主があなたを恵まれますように
リノリウムの廊下、白い壁。反響する足音、冷ややかな空気。校内に満ちる静寂は何だかよそよそしく、込み上げるのは疎外感と閉塞感。どこかで味わったことのある感覚だ、と名前は思う。そしてすぐに心当たりへと行き着いた。
──そうだ、病院だ。病院の、鬱屈としたあの空気、あの感覚。ざわつく胸に、名状しがたい不安や焦りを覚える。
生まれいずる苦しみも、死する喜びも、私は知らないから──
「ここが俺の教室。……って言ってもご覧の通りもぬけの殻、見るだけじゃ面白くはないだろうけどね」
彼が足を止めるのに合わせ、名前は視線を巡らす。
前後に広がる通路、違いの見受けられない部屋。永遠かと思われた回廊の途中、その教室はあった。
そこも今まで見てきたいくつもの部屋と同じ造りをしていた。部屋いっぱいに敷き詰められた机と椅子、等間隔に並ぶそれはさながら小さな檻のよう。そのひとつひとつに座る子供たちを想像して、名前は内心身震いする。
「……思っていたのと違うな。なんだかとっても窮屈そう」
「それはなに?精神的な話?それとも肉体的な?」
「うーん……。どっちも、かな」
「まぁね、その感覚はわからなくもないよ。学校なんて堅苦しいものだし、俺がそう感じるんだから同類のアンタだって同じ感想を持っても不思議じゃない」
「……そっか」
──そんなわけないよ、だってキミは人間だもの。私とは違うんだから、本当にわかり合える日なんて永遠に来ないんだよ。
「そうだね、キミと同じならそれはとても素敵なことだね」
名前は笑って、教室に足を踏み入れた。
「吉田くんの席はどこなの?」
「窓際の……そう、そこ」
「ここ?こういう窓際の席ってさ、何かの主人公みたいだね」
「あぁ、漫画とかの?」
「うん、……けど納得もしてる。吉田くんっぽいなぁ、と」
「あはは、なにそれ」
笑い声を聞きながら、名前が座ったのは窓際の列、後ろから三番目の席。真昼の和やかな日差しを感じながら、頬杖をつく。
どこからか微かに聞こえるこれは何の楽器の音だろう?トランペット?コルネット?それともホルン?それらの音の違いを、普通の学生ならば理解しているものなのだろうか?
そんなことさえも、名前にはわからない。わからないことが普通なのか異常なのか。普通の人間ならばどんな反応を示すのか。それすらもわからないから、名前は問いの言葉を飲み込んだ。
「ねぇ吉田くん、せっかくだし何か授業してみせてよ」
「ええー……、無茶ぶりすぎない?」
「そんなに難しいこと言ってないでしょ?いつも見て、聞いてることをそのまま真似してくれればいいんだから」
「そうは言ってもね、いつもは寝てるかサボってるかだからさ」
「それはキミが悪いよ」
ヒロフミは「弱ったなぁ」と頭を掻いてみせる。けれど、本当に困っているわけではない……のだろう、たぶん。
そういった心の機微などは複雑で、容易にはわかりかねるものだから、慎重に見極めなければ。笑いながらも、名前はヒロフミの様子を窺っていた。
その視線に気づいた風もなく、彼は「仕方ないか」と教壇に立つ。迷うように動く視線は黒板の隣、そこに書かれているのはどうやら明日のスケジュールのようだ。
月曜日、一時間目二時間目三時間目……列挙された科目名を眺めてから、彼は「それじゃあ」と口を開いた。
「イングランドの技術者で、『鉄道の父』とも呼ばれたのは」
「はいはい!ジョージ・スティーヴンソン!ジョージ・スティーヴンソンでしょう!?」
「……ですが、沸騰したやかんの蓋が蒸気によって持ち上がるのを見たことがきっかけで蒸気の力に着目するようになった発明家は?」
「……それもスティーヴンソンじゃないの?」
「残念、ハズレ。正解はジェームズ・ワットでした」
結構自信あったのに。なのに外れだと言われて、名前は口を尖らせた。
「ウッソだぁ〜。だって私、読んだことあるもの。『スティーヴンソンが子供の頃ぶらぶら遊んでいて、退屈まぎれにやかんの蓋が蒸気で持ち上がるのを台所でぼんやり眺めてなかったら、ロンドン行きの立派な急行列車に乗ることが出来なかったかも』って。『動く指』に、確かにそう書いてあったもの」
「『動く指』っていうとクリスティ?推理小説で学ぶことじゃないでしょ、それ。だいたいそんな大昔に書かれてたことなんて信じちゃダメじゃない?」
「う……っ」
言われてみれば、たしかに。尤もな指摘を受けては反論などできようもない。
……まったく、いやになるなぁ。
「自分の学のなさにほとほと呆れ返ってしまうよ」
溜め息は憧憬。遠くで気の早いヒグラシが鳴いている。生き急いだって良いことなんて何もないのに。
それとも……それとも、それ以上の何かがあるとでもいうのだろうか?
