歩く子どもたちと何ら変わりないように思われた。恐らく、世間一般の人々からは。
 そんな二人は手を振る五条を見つけると、揃って目を瞬かせた。

「どうしたんですか、悟くん。今日はお仕事だって言ってらしたのに」

「そこはほら、僕ってば最強だからさ。ぱぱっと片付けてお迎えに来てあげたの。二人とも疲れてるだろうと思って」

 『なるほど』と狗巻は手を叩く。
 けれど、真実は少し違う。そもそも最初からすべてが計画の上。狗巻の任務に名前を同行させたのは、自分が任務で不在の間彼女をひとりにしたくなかったからであるし、自分の仕事が終わるや否や駆けつけたのは、信頼する生徒とはいえ長時間二人きりにするのは嫌だったからだ。
 ──まったく、身勝手極まりない。五条自身そう思ってはいるものの、やめるつもりはさらさらなかった。

「棘との任務はどうだった?」

 二人が出てきたのは20年ほど前に廃校となった小学校だった。褪せた煉瓦の色が遠目からでも見ることができる。なかなかに雰囲気のある建物だ。
 心霊スポットと呼ばれているのも無理からぬこと。そのせいか数年おきに呪霊の発生が確認されている。とはいえ既に有名な場所であるから、呪霊が力を持つ前に祓うことができているというのが現状だ。このいたちごっこに嫌気が差す呪術師も多い。

 ──そういえば、かつての名前はどうだったろう?

「とても勉強になりました!狗巻くんが呪言で援護してくれたお陰ですごく動きやすかったですし、安心して呪霊と戦うことができました」

 ともかく、今の名前に呪術師への負の感情はないらしい。五条の問いに目を輝かせ、次々に賛辞の言葉を紡いでいく。
 狗巻が「……しゃけ」と照れた様子でファスナーを弄っても、「謙遜することではないですよ!」と力説した。

「とても素敵な力です!対して私ときたら殴る蹴るばかりで……」

「あはは、名前はわりと脳筋タイプだからねぇ」

「うっ……、確かに、否定はできませんが……」

「ツ、ツナマヨっ!」

「あ、ありがとうございます……。慰めてくれてるんですね……」

 肩を落とす名前に、狗巻は慌てた様子で声をかける。常人には理解のできない、単語の連なりで。
 呪言師であるための縛りは、けれど名前には意味のある言葉として伝わっているらしい。初対面からさほど時間は経っていないはずだが、これはいったいどうしたことか。
 根本的に人たらしなんだよなぁ、と五条は内心溜め息をつく。昔からそうだった。同級生の七海は言わずもがな、硝子だって名前には甘かったし、伊地知については論外だ。そして今では五条の生徒たちとも親交を深めている。
 ──それはもちろん、五条自身が望んだことでもあったのだけれど。

「ねー、この後はどうする?このまま学校戻るのもなんか味気ないし、おやつでも食べに行こうか?」

 さりげなく名前の肩を抱き、その顔を覗き込む。
 厳格さと冷静さを持ち合わせた双眸。青みがかった黒色と蒼ざめて見えるほどに白い膚。繊細な鼻梁と小さな唇の薄紅色が一層際立っている。
 以前、名前は五条を『芸術品のようだ』と評したが、そう言う彼女もいつか見た絵画に似ていた。あれは……はて、なんという名前だったか。たぶん、ラファエル前派のいずれかの作品だったように思う。
 冴え冴えとした面立ちの彼女はしかし、五条の言葉に表情を曇らせた。恋人であるはずの彼女が!

