呪詛V


 泣き疲れたのか、それとも精神的な負担が大きかったのか。……或いはその両方か。
 脱力した名前の体を横抱きにして、五条悟は高専へ向かう。
 思えば再会の日もそうだった。青ざめた頬を撫でるが、反応はない。そんな当たり前のことに落胆する。おもしろくないなぁと思ってしまう。

 ──名前が俺以外のことを考えられなくなればいいのに。

「……私は守ってやれって言ったはずなんだけど」

 医務室を訪ねると、腐れ縁の家入硝子には顰めっ面を向けられた。それでも診察はしてくれるのだから対応としてはかなりいい部類だ。
 無茶ばかりしていた学生時代、夏油と一緒に治療を頼みに行ったらドアすら開けてもらえなかったこともある。時間外労働に厳しいのは七海とどっこいどっこいといったところ。結局その日は朝まで待ちぼうけを食らわされた。……今となってはいい思い出である。

「守らせてくれないんだもん。思い通りにならなくて困っちゃうよ、ほんと」

「お前が不甲斐ないんだろ」

「ひどっ」

 一通りの検査を終え、硝子は「異常なし」と診断を下した。
 「過労だろ」精神的な、とは言葉にされずともわかっていた。失われた記憶、慣れない環境下での新生活。どれもこれも彼女の負担にはなっていただろう。
 けれど一番は友人だと思っていた少女に呪詛を放たれたことだ。

「その子に呪詛のやり方を吹き込んだ輩がいるってことか」

 医務室のベッドに名前を横たえ、硝子は呟く。
 「相手の目星は?」問われ、五条は首を振った。
 こんな真似をするのは大方呪詛師と相場が決まっている。だがただの女学生相手に呪いを教えて、いったい何の得がある?少女の周りで不審な金の動きは見られなかった。

「だから直接聞くしかない、って思ってたんだけど」

「名前に先を越された、と」

「そうならないよう高専に預けたつもりだったんだけどなぁ〜……。まぁ真希たちが名前に協力するのは何となく読めてたけど。なんたって名前は人誑しだから」

「というか人望がないんだろ、お前に」

「さっきから僕への当たりが強くない?」

「元々こんなもんだ」

 そうかなぁ、と首を捻ったけれど、深くは考えなかった。
 別にどっちだっていい。どちらでもさしたる問題はない。硝子は友人であっても名前じゃない。名前じゃないから、どちらでも構わない。それだけのことだ。
 ……あの少女にとっての名前もそうだったのだろう。名前だけが特別だった。少女の部屋から回収した日記や、呪詛に使われた道具はまだ五条の手元にある。
 少女が呪詛に使ったのは、名前の爪や髪の毛だった。

「爪や髪、か。ずいぶん古典的な呪い方だな」

「逆に言えばそれだけ効果が保証されてるってことだからね。初心者としてはいい判断だと思うよ。敵ながらあっぱれだね」

「敵って……、相手は女子高生だぞ」

「歳は関係ないよ。名前に手を出すってことは僕と張り合うってことに他ならないんだから」

 名前を愛するのも、呪うのも、僕だけでいい。
 そう思っているから、彼女の爪も髪も全部五条が整えていた。そんな理由からだとは露知らず、安心しきった様子で身を委ねてくる名前はいっそ愚かですらある。
 だからこそ愛おしいとも思うのだが。

「かわいそうな名前」

 硝子はコーヒーを飲みながら目を細める。哀れみの眼差しを受け、しかし名前が気づくことは決してない。
 昏々と眠り続けることは彼女にとって良いことだったのだろうか?何も知らず、知らされないままに。箱庭に生きることは、果たして不幸なのだろうか。

「どうしてこう変態に好かれやすいんだろうな。自分の切った爪や髪を収集するやつなんて、身の周りに何人もいる方がおかしいだろ」

「いや僕のはただの収集癖とは違うからね。名前を守るために管理してるだけだから」

「へえ?どうでもいいけど、その言い訳が警察に通じるといいな」

「僕が警察に捕まることはないからその心配はいらないよ」

「誰も心配なんてしちゃいないけどさ。頼むからその恵まれた術式を犯罪に使ってくれるなよ」

 でもその恵まれた術式をもってしても名前を守ることはできなかった。十年前も、今日も。啜り泣く名前の声が、今も耳から離れない。
 最強が聞いて呆れる。五条は喉の奥でちいさく笑った。最強であっても、万能ではない。何もかもを救うことなどできやしない。

 ──いや、むしろ守れなかったものの方が多いか。

「無下限なんて、精々傘の役割くらいしか果たしてくれなかったよ」

 降り止まない雨音を背に、五条は名前の頬に手を添える。
 雨粒には濡れていないはずなのに、名前の肌は恐ろしいまでに冷えきっていた。





 名前が目を覚ましたのはそれから一時間後。すっかり陽は落ち、しとしとと降る雨のか細き囁きだけが聞こえてくる。

「……雨、やまないですね」

 ベッドで身を起こした名前は呟く。そのかそけき声は木々の葉擦れ。ともすれば聞き逃してしまいかねない呟きだった。
 その目は何を映しているのだろう?「そうだね」と答えながら、五条は茫洋とした視線の先を思う。難しいことなんて何も考えなくていいのに。なのに今の名前からは深い悲しみの匂いがした。

