呪詛U


名無しのオリキャラが沢山喋ります。






 深く茂る緑の向こうに、赤茶けたその建物はあった。煉瓦造りの古めかしい洋館。その向こうに見えるのは、霧雨のせいで薄墨に滲む山々。
 懐かしい景色だ。ほんの二月ふたつきほど前まで自分が生活していた寮を眺め、名前は思う。ずいぶんと他人事のように。思ってから、二度と戻るつもりはなかったのだということに気づかされる。
 この学校での生活が厭だったのではない。楽しかった──のだと思う。本当に。とても、楽しい生活だった。
 けれど違和感は拭えなかった。例えば授業を受けている時、或いは食堂で夕食を摂っている時、夜眠りに就く時──折に触れ、その違和感は首をもたげた。自分が自分でないような、そんな感覚。長い長い夢を見ているのだ。時々、本気でそう思った。
 楽しいのに悲しくて、心地いいのに寂しかった。だから自分が本当は何者であったのか──五条悟と出会って、得心がいった。記憶は戻らないけれど、足許が不確かなのは変わらないけれど、でも予感が予感で終わらなかったことに安堵した。
 だからこの学校に帰ってくるつもりもなかったのだ。
 列車に揺られ、乗り継いで、二時間ほどが経ったろうか。地方都市のそのまた奥地、裏手に山を控えた場所に、名前の通っていた女学校はあった。今どき全寮制なんて珍しい。それを知ったのも、学校を出てからだった。
 当時の名前にとってはごく当たり前の環境であったけれど、世間一般ではいわゆる【お嬢様学校】と呼ばれる場所だったらしい。そんなところに記憶のない自分がどうして通っていたのだろう?疑問は生まれるが、今さらだ。その答えを知る術を、今の名前は持たない。
 名前は寮に取りつけられた呼び鈴を鳴らした。殆ど使われていないそれは、錆びた音を立てる。どことなく、不吉な音を。そのあとで管理人室から姿を現したのは、ひとの良さそうな顔をした老婆だった。

「あらぁ、名前ちゃんじゃない。どうしたの?」

「お久しぶりです、寮母さん。少し、忘れ物をしてしまって」

 あら、そうなの。たいへんねぇ。どう?新しい学校にはもう慣れた?──ええ、お陰さまで──そう、よかったわ……
 世話焼きの寮母はシワだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑う。
 よかった、よかったねぇ……あなたがいなくなって、寂しい思いもしたけど、でも元気な顔が見れてよかった──

「いつでも帰ってきてくれていいんだからね。私たちは家族みたいなものなんだから」

「……ありがとうございます」

 名前は微笑んで、一礼した。……さよならを、言うために。

「でももうここに帰ることはありません。そう、決めましたから」

 だからもう会えないよ。さようなら──私を家族と呼んでくれたひと。

 ──真人くん、

「……寂しくなるね」

 寮母は最後まで笑っていた。寂しくなるね。そう言いながら、笑っていた。笑っていた、けれど──

 少しだけ、本当に少しだけ──寂しそうに見えたのは、名前の願望が見せた幻だろうか。

 寮母を玄関ロビーに残し、名前は階段を上がった。上がりきるまで、視線を感じていた。
 でも振り返らなかった。気づかないふりをした。それが最善で、最良なのだとわかっていた。わかっていたけれど、鼻の奥がツンとした。

 寂しくなるね──そう言いたかったのは、私だって同じだよ。





 階段を上りきり、廊下を進む。奥から三番目の部屋、ノブに手をかけると、抵抗ひとつなく扉は開いた。不用心な──それともこうなることを予期していたのか。
 後者であると理解したのは、部屋のなかにひとりの少女が佇んでいたからだ。カーテンの閉め切られた室内。日暮れにはまだ早いのに──そのはずなのに、いやに暗い。振り返った少女の目が爛々と輝いて見える。

「あぁ、名前、やっぱり帰ってきてくれたのね」

 そう言って。
 名前のかつての同級生は、ルームメートは、友人は。暗くて無機質で冷たい空気のなか、二段ベッドと学習机の間で、うっそりと笑んだ。
 その後ろにはサイドテーブルがあった。花の一輪が生けられた花瓶が置かれていた。青色の、小さな花びらが揺れていた。
 その、花の名前は──あぁ、どうして忘れていたんだろう──私の罪の証、忘却を責め立てる花言葉。

 季節外れの勿忘草が一輪、悲しげに咲いていた。

「あなたが私を、私たちを忘れるなんてあり得ない。わかっていたわ、わかっていたの、あなたのことならなんだって。きっと帰ってきてくれるって、そう信じてた」

 少女はわらう。瞳の奥を燃やして。不自然なほど冷静に、楽しげに、抑えた声音の裏に歓喜を滲ませて──名前を迎え入れるように両手を広げる。
 けれど名前は歩み寄らなかった。彼女のことは友だちだと思っているけれど。今でも感謝しているけれど。それでも、否定しなければならない。

