呪詛T


 視界の隅に花瓶があった。サイドテーブルの上。花が一輪、生けてある。青色の、小さな花を幾つもつけたそれ。あの花は──はて、なんといったろうか。
 珍しいものではない。と思う。でも不思議とその名前は思い出せなかった。記憶力には自信があったのだけれど。思い出せないのはどうでもいい記憶だからか。それとも思い出したくないのか。

 ──それってすごく、薄情なことじゃない?

 そもそもこれはいつの記憶だろう。視界の隅に花瓶を捉えながら、名前は考える。そんなに昔のものではない。かといって最近のというのでもない。だって部屋の様子が全然ちがう。
 名前は眼を動かした。
 花が一輪生けてあった。花瓶が置いてあった。その下にサイドテーブルがあった。壁際には学習机がふたつ並んでいた。そして窓がひとつだけ取りつけられていた。
 それだけだった。灯りはなく、夜風にカーテンがはためいていた。そうした景色を名前は眼球を動かすことで認識した。
 わりあい小さな部屋だ。二人用の、子供部屋。そんな感じだ。でも温かみはない。突き放したような無機質さ。冷ややかな空気が膚を撫でる。
 だからこれは最近の記憶ではない──と思う。名前がいま寝起きしているのは五条悟の所有するバカみたいに大きなベッドだ。そこには学習机なんかなかったし、花が生けられていることもなかった。

 だからこれは夢なのだろう。

 夢の中の私はベッドに横たわっている。見えないけれど、確認できないけれど、きっとそう。四肢を放り出して、仰向けになって、眠っている。
 ……ううん、ちがうよ、起きているよ。でもそれじゃあどうして身体は動かないの?眠っているのと同じことでしょう?思い出せないなら忘れてしまったのと同じことでしょう?どうでもいいと、思っているんでしょう?

 ひどいよ、ひどいよ、ひどいよ──そんなひとだと、おもわなかった

 なんだかおかしな感覚だ、と名前は思う。
 思考が乱される。撹拌する。自分のようで自分じゃない。何か、まったく別のものが身体の中に入り込んでいる。意識の中に寄生している。私のなかに、侵入はいってくる。
 風が膚をなぶる。生暖かいものが剥き出しの足を這う。まるで意思を持っているみたいに。……意思を、持っているみたいに?

 ──これは、風なんかじゃない。

 確信した。確信したけれど、でもどうしようもない。動けないから。逃げられないから。そんなのは厭だから。だから名前は目を瞑った。
 夢なら何もかも忘れてしまえばいい。何もかも、なかったことにしてしまえば。それで終わるはず、

「逃がさないよ」

 耳許で、囁く声がした。





 目を開けると、うっすらとした光がカーテンの隙間から射し込んでいた。
 名前が目を覚ましたのは、五条悟の所有するバカみたいに大きなベッドだった。夢の中の、どこか湿っぽい、小さな部屋などではない。サイドテーブルには読みかけの本が置いてあった。
 ホッとした。やっぱりただの夢だったんだ。いやに鮮明だったけれど、それでも夢は夢。現実には一切影響を与えられない。厭なことなんか、もうどこにもない。名前は息を整え、身を起こす。
 少し、身体が重い。そう感じるのは寝起きだからか。寝覚めが悪かったせいか。ベッドが僅かに軋んで、隣で寝ていたひとの瞼を震わす。

「おはようございます、悟くん」

「……はよ」

 寝ぼけ眼で目を擦る。むにゃむにゃと意味もなく唇を蠢かす。かわいいなぁ、と名前は思う。
 歳上の男の人にこんなことを思うのはおかしいかもしれないけど。あぁでも、本当は一歳しか違わないんだっけ。時間の経過が曖昧で、時々現実を忘れてしまう。今があまりに心地いいから、忘れてしまったことすら忘れてしまいそうになる。
 五条は欠伸をして、それから手を伸ばした。
 名前は逃げなかった。目を瞑ることもしなかった。この先のことは知っているから。夢とは違うから。彼に触れられるのは、厭じゃないから。

