友人T


 東京都立呪術高等専門学校。その入り口に横付けされた車から降り、名前は「それでは、」と振り返る。どうかお気をつけていってらっしゃいませ。そう言って見送ろうとしたけれど、半ば開きかけた唇は固い胸板によって遮られてしまう。

「あの、悟くん。これではお仕事に行けないのでは……」

 不自由な格好のまま、名前は自分を抱き締める人を見上げた。
 五条悟──現在の名前の保護者であり、恋人でもあるというその人は、けれど「だって行きたくないんだもん」と年甲斐もなく口を尖らせる。外せない任務があると言っていたのは彼自身であるのに。

「ただでさえ仕事なんて面白くもなんともないのに、その上名前と離ればなれなんてさぁ……」

 五条悟は基本的に多忙な人間だ。
 日本に三人しかいない特級呪術師のひとりにして、現代最強の男。となれば呪術界も呪霊も彼を放っておいてはくれない。教鞭を執る傍ら、呪いを祓いに各地を飛び回る日々。もちろん、危険とは常に隣り合わせ。
 だから『仕方なく』名前を高専に預けるのだ、と五条は溜め息をつく。

「長期の出張ならさすがに心配だから連れてっちゃうけど、でも国内の案件ならねぇ……。高専に置いてた方が安全なんだろうけど、……うーん、やっぱ一緒に行こうか?」

「私、悟くんの迷惑にはなりたくないです」

「いや、名前のレベルなら足手まといにはならないよ。仮にそうだとしても僕が守るだけだし」

「……でも迷ってらっしゃるのですよね?」

「まぁね、名前にも青春してもらわないと困るし。けどなぁ〜、頭ではわかってるんだけどねぇ……」

 悩ましげな吐息が名前の頬を擽る。
 彼の思考の殆どを名前は理解していない。その自覚はある。だから言うべき言葉が思いつかず、しかし頭を痛める彼に心苦しくも思う。
 いったい何がこんなにも彼を不安にさせているのだろう?──名前には、その背を撫でることしかできなかった。

「オイいつまでセクハラしてんだ、この淫行教師」

「いてっ」

 そこへやって来たのは生徒の一人、禪院真希。彼女は一切の躊躇なく五条の足を蹴る。
 「酷いよ、真希」むくれる担任教師へ向ける眼差しは冷ややか。絶対零度の視線で、真希は舌打ちする。

「名前が抵抗しないからって好き勝手やるなよ、ロリコン。通報するぞ」

「あれ?結婚を前提にしたお付き合いなら淫行にあたらないんじゃなかったっけ?」

「んな話はしてねーよ。さっさと仕事に行けって言ってんだ」

「コワ〜」

 肩を竦めて、五条は名前から手を離す。「真希が怖いからもう行くね」そうは言うが、名前の頬に唇を落としていくのだけは忘れない。
 真希が『嫌なものを見てしまった』と顔を歪めるのを無視して、五条はひらりと手を振る。

「じゃあね、名前。いいこにしてるんだよ」

「はい、悟くんもどうかご無理はなさらぬよう……お気をつけて」

「うん、いってきます」

 走り去る車を名前は見送る。その影が見えなくなるまで、ずっと。
 「相変わらず大袈裟だな」見送っていると、真希には呆れられてしまう。毎度毎度よくやるな、と。
 ひとつ任務に行くたびにいちいち別れを惜しんでいるのが心底理解できない。以前、真希はそう言っていた。……それが呪術師としては当たり前の感性なのだろうか。
 だとしたら名前には呪術師になれる自信がない。いつまで経っても、遠ざかる背中を見送るのだけは慣れることができそうになかった。どうしても焦燥感が募る。足許が覚束なくなって、途端に不安が襲い来る。
 それが空白の記憶に起因するものかもわからない。どうすれば平静でいられるのかも。だから「すみません」と頭を下げることしか名前に術はなかった。
 すると真希は少し困った風に眉を下げ、「別に謝るほどのことじゃない」と首を振る。

「……ただ、男の趣味だけは最悪だと思うけどな」

「そう、ですか?五条先生、いい人でしょう?」

「はぁ!?大丈夫か、オマエ?ちゃんと私のこと見えてるか?視覚と聴覚は正常に機能してるか?」

「どこも不都合はないはずですが……」

「……、ちなみに好きなタイプは?」

「うーん……あまり考えたことはないですけど……、強いて言うならデ・ニーロでしょうか。あっ、でもアル・パチーノも格好いいですよね」

「……それでどうしてあのバカにいくんだか」

 心底わからない。真希は額に手をやる。でも名前にとってはその反応の方が意外だった。美的感覚は人並みだと思っているのだが、違っただろうか。
 そう思い、「ディカプリオとかブラピも好きですよ」と顔立ちの違う俳優を挙げるも、真希には「んな話してねーよ」と一蹴されてしまう。もっと語りたかったけれど、そう言われては仕方がない。

