主があなたを守られますように


 公安の人員が減っても悪魔は待ってくれない。
 ──いなくなったひとの分まで、私が頑張らないと。
 そう意気込んで登庁したのだけれど。

「あれ?今日はお休みじゃなかった?」

「そう……でしたっけ?」

 マキマに首を傾げられ、名前も同じ動作を返す。まるで合わせ鏡。けれど今日という日に対する認識は真反対だった。
 「そうだったと思うよ」マキマは書類の山を探り、目を細める。「うん、やっぱりね」昨日今日と有給になってるよ。彼女は笑みを含みながらそう言った。

「疲れてるのかな?このところ忙しかったもんね」

 気遣わしげに窺う蠱惑の目。マキマのそれに、名前は「そうなんですかねぇ」と曖昧に頷いた。いつもいつも、彼女の声音には不思議な説得力がある。

「でもまさか休日出勤してしまうとは」

「ふふ、それだけ仕事熱心ってことだよ、きっと。それにあんなことがあったばっかりだもん。仕方ないよ」

 あんなこと──マキマが口にしたその言葉が意味するものはひとつしかない。過ぎ去ったはずの出来事に、しかし名前は僅かに眉を寄せる。
 公安のデビルハンターを狙った銃による襲撃。事件が片付いたのは一昨日のことで、昨日は特異課全員が休暇を与えられていた。
 『君たちのお陰で被害は最小限に食い止められました』ありがとう、と微笑むマキマの姿はまだ記憶に新しい。しなやかな体躯から香るのは、熟した果実の匂い。ゾンビの醜くて穢らわしい感触や悪臭は彼女によって上書きされた。
 それにその前の晩には早川家で打ち上げをしていたからちょうどよかった。名前は午前いっぱいをダラダラと過ごして、午後には日課のパトロールに向かうアキにくっついていった。真面目な彼は既に銃の悪魔の討伐戦を見据えているのだ。
 だから名前も相応の実績を収めなければならない。討伐戦に参加できるのは一握り。銃の悪魔へ恨みがあるわけではないけれど、彼をひとりで行かせるわけにはいかなかった。彼に置いていかれたくはなかった。手の届かない場所へ行ってほしくなかった。……すべて、名前自身の身勝手な望みである。
 だからまだ誰にも言っていないし、マキマにも話すつもりはなかった。

「今日はゆっくり休んでおいで。また明日からバリバリ働いてもらうから」

「……わかりました」

 そんな意気込みなど露知らず。慈愛に満ちた眼差し、言葉を向けてくれるマキマに、抗う術はない。
 後ろ髪引かれる思いで名前は部屋を出た。彼女の視線を背中で感じながら。
 ビルを出ると、頭上には清々しい青空が広がっていた。地平線にはソフトクリームのような背の高い雲が伸びている。夏が近い。陽気な春は瞬く間のうちに過ぎ去った。

「──名前?」

 名前を呼ばれた。そんな気がして、町ゆく人々に目をやる。
 見知った匂い。その人は、目が合うとにっこりと邪気のない笑顔を浮かべる。
 「吉田くん、」民間のデビルハンターであり、──数少ない、生きてる人間の友だち。こんなところで会うとは思わなかったから、名前は目を丸くする。

「奇遇だね。公安に何か用事でも?」

「うん、ちょっと呼ばれてね。この間引き渡した悪魔についてもう少し詳しく聞きたいって」

 電話で済ませてくれればいいのにね。肩を竦める彼に、名前は笑う。デビルハンターとはいえ、公務員であることに変わりはない。しょせんはお役所仕事。……といった面も多分にある。

「名前は?これから巡回?」

「そのつもりだったんだけどね、お休みになっちゃった」

 ヒロフミの真似をして、肩を竦めてみせる。と、彼は何事か考え込む仕草。
 「ってことは暇なんだよね?」その問いを肯定するのは何だか寂しいひとのようで気が進まない。
 けれど事実は事実。名前は「まあね」と苦笑する。デビルハンターになって数年、その間できた友人の殆どが鬼籍に入ってしまった。だからこそ今も生きている人たちには長生きしてほしいと切に願う。

「それじゃあオレに付き合ってよ。大丈夫、悪いようにはしないからさ」

 そのうちのひとりである彼に、名前は頷き返す。
 人間ではないけれど、寂しい【モノ】であることは確かだ。友人の誘いはよほどのことがない限り断らないようにしている。
 ──そうでないと、きっとあとで後悔してしまうから。

「ならここで待ってて。すぐ用事済ませてくるから。絶対、ここにいてよね」

「そんなに繰り返し言われるとまるで私が信用されてないみたいじゃない?」

「そう感じるってことは思い当たる節があるってわけだ」

 可愛いげのないことを言って。けれど彼は振り返り振り返り、ビルの中へ向かっていった。「勝手にどっか行かないでよ」と念押しするのも忘れない。名前は手を振りながら微笑ましい気持ちになった。