「…………っ」

 けれど名前の頬へ触れた指は、一瞬のちに弾かれたように離れていった。
 目を見開いたのはふたり。五条も名前も、わけがわからないと顔を見合わせる。
 それは痛みだった。触れようとした、いや、実際に触れたのだ。ほんの一瞬。肌と肌が触れ合った、その瞬間に、痛みが走った。
 鋭く、肌を切り裂くような痛み。けれど名前の頬にも五条の指先にも傷跡は残っていない。幻覚。夢まぼろし。気のせいだった。勘違いだった。そんな気がした、だけだった。
 普通なら一度はそう考えることだろう。でも五条悟はちがう。彼の眼は何もかもを見通してしまう。呪術も、その痕跡も。
 彼は顔を顰めた。

「……断りもなく僕の名前を呪うなんて。まったく、そんな不届きものはどこの誰かなぁ」

 冗談めかした物言いだったが、その目には確かな怒りが揺らめいていた。





 呪いは男性相手にのみ発動するらしかった。その証拠に、真希に触れられても抱き締められても痛みは感じない。

「むしろラッキーじゃないか?満員電車でも快適に過ごせるぞ。ロリコンの変態教師にもまとわりつかれずに済むしな」

 笑う真希の後ろではパンダが倒れている。どうやら人間でなくとも肉体が男である以上アウトらしい。痙攣しているが、大丈夫だろうか。
 名前は心配になるが、介抱している狗巻が手で大きく丸を作ってくれたから命に別状はないようだ。よかった。……いや、何も解決していないんだから、いいことなんかひとつもないけれど。

「でもこんな状態じゃ任務にも同行できません」

「おとなしくしてろってことだろ」

「五条先生もそう言ってましたけど……」

 彼は。
 五条悟は、今すぐにでも解呪しようと言った。呪詛返しはさほど難しいものではない。呪力の痕跡を辿って、打ち返す。それで終わり。それでいいじゃないかと彼は言った。
 けれどそんな結末は嫌だった。他に方法はあるはずです。名前はそう主張した。話し合いは平行線だった。
 じきに朝陽が昇って、彼は任務に向かうことになった。駄々をこねるから説得するのに骨が折れた。大丈夫です、おとなしく、あなたの帰りを待っていますから──そう言って、ようやく彼は納得した。

「けどオマエは自分でどうにかするつもりなんだろ」

 真希の言葉に、名前は口を閉ざす。
 それが答えだった。
 約束を破るのは罪深いことだと思う。けれど名前は迷っていた。呪詛返しを受けた者は、己のかけた呪いによって身を滅ぼす。そんな結末は嫌だ。
 嫌だから、だからこれは私が片をつけないと。これは私の問題なんだから。私の罪なんだから。罪は、償わなければならないから。

「……ま、わからなくもないけどな」

 真希は笑って、名前の頭に手をやった。そういえば、彼女には妹がいるらしい。そんなことを思い出させる仕草だった。

「見当はついてるんだろ」

「……はい」

「ならやりたいようにやった方がいい。あとで後悔するよりはずっとマシだ」

「おい真希、勝手するとめんどくさいことになるぞ。主に悟が」

「知らねーよ。大事なときにいないヤツのことなんか。それより名前がどうしたいかの方が重要だ」

 真希は鼻を鳴らす。最強の呪術師の命令なんか知ったことじゃないと言い切る。それよりも、たったふたつきほどの付き合いしかない名前の選択を尊重してくれる。
 真希だけじゃない。狗巻も『その通りだ』と大きく頷く。パンダも「俺は知らないからな」と言いながら、でも「怒られる時は一緒に怒られてやるよ」とも言ってくれる。
 名前は、なんだか泣きたいような気持ちになった。

「ありがとう、ございます……」

「礼を言うのは全部片付いてからにしろ。まだなんにも解決しちゃいないんだから」

「はい、そうですね」

「気にするなよ、真希は照れてるだけだから」

「しゃけしゃけ」

「おい外野、うるせーぞ」

 暗澹たる気分だった。あの夢を見てから。呪いを受けたのだと知ってから。ずっとずっと悲しくて、申し訳ない気持ちで、どうしてこんなことになってしまったんだろうと自分を責めた。
 けれど救われた。真希に、狗巻に、パンダに。名前を友人と呼んでくれる人々に。救われてしまった。彼らと共に生きたいと思ってしまった。薄情で、罪深くて、どうしようもないけれど、それが名前の選択だった。

 だから──さよならだね

 名前は心のなかで別れを告げた。かつての友人に、家族に、思い出に。

 別れを告げたから、──だからもう、会えないよ。

 記憶の中の真人が、『薄情もの』と囁いた。