「お誘いは嬉しいのですが……」

「なに?他に用事なんてあったっけ?」

「狗巻くんと映画を観に行こうかと思ってたんです。ね?」

「しゃけ」

 聞けば、今日はちょうど気になっていた映画の公開日だったらしく、帰りに寄っていこうかという話になっていたらしい。
 「今年のアカデミー賞最有力候補なんですよ!」拳を握る名前は昔と変わらない。
 学生時代もよく映画館に通っていた。他の誰も付き合ってくれないから、いつも名前を連れ回していた。映画館すら初めてだと言っていた名前も、いつしかそれを当たり前に受け入れるようになっていった。……すべてを忘れても、記憶から生まれた結果だけは今も彼女の中で息づいていた。

「よければ悟くんもご一緒に……どうでしょう?」

「こんぶ」

「ほら、狗巻くんもこう言ってますし」

「……うん、そうしようかな」

 すべてを忘れてしまった名前が憎らしい。何も覚えていないのに笑っていられる名前に腹が立つ。そしてその怒りと同じだけ、変わらない名前を愛おしくも思う。渦巻く愛憎は再会して以来一層深まっていた。
 そうしたものを包み隠して、五条は笑う。いつもと同じ調子で。大人ぶってみせるのは、この10年で上達したことのひとつであり、最たるものであった。

「よし、じゃあ行こっか」

 二人の肩を抱いて、歩みを進める。
 ちょうど歩いて行ける距離に映画館がある。補助監督には先に帰っていてもらおう。元よりそのつもりだったし、と五条は携帯を操作する。
 通話ボタンを押し、必要なことだけを告げ、相手の返事を待たずに切る。時間は有限。細かいことにはかかずらってはいられない。可愛い恋人と可愛い教え子の方が大切だ。

「そういや今年は面白そうな映画が多いね。デル・トロの新作もあるし、ジュマンジの続編もやるんだっけ」

「そうなんですよ!私はデル・トロの中でも『パンズ・ラビリンス』が特に好きで……。あと個人的には明日公開のフランス映画もかなり期待が持てるんじゃないかと」

「フランス映画かぁ〜……、僕あんまり好きじゃないんだよね。なんか退屈なの多いし。映画っていったらやっぱド派手なアクションだよ。ね、棘もそう思うでしょ?」

「高菜」

「あぁ、去年の『ジョン・ウィック』はよかったですね。まさしく『こういうのでいいんだよ』ってノリで」

「けど名前のイチオシは『ゲット・アウト』なんでしょ?」

 次点で『コクソン』や『新感染』、『アナベル』といったところか。ホラーやサスペンス、スリラーものが好きな名前のことだから、その辺りの映画を気に入ったはずだ。
 そしてその推察はものの見事に当たっていたらしい。名前は目を見開いて、驚いてみせる。

「なんで知ってるんですか!?」

「わかるよ、そりゃあ」

 だって、名前のことをずっと考えてきた。この10年、それこそ嫌気が差すほどに。
 名前がすべてを忘れてしまっても、五条はすべてを覚えている。初めて二人で映画館に行ったのが、10月最初の土曜日であったことも。その作品が内戦後のスペインを舞台にしていたことも。主人公の少女が迎えた最期について二人で討論したことも。
 当時、五条は『あれは全部少女の夢だった』と断じた。孤独な少女が最期に見た、都合のいい幻想。地下の王国なんて嘘っぱち。少女が姫君となることは永遠にない。
 けれど名前は最後の最後まで、『少女は真に地底の王国に迎え入れられたのだ』と頑として譲らなかった。その時のことはよく覚えている。喫茶店の中を流れるショパンの音色や、コーヒーの香ばしい匂い、カップの底に残った砂糖の感触、大きな窓から差し込む和やかな日の光──それから、『そうじゃなきゃあまりに悲しいじゃないですか』と溢した彼女の横顔も。何もかもすべて、五条は覚えていた。
 苦笑するその心のうちなど、名前は何一つとして知らない。「そんなにわかりやすいですか?」と呑気に頬を赤らめている。まったく、無邪気なものだ。憎らしくて、腹立たしい。
 肩を抱く手に力が籠る。──それでもやはり、手放すことはできなかった。