「……ごめんなさい。私にはもう、他に帰るところがあるの」

 告げると、少女の目は見開かれた。

「どうして。だって、帰ってきてくれたじゃない。制服だって……、何もかも、変わらないのに」

「うん、でもね──」

「……やっぱり、あの男がいけないんだ」

 説得しようとした名前を遮って、低く、とても低い、圧し殺した声が室内に落ちた。
 けれど次の瞬間、顔を上げた彼女は、

「そうなんでしょう。あなたを連れ去った、あの男!見るからに軽薄そうだった。私にはすぐにわかった。転校するなんて嘘でしょう?騙されているんだわ、あなた。だから嫌なの、厭なのよ、男なんか……ほんとうに、」

 けがらわしい──と、彼女は吐き捨てるように言った。忌々しいと、唾棄すべきものと、憎悪をみなぎらせて言い切った。
 名前は信じられない気持ちで友人だったはずの少女を見つめた。そうすることしかできなかった。入学した当初から親しくしてきたけれど、こんな顔を見るのは──まるで何かに取り憑かれたみたい──はじめてだった。
 いったい何を──何を言えばいいんだろう。名前は「そんな……」と唇を震わす。
 男性すべてがけがらわしいものだなんて、そんなことはない。あり得ない。だって、彼は優しかった。記憶のない私を肯定してくれた。
 だから目の前の少女にも認めてほしかった。友だちだと、今でも思っているから。

「……あの人は、いい人よ」

「聞きたくない!」

 けれど迸るのはヒステリックな叫び声。雷鳴の轟。少女の紅い唇が、歪み、引き裂かれる。惨たらしくも、凄惨に。その頬は上気し、掻きむしられた髪はまるで獣のようだった。
 その顔で、その表情で、彼女はまた、わらった。

「庇わないで、いい人だなんて言わないで、あなたの口で、声で、呼ばれるのは私だけでいい。私だけがいいわ」

 雨が窓ガラスを打ちつける。打ち据える音が、室内に降り注ぐ。ごうごうと嘶き、喚き散らす。
 少女の背後には深く濃い、闇だけが広がっていた。

「ねぇ、またこの部屋で二人で暮らしましょう?楽しかったじゃない。充分だったじゃない。私は、あなたがいればそれでしあわせだったのに」

「……ごめんなさい」

「謝ってほしいんじゃないの。私は──」

「ごめんなさい。本当なら、あなたはきっと、誰かを呪うような人じゃなかった」

 これは私の罪だ、と名前は思う。他の誰のせいでもない、私の罪。だから名前は剣を手にした。
 十羅刹女のひとり、毘藍婆の剣。結ばれた縁を切るそれを、今度は友人だった少女に向ける。
 ごく普通の少女でしかなかったはずの彼女が、どうしてこのような呪詛を放てたのか。本当なら、それを聞き出すべきなのだろう。例え時間がかかったとしても。彼女を捕らえ、高専に連れていく。それが呪術師として正しい選択だ。
 けれど名前は少女の友だちであることを選んだ。一刻も早く、彼女を解放したかった。こんなのは偽善で、エゴで、独りよがりでしかない。そうわかっていても、わかっていたけれど、──忘れてしまった方がいい記憶もあるのだと、名前は思った。

「……私を殺すの」

 煌めく白刃に、少女はたじろぐ。
 けれどすぐに落ち着きを取り戻して、「それもいいかもね」と目を細めた。あなたに殺されるなら、それでもいい。安らいだ顔で呟く彼女に、胸が痛む。

「ごめんね」

 あなたの願いを聞いてあげられなくて。

「いいのよ。私もすこし、つかれちゃった」

 あなたの想いに気づいてあげられなくて。

「……ほんとうに、ごめんなさい」

 あなたが大切にしてくれた記憶を、想いを、何もかもを奪う私を、どうか赦さないで──

 刃が少女の胸に沈み込む。少女は微笑みながら瞼を下ろす。力の抜けた身体を、名前は抱き止める。
 雨音が響いていた。それは一段と激しさを増し、名前の身体を押し潰した。
 痛かった。傷口に雨水がしみて、しみわたって、痛みが走った。傷はずくずくと化膿し、どこまでもどこまでも名前を苛んだ。心も身体も、何もかもがいたい。いたくて、泣きわめきたくて、誰かに抱き締められたくて、

「……どうしていつもひとりで解決しようとするのかなあ」

 声がした。呆れたような、責め立てるような、そんな調子の声が、名前の身体を包み込んだ。

「さとる、くん……」

「ああ、もう、泣かないでよ。叱るに叱れないじゃん。僕以外の他人に泣かされるなんて、って思ってたのにさ」

 背中に感じる温もり。抱き締めてくれる腕。優しい、声。
 そのすべてが心地よくて、嬉しくて、いたくて、罪悪感に胸が軋む。離してほしい。離さないでほしい。どこかにいって、どこにもいかないで、ひとりにしないで──そばにいて。
 相反する感情がせめぎ合い、息がつまる。うまく呼吸ができない。罪の重さに死んでしまいたくなる。

「大丈夫だよ、名前。僕は絶対、どこにも行かないから。逃がしてなんてやらないから」

 けれど名前を呼ばれると──もうだめだった。突き放せなかった。自分から離れることなんてできなかった。縋って、縋りついて、頷くことしか名前にできることはなかった。
 雨はまだ──止みそうにない。