あなたはわたしのもの


 結局のところ、デンジとマキマの間でどのようなやり取りが交わされたのかはわからない。名前は聞きたくて聞きたくてうずうずしていたのだけれど、アパートに帰ってきたデンジときたら腑抜けた顔のまま。ぼうっとしていたかと思えば、突然にやけたり。情緒がわからなすぎて、名前は問いの言葉を呑み込んだ。「気味が悪いな」とはアキの正直すぎる感想である。
 わからないといえば先の事件もそうだ。迷宮入りの上、捕らえたヤクザの孫やゾンビの悪魔の処遇も不明である。襲撃を受けた当事者としては色々と言いたいこともあるのだけれど。

「残念だけど彼らは重要参考人だからね、私たち公安とはまた管轄が違うんだ」

 『偉い人』との会談を終え、車を運転しながら訊ねてみる。と、マキマでさえ彼らのその後は預かり知らぬことと言う。
 なんだか不条理だ。大切な人たちを殺されたのに、その犯人は生きているのに、真相は目の前にあるのに、なのに扉に手をかけることさえ許されないなんて。
 「それが人間社会というものだよ」肩を竦める彼女は慣れたもの。色々なことに折り合いをつけなければ人間として生きていくことはできないのだ。そう諭すかのようだった。
 だから名前も「そうなんですね」と受け入れるしかない。マキマさんが言うんだから、そういうものなのだ。彼女からは多くを教わってきた。だから今回も、彼女が絶対的に正しい。そう言い聞かせ、ハンドルを握り締めた。

「……名前ちゃんは本当に人間が好きなんだね」

「え?ええ、まぁ。そういう性分というか、習性というか」

 信仰の悪魔としての本能とでもいうべきか。この世に生まれ落ち、自我が芽生えたその瞬間から、名前の中には人間への愛情が備わっていた。人間なくして信仰は生まれないのだから、当然といえば当然である。
 そんなわけだから本質的にはそこらの悪魔と何も変わらない。生まれ持った性質に従っているだけ。
 それだけなのに、マキマは「やっぱり名前ちゃんは特別なんだね」と目を細める。

「悪魔であれば誰しも、人間へ対しては無関心か負の感情を抱くものなのに」

「そんなことないですよ。世界はこんなに広いんですもん。私みたいな悪魔だって探せばいるものですよ」

「ううん、いなかった。いなかったんだよ、名前ちゃん。キミ以外には、誰も」

「マキマさん……?」

 信号が赤に変わる。交差点、名前はゆっくりとブレーキを踏む。バックミラーの、その奥のマキマに視線をやる。
 けれど視線は交わらない。マキマの目は窓ガラスの向こう、どこか遠くに馳せられたまま。緩やかに笑む口許すら、どこか遠い。
 彼女は言う。「不思議だね」謎めいた微笑を浮かべ、彼方に想いを馳せ。そうしながら、彼女は呟く。

「そんな名前ちゃんですら、私は──」

 彼女はいったい、何を言おうとしていたのか。
 しかし迷っている間にタイムリミット。消えた言葉の先、その行方を問うより早く、信号が青に変わる。

「……私はマキマさんのこと、好きですよ」

「ありがとう。私も名前ちゃんのこと、大好きだよ」

 一瞥をくれてみたけれど、表情は見えない。言葉だけが空々しく響き、宙に溶けた。……跡形もなく。
 それがどのような意味を持つのかも、今の名前にはわからなかった。

「そういえば名前ちゃんちの方にいい感じのコーヒーショップができたんだよ。知ってる?」

「いえ、でもマキマさんがそう言うんなら確かなお店なんでしょうね」

「うん。落ち着いた雰囲気もいいし、色んな国のコーヒー豆を置いててね。試しに買ってみたけど、そういえばもうすぐ使い切っちゃうから新しいの買わないと」

「それなら代わりに買っておきましょうか?マキマさん、お忙しいでしょう?」

「いいの?」

「もちろん。私も興味、ありますし」

「きっと名前ちゃんも気に入ると思うよ。でも本当に助かっちゃったな」

 そんな何てことない話題で会話を続けているうちに、公安本部のビルへと辿り着く。
 「じゃあ、またね」ひらりと車を降りて、マキマは颯爽とビルの中へと入っていく。白いシャツ、伸びた背中すらも眩しい。セミの鳴き声を聞きながら、名前は遠くなる背中を見つめた。
 そういえばこれが夏の近づいた証だと教えてくれたのも彼女だった。何も知らなかった名前に、この世界で生きる術を教えてくれたのはマキマだ。彼女がいなかったら、今の名前はない。だから好きになった。当然のように、神を愛するように、転がり落ちた。

 すべては必然で──もしもあの日あの時、出逢ったのが彼女でなかったなら────?

「……さて、仕事仕事」

 微かに感じた頭の痛みから意識を逸らし、大きく伸びをする。
 引っ掛かることは数多くあれど、仕事も悪魔も待ってはくれない。たとえこの後地獄に落ちるのだとしても、務めは果たさなくては。

「あぁ、そうそう。コーヒー豆も買わなくちゃ」

 日課のパトロールを終える頃、それでもなお遠い黄昏もまた、近づく夏の証である。日差しは和やかで、乾いた風が首筋を撫でていく。
 ちょうど下校時間なのか、通りには制服姿の学生たちが目立つ。衣替えを終えた後の白いシャツとスカート。さざめくような笑い声が心地よく通りすぎていく。
 ……いいなぁ、なんて。ついつい目で追いかけてしまって、後ろ姿を眺めて、溜め息をついて──そこでふと、眉根を寄せる。

「……デンジくん?」

 風に紛れて香るのはよく知った匂い。視界の隅で捉えた金の髪は間違えようもなく彼のものだ。
 けれどその隣にいるのは、名前の知らない少女で──?