けれどヒロフミは「そんな深刻になる話?」とおかしそうに目を細める。
「今のだって『そういわれている』ってだけで、本当はそんなことなかったのかもしれないよ。ニュートンのリンゴと一緒でさ。何が嘘で何が本当かなんて、実際は大した問題じゃないんだよ」
「でも嘘を嘘だと知ることもないなんて……それってさ、すっごく、すっごく──愚かなことだよ」
「名前は案外真面目だよね」
「そういうキミは一言多いね」
グラウンドではジャージ姿の学生たちが元気よく走り回っている。生まれいずる苦しみも、死する喜びも知らず。
けれどいつの日か知るだろう。遠くない未来、彼らは当たり前のように享受する。
──私を、置き去りにして。
「そんなに気にするなら、名前も学校に通えばいいじゃん」
一歩二歩、三歩。壇上を下りた彼は、自然な足取りで名前の前に立つ。
「うちに来なよ」その方が俺も楽しいから。あっさりと欲しい言葉をくれる彼は優しいひとだ。優しくて、──とても残酷。
「簡単に言ってくれるね」
思えば出逢った時からそうだった。
だから羨ましくて、近づきたくて、そしてほら。こんな具合に大火傷。神も悪魔も神話の時代からちっとも進化しやしない。人間よりもずっと愚かで、哀れないきもの。
「それはとても難しいことなんだよ」人間であるキミにはわからないだろうけど。続く言葉を呑み込んで、名前は笑う。
だって、それ以外の術を知らない。感情の機微なんてわからなくても、黙って、微笑んでさえいれば大丈夫。誰に疑われることもない。
『人間のふりをして生きていくのは、決して難しいことではないよ』
──あぁ、でもね、マキマさん、
「じゃあ俺と契約しようよ」
「吉田くん、」
「──それとも、俺じゃダメ?」
こういう時は、どんな顔をすればいいんだろう?
名前は目の前に立つ少年を見た。自分の顔を覗き込んで、小首を傾げる少年を。
手を伸ばせば触れられる──けれど、永遠に埋まることのない隔たり。他人というには近すぎて、分かり合うには違いすぎる。絶対的な相違が私たちの間には横たわっている。そう思っていた。
でも、違ったのだろうか。
彼の手は今、名前のそれと重なっている。名前が今感じているのは、自分のよりも僅かに高い体温。他人の──人間にしか発することのできない温もり、柔らかな感触。
触れれば簡単に壊れてしまうのに、なのに不思議な力を秘めたもの。だからこそ羨ましくて、妬ましくて、──信仰の悪魔であっても、恋い焦がれることしかできなかった。
偽りの仮面を被って、微笑みで嘘を演じて、それでもやっぱり同じものにはなれなくて。
──それなら、
──せめて、
──お願いだから、
「……ありがとう、吉田くん」
だけどごめんね。私はキミの願いに応えられない。
──我が儘で身勝手な、悪魔だから。
「俺じゃあ役者不足だったかな」
「そういうんじゃないよ、ただ私が……私が弱かっただけ」
たったひとつだけ。この願いだけは、守らせて。今だけは──今はまだ、この嘘を暴かないで。美しいままの思い出として終わらせて。
キミが最期の眠りにつく、その日まで。……私は人間として、キミの記憶の中にいたいんだ。
「それにキミは私がいなくても十分強いでしょう?」
「どうかな。いま断られたせいで明日死ぬ羽目になるかも」
「縁起でもないこと言わないでよ」
彼は「残念だなぁ」と溜め息を吐くけれど、でも本当のところはどうだろう?冗談めかした調子であったから、本心まではわからない。
悲しげに寄せられた眉も、悩ましげな目元も、名前に教えてくれるのは数えられるほど。名前にできるのは「ごめんね」と謝ることだけ。
それすらも「いいよ、そう言われる気はしてたから」と答えられてしまっては打つ手がない。「ありがとう」と笑って、それでおしまい。握ってくれていた手も離れていく。
……別に、寂しいなんて思っちゃいないけど。
「……だいぶ静かになったね。みんなお昼の時間かな」
「そうらしいね。……ところでこの後のご予定は?」
「残念ながらなんにも。寂しい人間なのですよ、私は」
「それじゃあ俺たちもお昼にしようか。ついでに映画も観ていかない?あいにく約束してたやつはもう上映してないらしいけど」
「うっ……、その節は本当に申し訳なく……」
「あはは、いいよ。別に怒っちゃいないから。デビルハンターなんてそんなものだし」
何気ない会話を何事もなかったかのような顔で交わして。そうして席をたち、教室を出た。
しんと静まり返った廊下、反響するのはふたつの足音だけ。窓の向こうに視線をやっても、生徒の姿は見えなかった。
まるで世界中が終わりを迎えてしまったみたい。ヒロフミの隣を歩きながら、名前は頭の片隅で思う。
もしも本当に世界が終わりを迎えたなら。世界中見渡しても、私たちの他に誰もいないなら。
──それなら私は、キミの手を取ることができたのかな。
「そういえば『ジュラシック・パーク』を再上映してるとこがあるよ。ほら、もうじき続編がやるからってさ」
「おお!それはいいね。ちょうど新作の前に見返そうと思ってたんだ」
「やっぱり。名前の好みって分かりやすいよね」
でもきっと、そんな世界ではこんな風に笑うキミを見ることだってないのだろう。
それはとても悲しいことだから。だから名前はいつも通りの笑みを浮かべて、『もしも』の空想に蓋をした。