 ……弟がいたら、こんな感じだろうか。

 人は自分の手に入らないものを求めるというけれど、それは悪魔だって同じだ。悪魔だって、空の蒼さに焦がれることもある。
 夕陽の朱色より、月明かりの白銀より。何より澄み渡る蒼穹の色にこそ、切なさが込み上げる。そんな日だってあるのだ。
 ──悪魔にも、心はあるのだから。

「どうしたの、ボーッとして。外宇宙と交信中?それとも悪魔に憑依でもされた?」

 思索に耽っていると、あっという間に時間は過ぎ去る。
 先程見送ったはずのヒロフミが、今はもう名前の目の前に立っていた。そうしながら小首を傾げる彼に、「何でもないよ」と笑う。少し、感傷的になっていただけだ。

「でも後者は冗談に聞こえないな」

 それが今年の春に上映された、とあるアメリカ映画から引用したものであることは察しがついたけれど。悪魔だなんだとデビルハンターが口にすると、途端にフィクションがフィクションでなくなる。ヘタな勘違いを招きかねない。
 そう名前が言うと、彼は「名前だけに伝わればいいよ」と返す。そうしてから「ほら行こう」と差し出された左手。名前は眩しいものを見るように目を細める。
 その手に導かれていると、まるで自分まで彼と同じ世界を生きているみたいな気にさせられた。

「今日はどこに連れていってくれるの?」

「さてどこだろう?行きたいところはある?」

「お任せするよ、キミとならどこだって楽しいもの」

「じゃあとっておきの場所に連れてってあげる」

 悪戯を企てる子どもみたいな声音、表情に、名前までワクワクしてくる。今日は特別な一日になりそうだ。そんな予感がした。

「さ、着いたよ」

 『とっておきの場所』まではさして時間はかからなかった。

「ここは……」

「オレの通ってる学校。まぁ日曜だから授業はやってないんだけどね」

 説明を受けながら、名前は目の前の建物をまじまじと見つめた。
 映画やドラマの中でなら何度も見てきた。学校、校舎。画一的なそれは、今目の前に聳えるものとも共通している。世間一般にありふれたもの。
 ──けれど【彼の通う】という情報が付加されると、途端に何か特別なもののように思えた。
 感慨と共に眺める名前を、しかしヒロフミは馬鹿にしなかった。「そんな大層なものじゃないけど」とおかしそうに笑って、けれど名前を見る目は温かなものだった。

「それじゃ中に入ろうか」

「えっ、……いいの?こういうところって普通、部外者立ち入り禁止とかそういうものじゃない?」

「いや?わりとその辺は適当だよ。それに今回はオレも一緒だし、デビルハンターとしてパトロールに来たって言っとけば問題ないでしょ」

「うーん、それはそれで問題があるような……。そんなに防犯意識が低いんじゃ心配になってくるよ、逆に」

「まぁまぁ、気にしない気にしない」

 人目も憚らずに──尤も、彼は在校生なのだから疚しいことなどひとつもないのだが──歩き始める彼に引きずられるようにして、名前も足を踏み入れる。
 神聖なる学舎。ある種の憧れと、同時に諦めの象徴のひとつ。おっかなびっくり、校門をくぐり、辺りに視線を走らす。
 傍らに広がるグラウンド。ユニフォームであったり運動着であったりを着た生徒たちが元気よく動き回っている。
 日曜の午前中だというのに、こんなにも生徒がいるなんて。驚きを隠せない名前に、ヒロフミは小さく笑う。

「休日でも関係なしに張り切ってるのは一部の運動部だけだけどね」

「なるほど。……キミはああいうの興味ないの?見たところ男の子の方が多いみたいだけど」

「オレにはほら、民間人を悪魔から守るっていう立派な役目があるからね」

「それなら──」

 公安に入ればよかったのに。
 そう言いかけて、しかし続く言葉は喉の奥で溶けた。
 思い出されるのはこの数年の間にすれ違っていった人々の面影。今ではもう遠くに過ぎ去った、愛おしい思い出たちだった。

「それなら?」

「ううん、なんでもない。何か言おうと思ったんだけどね、忘れちゃったよ」

 黒目がちな目。その視線から逃れ、名前はグラウンドへ顔を向ける。
 彼と一緒だったらこんな仕事でも楽しめるだろう。本当に、心からそう思う。幻想はあまりに甘美で、色鮮やかで、──だからこそ一緒にいたいとは言えなかった。
 本当はここまで入れ込むつもりなんてなかったのにね。名前は内心で自嘲する。
 程よい距離感のままで。そんな当初の目論みはとうに崩れ去っていた。そうであることを改めて突きつけられた。親しくなりすぎてはいけないとわかっているのに、繋がれた手を離すことはできなかった。
 ……自分からは、どうしても。