本当のところを言えば、名前の記憶が戻ろうが戻るまいがどちらでもよかった。五条悟にとって重要なのは【いま】であり、それは現状満足のいくものであった。
しかし名前にとっては違ったらしい。
「そういえば、昔の写真などはないのでしょうか?」
高専へ向かう道すがら、車窓を眺めていた名前が不意にそう言った。
記憶をなくした彼女がそれを訊ねてくるのは、考えてみれば至極当然のこと。けれど無理に思い出す必要もないと思っていた五条にとっては青天の霹靂に等しかった。
「写真、ねぇ」
顎に手をやり、考えてみる。
物より思い出。……というわけでもないが、さすがに学生時代の写真などどこにやったかわからない。当時使っていた携帯ではよく写真を撮っていたが、そのデータも行方知れず。感傷に浸る質ではないから、探そうと思い立つこともなかった。
「たぶん殆ど手元には残ってないんじゃないかな。必要なことは全部頭に入ってるし」
そう、写真などなくともすべて思い出せる。
この10年、繰り返し繰り返し辿ってきた記憶。それは未だ鮮明で、風化することはない。二人で観に行った映画も、繋いだ手の温かさも、その時の空の青さも、──最後の日に見送った彼女の背中も。何もかもすべて、五条は覚えていた。
だから名前が気にすることは何もない。五条は微笑んで、名前の手を握る。
「いいんだよ、頑張らなくても。名前は名前でしかないんだから」記憶の有無は彼女の本質になんら影響を与えていなかった。それ以外に重要なことが果たしてこの世に存在しているだろうか?……思い当たらないということは、つまりはそういうことなのだ。
けれど名前の顔が晴れることはなかった。
「そう、ですね。そう言っていただけると救われた気持ちになります」答える声は下り坂。落胆の色を感じ取って、五条は眉を寄せる。自分のことで一喜一憂してくれるのは嬉しいが、落ち込む彼女を見ているのはあまり気持ちのいいものではなかった。
「……まぁ、ないと決まったわけじゃないし。とりあえず硝子にも聞いてみようよ」
「硝子さんに……、でもご迷惑じゃ」
「『いつでもおいで』って言ったのはあっちだよ。名前が遠慮することないって」
笑いかけると、ようやく名前の表情も和らぐ。
「ありがとうございます、悟くん」
「いいよ、名前の望むことならなんだって僕が叶えてあげる」
記憶が戻ろうが戻るまいがどちらでもいい。それもまた本心だ。
けれど安堵から生まれた微笑みも、肩にかかる重さも、遠慮がちに握り返された手も、信頼を感じさせる彼女の所作、そのすべてが心地のいいものだった。
だから名前が望むなら、きっと【いま】とは違う【未来】を選んでしまうのだろう。たとえそれが自分の望みとは異なるものであったとしても。
──願わくは、彼女の望みが自分のそれと同じであれば良いのだが。
名前は『社交辞令ではないか』と危惧していたが、硝子にそんな器用な真似ができるはずもなく。医務室を訪れた名前を、硝子は温かく迎え入れた。
「なかなか外にも出られないから、退屈しててね」コーヒーを淹れながら、硝子は名前に言う。……その肩を抱く、五条には目もくれずに。
「それで?今日はどうしたんだ?」
「あの、実は昔の写真を探してまして……、そういうものを見れば何か思い出せるんじゃないかと」
「ああ、なるほど」
すべて理解したとばかりに硝子は頷く。
家入硝子。その名の通り、ガラス玉に似た黒い目。生と死のあわいで生きる彼女は、ある種の神に近かった。
神とは元来、人より多くを理解しているものだ。だからきっと、彼女もまた。すべてを忘れてしまった名前への憎しみも、そんな彼女から向けられる親愛の情への喜びも、愚かなまでの優しさに抱く焦燥も、だからこそ感じる愛おしさも、何もかも硝子は察しているのだろう。
呆れたような一瞥を送られて、五条は気づかなかったふりをする。その察しのよさの半分でも名前に分けてやれたらいいのに。でもそうなったらなったでガッカリするんだろうな、と五条は思う。
「けど悪いな。そういうのは私のとこにもあるかどうか……、いや、探せばどこかしらにはあるんだろうが」
「いえ!そこまでお手を煩わせるわけには!」
「そうか?まぁ、掃除のついでにちょっと見てみるよ。見つかったらまた連絡するから」
