友人V


 息せききってやって来たその人は、名前の顔を見るや驚愕を露にした。まるで死人でも見たかのような──そんな顔だ。

 この人は誰だろう。

 瞬間、静止した世界で名前は考える。じっと凝視つめる。医務室のドアを開けた格好のまま、固まっているその人を。
 大人のひとだ。というのが最初の感想だった。大人の、男のひと。皺のないスーツと洒落たネクタイが印象的。整えられた髪のかたちから、生真面目さと神経質さを感じとる。

「おお、七海。早かったな」

 硝子はそう言って、軽く手を挙げる。宴席に遅刻してきた者を迎え入れるような、そんな気安さで。
 けれど名前は──名前は、違和感に内心首を傾げる。七海、それは名前の友人の名前のはずだ。高専時代の同級生。硝子はそう言っていた。
 しかし目の前の彼は名前よりもずっと歳上に見える。20代後半といったところか。対する名前は未だ学生の身。失った記憶の分を考えても、どうしたって釣り合いがとれない。二人連れ立って歩いたとして、果たして友人同士に見えるだろうか。……そんなこと、あり得ない。
 ではこのひとは?名前の友人であるらしい【七海】と同じ名を持つ彼は、いったい何者だろう。【七海】の兄や従兄弟といった親類縁者というのが可能性としては一番高い。そう考えれば辻褄は合う。
 だがそれでも──それでも、違和感は拭えない。【七海】という名に、私は何を期待したのだろう。
 考え込む名前をよそに、五条は笑う。「さすが七海。いい反応するね」ではやはりこの人は七海なのだ。名前が名前だと思っていたのは姓を表すものだった。
 揶揄いの言葉に、それまで凍りついていた七海の顔が歪む。

「どういうことですか」

 それは男性特有の低い声だった。聞き覚えは──ない。その声も、顔立ちも、何かを想起させることはなかった。
 名前は戸惑いがちに五条の袖を引いた。絶対的な安心感を与えてくれるひと。怖くはなかったけれど、不安だった。
 そういえば、彼と再会した時も同じ感覚に襲われた。悲しいような、嬉しいような、よくわからない衝動。彼は名前の頬を撫でて、微笑を刷く。「大丈夫、心配いらないよ」そう言った彼の方が悲しげで、でもどこか嬉しそうでもあった。

「記憶喪失、なんだとさ」

「それは電話で聞きました。私が言っているのはそこではなく──」

「まぁ、そうだな。確かに普通じゃない」

「明らかに異常です。五条さんはともかく、10年前と何も変わっていないなんてそんなこと……あるはずがない」

 二人はなんの話をしているのだろう?硝子の言うことも、七海の言うことも、さっぱり理解できない。
 「酷いこと言うなぁ、七海は」五条はぼやいて、混乱したままの名前を抱き締めた。「名前はあんな大人になっちゃダメだよ」彼の物言いは年少者に対するもので、だから今まで気にしたことがなかったのだ、と名前は悟る。
 ずっと、自分は子どもだと思っていた。失った記憶はほんの十数年、生まれてから高校生になるまでのものだと思い込んでいた。
 「10年前って──」名前は予感に恐れを抱きながら、口を開いた。二人の話が理解できなかったのではない。理解したくなかった、ただそれだけのことだったとようやくわかった。

「私が喪ったのは、記憶だけではなかったのですか?」

 硝子は七海を見て、五条を見て、その後で名前を見た。そして何の躊躇いもなく、「そうだよ」と頷いた。本当の名前は、今年で27歳になる。真っ当に成長していたなら、七海と同い年だった。
 そう言われても、なんだか他人事。「そうだったんですね」と冷静に応じながら、名前の意識はどこか上空を漂っていた。
 言葉が、景色が、上滑りしていく。そもそも【私】とは何なのだろう。人間の肉体は次々に死に、また新たに生まれていく。数日前と今では体を構成するものも変わっている。共通するのは意識であり、記憶だ。連続した記憶だけが【私】を【私】たらしめている。
 でも、私には連続した記憶なんてものはない。その上肉体さえ普通じゃないなら──いったい私は何なのだろう。本当に、人間なのだろうか。

「ま、難しく考えることないよ。名前が名前だってのはその魂からわかるし、僕はそれで十分だからね」

 その思考を読み取ったかのように。五条悟はそう言って、名前の頭に手を置いた。とても温かな感触だった。少しだけ懐かしいとも思った。そしてそれは恐らく、喪われたはずの記憶の中に根づくものだった。
 「お前はそれでいいかもしれないけどね」その先を硝子が口にすることはなかった。名前を見て、「まぁいいか」と肩を竦めた。それで終わりだった。
 硝子はコーヒーを淹れて、七海に差し出した。

