人が殺されるのは自分の罪のため
ゾンビの悪魔とヤクザの孫は無事拘束され、ヘビの悪魔の契約者は自殺した。お陰で銃の悪魔との関係性やチェンソーの心臓を欲しがった理由は不明のまま。しこりを残して、公安襲撃事件は幕を閉じた。
今夜は祝勝会だ、打ち上げだ。そう言って、デンジとパワーは手当たり次第に惣菜やお菓子、ジュースを買い込み、出前を取った。アキは二人を止めなかった。
どころか、公安本部から家に帰る際、名前のことも誘った。珍しく、彼の方から。
『ついでだし、食べてくか?』その言葉に、名前は二つ返事で頷いた。何となく、ひとりでいたくない気分だった。
今は電話注文した寿司を待っているところだ。最初に名前がシャワーを浴びて、次にアキ、デンジと続き、最後にパワーが浴室に突っ込まれた。デンジはその隙に、とポテチをつまみ、アキはビールの缶を開けた。名前はベランダに出て、ぼんやりと空を眺めた。ひとりでいたくないと思ったくせ、みんなでいるのも落ち着かなかった。
夏の近づく空は澄み渡り、目が眩みそうだった。鮮烈な橙色、朱の色。なんて鮮やかな──鮮やかな、血の色。
厭な臭いがよみがえって、名前は顔を顰めた。
「……なに黄昏てんだ」
「アキくん、」
フェンスに凭れていると、ガラス戸が開いて、アキに声をかけられた。
もう既に一本空にしたのだろうか。顔が仄かに赤らんでいる。……気がする。もしかすると、空の色のせいかもしれないけれど。
名前は笑った。「大人には色々とあるのですよ」きれいは汚い。汚いはきれい。果たして本当の正義とは?正しいことってなんだろう。罪とは、罰とは?私はどこへいくんだろう?
アキは興味なさげに「ふうん」と言った。彼の手はタバコを一本取り、火をつける。吐き出された煙は細く伸びて、朱色の中に溶けていった。
名前はそれをずっと見ていた。空に溶けきってしまうまで、ずっと。
「タバコって美味しいの?」
「いや、不味いな」
「不味いのに吸うんだ、へんなの」
「大人には色々あるからな」
名前が言ったのと同じ言葉を吐いて、アキは小さく笑う。
今回の仕事が始まる前は陰気な顔をしていたのに、少し吹っ切れたみたいだ。それもタバコのお陰だとでも言うのだろうか?
名前は少し考えて、「ねぇ、一本もらえる?」と訊ねた。
「吸ったことないだろ」
「ないけど、誰だって最初はそうでしょう?」
「タバコを吸うと寿命が縮まるって知ってるか?」
「アキくんがそれ言うかなぁ」
「……それもそうだな」
言外に責めると、アキは『仕方ないな』と溜め息をついてからタバコをくれた。
手のひらに置かれた一本。名前は棒切れを不思議な気持ちで眺めた。こんなちっぽけなものに人間は寿命を縮められたり、救われたりもするなんて。
やっぱり、「へんなの」。それならタバコの悪魔の方がよかった。信仰の悪魔なんて、こんな棒切れ一本にも敵わない。役立たず。だったらこの人を救えるものになりたかった。
……なれたら、この厭な臭いもとれただろうか。
「……ケホッ」
吸ってみると、途端に噎せてしまう。苦しいし、にがい。こんなものの何が救いになるのか。名前は涙目で咳き込む。
アキは「だから止めたんだ」と名前の背中をさすった。
「慣れないことするから……」
呆れぎみの声に、名前は「そうだね」と苦笑する。
私は姫野ちゃんにはなれないし、アキくんと同じ目線にも立てない。タバコで寿命を縮めることも、救われることもないのだ。
悪魔にも人間にもなりきれない、半端もの。──あぁでも、煙のお陰で悪臭は紛れたかも。
「ねぇアキくん、私ってにおう?」
「はぁ?」
何の話だ、と眉間に刻まれるシワ。彼からはタバコに混じって、石鹸の香りがする。この匂いは嫌いじゃない。むしろ好きだなぁ、と名前は思う。
生きている人間の匂いは、ゾンビの放つ、暗くて湿った悪臭とは全然違う。穢らわしいものとは対極にある。
──でも、それじゃあ悪魔は?
