記憶の片隅で、ちりんと風鈴の音が響く。
黄昏時。夕日の中に沈む町並み。その向こうから聞こえてくるのは子供たちの賑やかな笑い声。初秋の風が、仕舞いそびれた風鈴を揺らす。
それらを背に、穏やかな声がそっと語りかけてくる。
『……ええ、キミが願いさえすれば。きっとキミは、大切なものを守ることのできる呪術師になれるでしょう』
そこで、伏黒恵は目を覚ました。
「ここは……」
懐かしい夢を見た。そのせいもあって、寝起きの頭には霞がかかっている。見慣れない天井、嗅ぎ慣れない木材の匂い。遠くで囀ずる鳥の声はのどかで、引っ越し作業に疲れた体を再度の安眠へと誘おうとする。
が、時計を見やればいつもの起床時間より一時間も遅い。今は春休み。急ぎの用事もないが、だからといって惰眠を貪るのは性に合わない。
欠伸をひとつ。それを機に、恵はベッドから立ち上がる。軋むそれも実家のものとは違う。高専の寮、備え付けの家具。昨日引っ越してきたばかりの部屋はまだよそよそしい空気がする。……まぁ、そんなのは気のせいだろうが。
そんなことを考えながら身支度を整え、鏡の中の自分と向き合う。
……と。
「……誰だ?」
誰も訪ねてくるはずのない扉がノックされる。規則正しく二回、その後には沈黙。ピクリとも動かない扉を見つめ、恵は訝しむ。
これが後見人を自称する五条悟だったら遠慮も配慮もなく扉をこじ開けてきただろう。けれど他に訪問者の心当たりはない。──となるとこれは?
内心身構えつつ、扉に手をかける。
「わ……っ」
ちいさく息を呑む声がした。と同時に、開かれたドアの先に待ち受けていたものと視線が交わる。
それは少女だった。同じくらいの年の頃の、恵より幾らか身長の低い少女。同じ高専生であろうことは身に纏う制服でわかる。
だがだからといって部屋を訪ねてくる理由にはならない。特に知り合いというわけでもなさそうだし──……?
引っ掛かりを覚え眉を寄せた恵の前で、少女の赤い唇がゆるりと動く。
「貴方が伏黒……伏黒恵くん?」
『恵くんはきっと、誰より優しい呪術師になるのでしょうね』
重なったのは記憶、夢の中で聴こえた声。遠くでちりんと鈴の音が響く。
「名前……?」
その名を口にしたのはいつ以来だろう?いつからかパタリと姿を見せなくなったその人が、懐かしい思い出になるのにどれほどの年月がかかったか。
けれど今、名前を呼んだ。ただそれだけで、懐かしい思い出は色鮮やかなものとしてよみがえった。今まで仕舞いこんでいたのが嘘のように記憶が溢れ出した。
──あぁ、そうだ。何もかも覚えている。慈愛に満ちた微笑みも、頭を撫でる柔らかな手のひらも、──安らぎを与えてくれる体温も。ぜんぶ、覚えているから。
「あんた、名前だろ。昔、五条先生と一緒によくうちに来てた、」
「私を……覚えているのですか?」
そこで恵は『はた』と気づく。何かがおかしい。何かが間違っている。何か──なにか、へんだ。
──そうだ、この人は『何もかも』変わっていないんだ。
最後に見た時から十年近くは経っているはずなのに。なのに彼女は記憶にある姿のまま。切り揃えられた前髪も、その下の怜悧な黒い瞳も、肢体を覆う学生服も。すべてが恵の知るものと寸分違わぬ姿かたちをしていた。
「……貴方も、かつての私をご存知なんですね」
そう言って頼りなげに微笑んだ彼女は、記憶よりもずっと小さかった。
昨晩、寮に新入生がひとりやって来た。それを聞いた彼女は、どうやら新入生がこの寮で迎える初めての朝をどう過ごすのか気になったらしい。
朝食の席でそう語ったのは、恵もよく知る禪院真希だった。
「何もない山ん中、右も左もわからなくてまともに朝メシ食えるのかって。恵はそんな殊勝なタマじゃねーのにな」
まったく、お節介焼きなのは相変わらずか。そういうところは記憶がなくなっても治らないらしい。
恵は目の前に置かれたベーコンレタスマフィンを見て、それから斜め前に座る名前に視線をやった。
「でもやっぱり、食事はみんなで食べた方が美味しいですよ」
「しゃけしゃけ」
「うん、僕もそう思うよ」