「ごめんなさい、悟くん。あなたにも迷惑をかけてしまいました」

「迷惑なんかじゃないけど。でも、……そうだね、今回は少し、ひやひやさせられたよ」

 広いベッドの上。五条が乗り上げると、軋む音がした。
 「……ごめんなさい」まるで名前の気持ちを代弁しているかのように。軋む音は名前の心臓からも聞こえてきた。

「これは私の問題だから。だから私が、私ひとりが片をつけなければ、と……そう、思い上がっていました。……自分がこんなに弱い人間だとは思わなかった」

 五条は否定も肯定もしなかった。ただ黙って、名前の髪を梳いていた。
 長く艶やかなその髪の、青みがかった黒の色。光に透かすと、なおのこと美しい。少女が執着し、宝物のように保存していた理由が少しだけわかる。
 わかるけれど、でもそれだけで満足しておけばよかったのにとも思う。名前自身を求めなければ、呪いなどに手を出さなければ──思い出は美しいまま、永遠のものとなったのに。
 けれど五条悟に譲る気はなかったし、名前が選んだのも友人の少女ではなかった。だから五条は悲しみに打ちひしがれる名前を抱き締めた。自分のせいで苦しむ彼女を見るのは悪くはない気分だった。

「だから言ったのに。これからはちゃんと僕を頼るんだよ?遠慮される方が僕にとってはずっと悲しいことなんだから」

「はい、……ええ、その通りですね」

「約束できる?」

 覗き込むと、名前はちいさく笑った。

「……はい、約束です」

 絡み、結ばれた小指は呪いだ。彼女を永遠に縛るための呪い。そうとは知らず、微笑む名前が憎らしくも愛おしい。
 「破ったらどうなるか知らないからね」「どうなるんですか?」「ふふ、ないしょ」教えてなんてあげないよ。五条は微笑みの下で思う。
 同じところに堕ちてくれるまで、教えてやるつもりはない。この憎しみも愛おしさも、すべて。すべて、僕だけのものだ。

「どう?もう起きられる?お腹空いたでしょ?」

「はい、……いえ、許されるならもう少し、このままで」

 遠慮がちに。乞うるのはしかし声だけではない。
 五条が抱き寄せた体、名前はその頭を僅かに寄りかからせる。肩口に顔を埋め、指先は縋るように五条のシャツを掴んでいる。
 その、甘えるような仕草に、五条は目を瞬かせる。『珍しいね、名前がそんな可愛いこと言うなんて』──そう言いかけて、呑み込む。
 言ってしまったらたぶん、名前は離れていってしまったろう。ひとの気持ちがわからないと散々言われてきたけれど、これだけは何となく察しがついた。
 だから揶揄う代わりに抱き締める力を強める。

「いいよ、許してあげる」

 約束を破ったことも、俺の前から姿を消したことも、すべてを忘れてしまったことも、ぜんぶ。
 ぜんぶ許してあげると言ったら、この腕の中にいてくれるだろうか。永遠に喪われることはないのだろうか。

「……あの子は大丈夫でしょうか」

 なのに名前は外の世界のことを気にかける。隔たりの向こう側に想いを馳せる。
 あの子──呪うほどに名前を愛した少女。彼女の日記には男性への憎悪と共に、名前への真剣な想いが綴られていた。
 しかしそれも今朝までのこと。
 十羅刹女の剣で切りつけられた少女は傷を負う代わりに、名前への感情を喪った。名前という友人がいた、その記憶は残っていても、彼女に対する激情は少女の中に微塵も残されていない。思い出すことも永遠にないだろう。
 それが名前なりの愛情で、友人だった少女へのせめてもの償いだった。

「忘れることのつらさを私は知っているのに、彼女にもそれを押しつけてしまった。その方が彼女のためになると、勝手に決めつけて」

「どうかな。呪いなんかと関わった記憶、忘れた方がよかったと僕も思うよ。ヘタに呪詛師との繋がりが生まれても彼女のためにはならないし」

 ……なんて。
 大人らしく諭してみたけど、正直なところ一般人の少女がどうなろうがさしたる興味はない。それも自分から呪いに手を出した人間のことなんて、それで何が起ころうと自己責任。
 自分のケツくらい自分で拭ったら?常であったならそう言っただろう。
 ──いや、本音としてはもう少し痛い目を見た方がいいんじゃないかとすら思っている。

 名前を呪った少女は名前によって呪われた。……それが少々羨ましく、妬ましい。

 そんな薄暗い感情を押し隠して、五条は優しく微笑んだ。

「大丈夫だよ。たとえ名前がどんなに罪深くとも、もしもまたすべてを忘れてしまったとしても、僕はここにいるから。ここでずっと待ってるから」

「悟くん……」

 尤も、離してやる気なんてさらさらないけど。
 「ありがとうございます」と潤んだ声で言って、名前も口許を緩めた。その頬には赤みが差し、健康的な色合いに戻っている。触れれば温かいし、伏せられた睫毛は気恥ずかしそうに震えているのが見てとれた。
 そんな些細な反応にすら心は満たされるのだから不思議だ。笑みを深め、今度は正面から名前を抱き締めた。

「だからどこにもいかないで。俺以外のことなんか考えないで──ずっとこの腕の中にいて」

 呪力の伴わないこの言葉には何の効力もない。ただの願いでしかなく、約束したとしても守られる保証があるわけじゃない。
 けれど名前が「はい」と応じたことに──彼女の手が背中に回されたことに──途方もない安堵を覚えた。
 たかが口約束なのに。この気持ちの一欠片ですら名前は理解していないだろうに。それでもなお安堵と喜びとがこみ上げて、少しだけ泣きたくなった。