「臭うって言ったらキレるだろ」
「怒らないから教えてよ。ね、ほら、嗅いでみて」
「犬じゃないんだから……」
渋々といった顔で、しかし優しい彼は名前の首筋に顔を寄せる。
「どう?」
「……うちのシャンプーと同じ匂いがするな」
「他には?」
「後は……そうだな、洗剤の匂いくらいか?」
「俺のシャツ着てるんだから」とアキは言う。何を当たり前のことを、と。嘘を言っているようには見えなかった。
「そっか」そうなんだ。暗くて湿っていて穢らわしいものの臭いがするような気がしたけど、気のせいだったのかな。
「やっぱり私の鼻、バカになっているのかも」
「病院行くか?」
「うーん、それはちょっと面倒かな。アキくんが連れていってくれるなら考えるけど」
「子どもか」
「アキくんの妹にしてくれる?」
別に姉でも娘でもいいけど。アキくんの家族になれるなら、なんでもいいけど。
……なんて、ね。
「……まぁ、二人も三人も変わらないからな」
アキは少し考えたあとで、「好きにしろ」と言った。突き放した物言いで、でも親愛の情を滲ませて。名前の頭をポンと撫でた。
──アキくんは、優しいから。
「……冗談だよ、冗談。そりゃあそうなったら楽しいだろうけど、私はもういい大人ですからね」
「名前、」
寂しくなんかないよ。羨ましくなんか、ないから。だからアキくんは自分のことだけ考えて、──しあわせになって。
なのに彼は自分のことなんかお構いなしで。自分の方がずっと悲しくて苦しいはずなのに、なのに今も気遣わしげに名前の名を呼ぶ。名を呼んで、肩に触れて、──抱き締めて、くれるから。
「天国にいっても、私のこと忘れないでね。時々でいいから思い出して。それだけでいいから、──アキくん、おねがい」
肩口に頬を寄せて、懇願する。自分が思っているよりも掠れた声で、切々と。言ってから、『何を今さら』と自嘲する。
最初から違っていた。悪魔は悪魔でしかなく、人間にはなれない。いくらなりきったところで、魂までは変えられない。人間は──姫野ちゃんたちは天国に行けるだろうけど、私は違う。
同族の悪魔を殺して、ゾンビと化した人間を殺して。沢山の血を浴びたから、最後には地獄におちるんだ。そう、名前は思った。
けれど彼は「どうだろうな」と言う。「俺だって天国に行けると決まったわけじゃない」そんな恐ろしいことを淡々と言ってから、なおも言葉を続ける。
「今日もあのヤクザの孫を痛めつけたばかりだ。あんなでも一応人間なんだから、倫理的に不味いことをしたのは確かだ」
「それくらいなら大丈夫だよ、きっと」
「金玉蹴り上げてもか?」
「……たぶん」
一応、それを蹴り上げてはならないと聖書に書かれているわけではないし。そのくらいなら赦してくださるはずだ、と名前は曖昧に頷く。
するとアキは「ならお前も大丈夫だろ」と名前の背中を軽く叩いた。気にするな、元気出せ。そう言われているようだった。
名前は小さく「うん」と頷いた。そうしながら、彼の肩越しに空を見た。
暮れゆく空は朱の色。なんてきれいな──きれいな赤。けれどその鮮やかさに想起させられるものはない。厭な臭いが立ちこめることも、ない。
「もしもアキくんが地獄に落ちたら、きっと私が見つけに行くから。だから待っててね」
「まぁ、覚えてたらな」
「じゃあ忘れないように、アキくんが死ぬ時には絶対駆けつけるよ。それでまた約束を取りつけるから」
「なんか呪いじみてきたな」
「それじゃあ今日から私が呪いの悪魔ね。対価はアキくんの首級でいいよ、枕にするから」
そんな下らない言葉を交わしながら、名前は手を引かれて部屋に戻った。
リビングではデンジとパワーがポテチの最後の一枚を巡って取っ組み合いをしていた。まるで子どものように、幼い兄妹のように。
喧嘩をする二人を前に、溜め息をつくアキ。その隣で、名前は笑った。憂鬱な気持ちはすっかり薄れていた。