「……これってどういうことだと思います!?」

 混乱する名前が辿り着いたのは、対魔二課の所有するトレーニング施設。日が傾いた後も研鑽に励む同僚を尻目に、名前が捕まえたのはひとりの男。柔らかな物腰と飄々とした微笑が特徴的な彼は、名前にとってかつての先輩にあたる。

「どういうことだろうなぁ」

「ちょっと!真剣に答えてくださいよ、先輩!」

 そんな彼の両腕を掴み、ぐわんぐわんと前後に揺さぶってみる。が、まるで効果が見られない。「若いねぇ」と年寄りくさいことを言って、名前の頭を撫でてくる。
 いやいや、そんなのは求めていないのだけれど。

「なんだ?先輩からの愛情は受け取れないっていうのか?」

 ……別に、嫌だというわけでもないのだけど!

「そーいう話じゃなくてですね、」

「はいはい、なんだっけ?どこからが浮気にあたるかって話だったか?」

「ちがっ……わなくもないです、ね。そうです、私が言いたいのはそういうことです」

「そうは言ってもなぁ……。喫茶店にいただけだろ?」

「でも二人っきりですよ!二人っきり!不純です!不道徳です!教育的指導の必要ありです!」

 鼻息荒く力説する名前の脳裏によぎるのは先刻見かけたばかりの景色。喫茶店の窓の向こう、見間違えるはずもない焦げた金髪と、その隣に座っているらしい黒髪の少女。その造作がわかるほどの距離ではないから、どんな会話をしてるかなんてもっての他。関係性すら窺い知ることはできなかった。
 が、そんなことは名前にとって問題ではない。重要なのはデンジが『マキマ以外の女性と二人きりでいた』ことだけ。その事実一点のみで判決は有罪。情状酌量の余地など微塵もない。
 ……そう、名前は心底から信じていたのだけれど。

「どうした名前、委員長キャラでいくことにしたのか?」

「委員長……それはそれは素敵な響きですね……。もちろん襲名するのはやぶさかではありませんが、……ってまた話が逸れた!」

「ははは、元気だなぁ〜」

 興奮する名前とは対照的に、先輩ときたらあっけらかんとしたもの。だから名前としても出鼻を挫かれたような気分で、頭を抱える。
 すると、彼の方も「わからないなぁ」と首を捻る。

「……何がそんなに問題なんだ?だってお前、そいつに惚れてるわけじゃないんだろ?」

「違いますけど、でもデ……、いえ、ここは仮にDくんとしましょう。Dくんはですね、他に好きな女性がいるんですよ。なのに他の女の子と二人きりで仲良しこよししてるなんて、これは浮気ですよ浮気!」

「んなわけあるか。好きな相手なんて変わるもんだ。付き合ってるわけでもないなら、なおさらな」

「そんな、」

 ガツン、と。
 強い力で後頭部を殴られた。そんな錯覚をするほどの衝撃を得て、名前は呆然と立ち竦む。

「……そんなわけないです。そんなこと、あっちゃいけないんです。だって、だってデンジくんは、」

 デンジくんは、マキマさんが好きだから。好きでい続けてもらわないといけないから。そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃマキマさんは…………

 ──マキマさんは?

「……なんだか知恵熱が出そうです」

 何かに気づきかけた。そう思ったのだけれど、頭の痛みで思考は霧散。散り散りに消えていき、残されたのは疲労感。
 小さく唸りながら額を押さえていると、「そりゃたいへんだ」片眉を持ち上げた先輩にひょいと顔を覗き込まれる。

「確かに顔色が悪いな。アキ、呼ぶか?」

「なんでそこでアキくんが。いえ、ダメです。アキくんには頼れません」

「なんで」

「……最近ちょっと寄りかかりすぎたなぁ、と。反省したところなので」

 言葉を濁したのは恥ずかしかったからだ。悪魔の自分が人間であるアキに頼りきり、なんてのは何だか格好がつかない。
 ……いや、悪魔だなんて彼は気づいていないだろうけれど。むしろ気にしてすらいないかもしれないけれど。
 すると先輩は「反省することか?」と首を傾げた。

「むしろアキはそういうの喜ぶタイプだろ。根っからの世話焼きというか、長男気質が強いんだな。頼まれたら断れないところとか」

「ああ、それでよく合コンに連行してましたよね。若い男が必要だとかなんとかで」

「昔のことだ、拗ねるな拗ねるな」

「拗ねてませんけど」

「ははは、アキのことが大好きなのは変わらないんだな」

「はい?」

「随分素直に笑うようになったなとは思ったけど、アキのことになるとやたら拘るのはもう性分みたいなもんになっちゃったのかね」

「はいい?」

「ま、いい男だもんな。俺の次くらいには男前だ」

「自惚れがすぎますよ。だってアキくんの方が優しいですもん。私の話だってちゃんと聞いてくれるし、……先輩とは違って」

 ぶすくれていると、「悪かったよ」と宥める手に再度頭を掻き回される。その手つきが優しかったから、なじる言葉もそれ以上出てこない。かといってすぐに態度を軟化させるのも癪で、名前は口をヘの字に曲げた。