「そう言う真希さんは?」

「は?」

「真希さんはどのような殿方がお好きなんですか?」

 ふと思い立ち、訊ねてみる。
 通っていた女学校ではよく耳にした会話。少女たちは無邪気に、そして些かの羞じらいを見せながら言葉を交わしていたものだ。
 ──ならば目の前の彼女はどうだろう?ストイックな真希が何と答えるのか想像できなくて、俄然興味が湧いた。

「……そりゃオマエ、あれだよ、あれ。強いやつだな。少なくとも私よりは強くなきゃ話になんねぇ」

 けれど真希の答えは見た目の話でもなければ、性格の話でもない。ある意味で呪術師らしい答えに、名前は目を瞬かせる。
 ……なるほど、そういう視点もあるのか。

「それなら五条先生は?とってもお強いじゃないですか」

「あれはそういう次元じゃねぇよ。いくら強くたってバカは願い下げだ」

 いの一番に思いついたその名前に、真希は酷い顰めっ面をしてみせる。「冗談でも言っていいことと悪いことがあるぞ」と。
 冗談などではないのだけれど。そう言ったら彼女はどんな反応を示すだろう。結果は容易に想像がついたから、名前は「そうですかね」と曖昧に笑っておくことにした。
 みんな彼のことをバカだバカだと言うが、その辺りのことがいまいちピンとこない。普段の彼は博識であるし、頭の回転も早い。名前の知る限り、五条悟という男は非の打ち所がないように思えた。

「……真希さんは理想が高いんですよ、きっと」

「オマエに比べりゃ誰だってそうだろ」

「そんなことないと思いますが……」

「それかとんだ面食い野郎ってことだな」

「…………そうかもしれません」

 否定はできない。だってそうだろう?美しいものは誰だって好きなはずだ。
 けれど途端に自分が俗人的なもののように思われて、名前は落ち込んだ。……少しは真希を見習わなければ。
 反省してると、「早く行くぞ」と肩を叩かれる。そういえばどうして彼女は見計らったかのように現れたのだろう?今日高専の世話になることは事前に伝えてあったが、特別約束をしていたわけではない。なのにどうして?
 訊ねると、真希は目を逸らした。「別に、」深い理由なんてない。「どうせ悟に絡まれてるだろうと思ったから」ただそれだけのことだ、と彼女は言うけれど。

「……なににやけてんだよ」

「いえ、……ありがとうございます」

「……そーいうの、寒気するからヤメロ」

「はい、すみません」

「だからそのニヤケ面をどうにかしろって言ってんだよ」

「これはこういう顔なので致し方ありません。諦めてくださいな」

 真希は顔を顰める。でも名前が腕を絡めても抵抗はしない。振りほどくことも、突き放すことも。それこそが親愛の証だと考えるのは間違いだろうか?
 少なくとも名前にとっては喜ばしいことであったから、緩む頬を抑えることはできなかった。

「そうだ、ずっと気になってたんですけど、五条先生っておいくつなんですか?」

「は?そんなことも知らなかったのか?」

「ええ、まぁ。なんだか機を逃してしまって」

 寒空の下、ふたり並んで歩きながら言葉を交わす。
 名前が口にしたのは何とはなしの問い。驚きを露にする真希に、対する名前はのんびりと「23歳くらいでしょうか」と続けた。
 思い浮かべるのは、花の盛りといった具合のかの人。その瑞々しい容貌を思えば、さして歳は重ねていないものと考えられる。見た目だけでいえば10代でも通用しそうだ。しかし教員免許を持っているだろうことを考慮すると、23か24か。その辺りが妥当じゃなかろうか。
 すると何故か真希は天を仰いだ。

「マジか……」

「え?」

「いや、まさかあのロリコンが自分の年齢すら教えてなかったとは思わなくてな」

「ええっと……」

 険しい顔の真希に、名前は戸惑う。ロリコンの定義には当てはまらないのではないか。そう言いかけたものの、言葉は喉元で溶けていく。
 そんな名前へ、真希は驚愕の真実を打ち明けてくれた。

「あの、今なんと……」

 いや、確かに声は聞こえた。真希が教えてくれたこと、彼女が紡いだ言葉。そのすべてが名前の耳に入ってきた。
 ただ、頭が理解しきれなかっただけ、で……

「だから28歳だって言ったんだよ」

「誰が?」

「悟に決まってるだろ。五条悟、オマエの恋人を自称してるバカのことだ」

 俄には受け入れられず、名前の思考は停止する。
 思い出されるのは花の盛りとしか思えぬかんばせ。けざやかなる膚の白。純真無垢の瞳の蒼。典雅なる唇の薄紅。
 瑞々しき楽の音を思い返し思い返し、だからこそ名前は信じられぬ思いで眉を寄せる。「……あの顔で?」と。

「信じられません。いったいどうなっているのですか?何らかの呪術ですか?それとも最強がゆえの縛りか何かでしょうか。永遠に歳を取らない呪いのような……、そうでなければ納得がいきません」

「いや、気になるとこそこかよ」

 「他に突っ込むべきところがあるだろ」と真希は言うけれど、名前にとって何より重要なのはその点だった。
 彼と共に歳を重ねられるだろうか、という不安、恐れ。そちらの方が気にかかっていたから、その他のことについては考えが及ばなかった。