「悪かったな、突然呼びつけて」

「いえ、助かりました。だいたいのことは察しがつきますから」

「え?なんで二人して僕のことを見るの?」

「日頃の行いが悪いからだよ」

「胸に手を当てて考えてみてください」

「二人とも僕へのあたりがきつくない?泣いちゃうよ?」

 五条は悲しげな顔をして、名前の頬に顔を寄せた。「泣いたら慰めてくれる?」もちろん、と名前は頷いた。この人が泣くところなんて、見たことがなかったけれど。
 でも「ありがとう」と笑む顔がことのほか可愛らしかったから、その答えでよかったのだと思う。誰にもなれない私を救ってくれたひと。──この人のために、私は生きたい。

「……茶番は終わったか?」

「終わってないって言ったら僕たち二人だけの世界にしてくれる?」

素面しらふでよくそんなこと言えるな」

 逆に感心するよ、と硝子は淡々と言う。七海も同意を示しているから、たぶん世界からずれているのは名前の方なのだろう。でもひとりじゃないならそれでよかった。

「……とまぁこういうわけで、名前の記憶を取り戻してやろうと思ってるんだが。七海は昔の写真とか思い出のものとか、なんかそういうの持ってないか?」

「写真……ですか」

 七海は難しい顔でサングラスに手をやった。
 考え事をする仕草。不変的であろうそれを見ても、特別な感慨は湧かない。何しろ10年経っているというのだ。今の彼を幾ら見つめたって、昔を思い出させるものは少ないだろう。
 街も人も移り変わりゆくもの。変わらないでいる方がおかしい。変わらないまま、取り残されたのは名前ばかり。──あぁ、でも、そういえば彼も殆ど変わっていないんだっけ。

「あることにはありますが……」

「が?」

「……無理して思い出すこともないでしょう。楽しいことばかりではありませんし」

 七海は名前に目をやった。──のだと思う。たぶん、恐らくは。
 そうつけ加えざるを得ないのは、サングラスで遮られているせいだ。薄い膜はけれど確かな隔たりとなって名前の前に横たわっていた。
 今の名前には、友人であったはずの彼のその眼の色さえわからない。……昔の名前なら知っていたのだろうか。知っていたんだろうな、とどこか遠くから思う。それは少し、寂しい想像だった。

「私個人としては呪術師に復帰するのもおすすめできません。せっかく一般人として生きていたのに、」

 彼の声音は責めるようでもあった。名前を、ではない。その隣に座る五条を見て、七海は彼の選択を言外に責めていた。
 それは五条にも伝わっているだろうに、けれど彼は「優しいね、七海は」とそれだけ言った。その右手は名前の肩を抱いたままだった。
 硝子は首を振り、七海は溜め息をついた。決着は、始まる前からついていた。

「無茶だけはしないでください。今度あなたに何かあったら、五条さんが何しでかすかわかったものじゃありませんから」

 別れ際、七海はそう言った。
 距離のある言い方だな、と名前は思った。咄嗟に。そんな風に感じてしまったのは、彼が名前を五条悟の付属品として扱ったからだった。
 彼は名前をかつての友人としても同級生としても見ていなかった。そしてそれは嬉しいようで、悲しいことでもあった。少なくとも、名前はそのように感じた。

「……いいひとですね、七海さんって」

「そうだね、僕よりよっぽど『まとも』な大人だよ」

「自分で言いますか、それ」

「自分のことだから言えるんだよ」

 外に出ると冷たい風が頬をなぶった。今年の冬は長く、険しい。昔のことなどわからないけれど、そんな気がした。
 でも医務室の方が寒かったな、と名前は思った。暖房が効いていなかったわけじゃない。特別室温が低かったわけじゃない。ただ何となく寒いなと思った。名前にとって薬品の臭いとは底冷えするような寒さを感じさせるものだった。厭だな、と思わずにはいられなかった。
 小さく身震いすると、手を握られた。見上げると、医務室よりずっと寒々しい色合いの眼とぶつかる。蒼より清く、白より澄んだそれ。でも厭だな、とは思わなかった。むしろ心地よくすらあった。

「……七海の方がきっと名前を幸せにしてくれるよ」

 だから名前はその手を握り返した。寒かったけれど、悲しかったけれど、でも寂しくはなかった。
 名前は「幸せというものがどういう形をしているのか知りませんが、」と前置いてから、微笑んだ。

「私は私を見つけてくれたのがあなたでよかったと思います。あなたは十分、優しいひとですよ」

 そう言うと、彼の目が僅かに揺らいだ。さざ波たつ水面。波紋が指先まで伝いくる。
 「……そんなことないよ」でもありがとう、と彼は言った。その唇にはいつも通りの薄い笑みが浮かんでいた。
 彼は笑っていた。──しかしそれは泣いているようでもあった。
 ……涙を見せることは、やはりなかったけれど。