「すみません、ありがとうございます」
思考を巡らす五条の横で話は勝手に進んでいく。が、特別興味をそそられる内容ではなかったからそれは一向に構わない。
けれど放っておかれるのも癪だ。視線を巡らすと、飲みかけのまま置かれたコーヒーカップが目に留まった。
「まずっ」一口含むと、その苦さに思わず声が洩れる。こんなものを有り難がって飲む人類は味覚がおかしいとしか思えない。だから可哀想な名前のために角砂糖を投入してやろう。
ひとつ、ふたつ、みっつ……「おい、それは名前のだぞ」ようやく気づいた硝子に咎められるが、そもそも二人分しか用意しない彼女にも責任がある。彼女が淹れたのは自分と名前の分のコーヒーだけだった。
「僕と名前で回し飲みしろってことかと」
「そんなわけないだろ、お子ちゃまの五条にコーヒーは必要ないと判断しただけだ」
「うわっ、酷い!」
傷ついた、と抱き着けば、優しい名前には突き放せない。「私は気にしてませんよ」と微笑んで、頭を撫でてくれる。
──バカだなぁ、名前は。
こんなに騙されやすくちゃ、ますます手放せなくなる。記憶を失った状態で、よくもまぁここまで生きてこれたものだ。五体満足なのが不思議なくらい。
分別のつく大人が相手でよかったね、と五条は名前の肩口に顔を埋めた。彼女の膚からは清々しい、花のような匂いがした。
「入れ直すよ、名前。そんなの飲めたもんじゃないだろ」
「いえ、大丈夫です。甘いものは好きですから」
その答えに五条はにんまりと笑う。「やっぱりね、」名前がそう言ってくれるのはわかっていた。
だからこれはひとつの証明にすぎない。誰が一番名前を理解しているか。愚かしいほどのその優しさを、損なわせずにいれるのは誰か。──彼女を彼女のまま、守ってやれるのは僕しかいない。神様なんかよりもずっと、僕だけが真実名前を理解している。
名前は砂糖の溶けきっていないコーヒーを飲むと、「これはこれで美味しいですよ」と言った。カップを持つ手の、その指先の白さがいやに目につく。けざやかなる
『性わる男のアルルカン、悪巧み。花乙女コロンビーヌを
陰鬱なる冬に終わりは見えない。けれどそれを上回る充足感が胸にあった。憎しみと苛立たしさと、それ以上の愛おしさが。
「そうだ、七海は?生真面目なあいつなら写真の一枚や二枚持ってるんじゃないか?」
硝子が『そういえば』と話を戻す。と、名前は小首を傾げた。
「七海、さん?」慣れない様子で呟かれるのは旧友の名前。七海建人。誰にでも敬語を使う名前が、唯一その決まりを破る相手。
『七海くん』そう呼び掛ける名前の姿が脳裏によみがえる。気安い微笑み、寛いだ空気。10年前。間違いなく、彼は名前にとって特別な存在だった。
「……おい五条、お前七海にも話してないのか?」
「別にわざとじゃないって。なかなか言い出す機会がなくてさ」
「どうだか」
硝子は鼻で笑う。嘲り半分、呆れ半分。かわいそうな名前、──そうだね、その通りだ。硝子の呟きに、心のうちで同意を示す。かわいそうな名前、……でもその嘘が真実になったなら?それでいいじゃないかと五条は思う。
「あの、その方はいったい、」
「七海はオマエの同級生だよ、昔の。たぶん一番仲良かったんじゃないか?だからてっきり七海にもこのことは伝わってると思ってたんだが」
「ごめんごめん、すっかり忘れてた」
「……はぁ」
白々しく笑うと、溜め息をつかれる。もちろんそんなことをするのは硝子しかいない。疑うことを知らない名前は「そうなんですね」と素直に納得している。バカな子ほど可愛いとはこのことだろうか。
「
「ここで後日に回したらオマエはまた忘れるだろ」
そのまさかだった。嫌みたっぷりに言われ、「そんなことないよ」と否定しても梨の礫。本当に、いつかは七海にも教えてやるつもりだったのに。ただそれが先延ばし先延ばしになっていただけで。
「でもそんな急に……ご迷惑でしょう?」
不安げな名前に、硝子は「大丈夫だよ」と笑みかけた。落差のある対応。先刻まで五条に冷たい眼差しを向けていたとはとても思えない。
「お優しいことで」
「私はいつだって優しいだろ。オマエ以外には」
そうだね、僕だって誰にでも『こう』じゃない。相手が名前だから、すべてを忘れてしまった彼女だからこそ、こんなにも憎らしいのだ。