寮内、共有スペースである食堂には和やかな空気が流れている。のんびりと笑う名前も、彼女に同意を示す狗巻と乙骨も。『すこぶる呪術師らしくない』と恵ですら思うのだから、術師の世界をよく知る真希が「呑気なもんだな」と呟くのは当然といえば当然だった。
……尤も、そう言う真希とて禪院の家では決して見せない顔をしているのだが。
「しかし驚いたな。まさか恵が名前と知り合いだったとは」
話を戻したのは欠伸を噛み殺したパンダだった。「いったいどこで知り合ったんだ?」そう続ける彼の目には好奇心の光が瞬いている……ように思える。
パンダなのに詮索好きなのは人間と同じなのか。少し失礼なことを考えつつ、恵は「どこってわけでもないですけど」と仕方なしに口を開いた。
「むかし、五条先生の紹介で、少し」
嘘だ。
「なるほど、悟の紹介か」
「あはは、変わらないんだね、五条先生は」
「つーか恵の言う昔っていつだよ。そん時からもう名前を連れ回してたのかよ、あのロリコンは」
「いえそれは、」
「たぶんそういうことになるんじゃないですか」
何事か言いかけた名前を制して、恵は淡々と言葉を重ねた。
「まぁでも、俺もそこまで親しくしてたわけじゃないので、五条先生の真意まではわかりませんけど」
嘘だ。
呪術師としての知識も心構えも、恵の師となったのは五条悟だけではなかった。彼女からも多くを学んだ。多くのことを彼女は教えてくれた。心から信頼できる大人がこの世界にも存在するのだと、初めて教えくれたのは彼女だった。
──だから、
「真意、ねぇ」
「そんなもんあのバカにあるのか?」
「明太子」
「真希さんに狗巻くんまで……。それじゃ五条先生がいつも考えなしみたいじゃない」
「だからそう言ってるんだよ、私は」
だから、言わなければいい。
本当のことなど──彼女の姿かたちが十年前と少しも変わっていないことなんて。打ち明けることに躊躇いがあるのなら、言う必要などないと恵は思う。
誰にだって、触れられたくないことのひとつやふたつ、あるものだ。
「……ありがとう、伏黒くん」
食後の片付けを手伝っていると、隣で食器を洗っていた名前が静かに囁いた。
「ありがとう、貴方は優しい人なんですね」
──恵くんはきっと、誰より優しい呪術師になるのでしょうね。
「……別に」
何が、とは言わなかった。恵も、名前も。それで充分だったし、それ以上に必要な言葉など存在しなかった。
「あんたの事情は知らない。……けど、無理に話すことはないと俺は思う」
「……そう、かな。そう、思ってくれるかな」
「たぶん、──いや、絶対。……それはあんただってわかってるだろ」
「……うん、そうだね。ここの人はみんな、優しいから」
ぽつりぽつり。落ちる言葉の向こうで水音が鳴りやまない。ざあざあと降りやまぬ雨のように。
その音にかき消されてしまいそうな声で、名前は呟いた。
「……優しいから、余計に胸が痛むよ」
恵は聞こえなかったふりをした。
それが正しかったかはわからない。ただ今の彼女を自分が慰めるのはなんだか正しいことではないような気がした。
──俺は、五条先生じゃないから。
──五条先生ではないけど、でも、それでも、
「……昔、俺もあんたに助けられたことがある」
名前が顔を上げる。視線が己に降り注がれる。その、気配だけを感じる。
けれど恵は目を向けなかったし、食器を拭く手を止めることもしなかった。何でもない顔で、何でもない調子で、淡々と言葉を続けた。
「だから……ってわけじゃない、けど、あんたが困ってるなら俺も助けたい。あんたと、同じように」
誰より優しい呪術師になるだろうね、と言ったのは彼女だった。十年前の名前。それは今目の前にいる彼女とは違う。違う記憶を持った、別人だ。
──でも、バカみたいにお人好しなのは変わらないから。
「……さっき言ったこと、訂正するね。キミは優しい人だよ、絶対、間違いなく。私が保証する」
「だから、そういうんじゃないって」
だから、思い出は胸に秘めておこう。彼女が困らないように、苦しまないように。あの穏やかな夕暮れも、清らかな鈴の音も、柔らかな声も、微笑も、その温もりも。
すべて胸にしまって、恵は懐かしい横顔から目をそらした。