神の合わせたもうもの
「なんだ、名前も来てたのか」
「アキくん、……と、天使くん」
「その言い方、僕はおまけってこと?まぁ別にいいけど」
嗅ぎ慣れた匂いに顔を上げると、ちょうど話題に上っていた人が現れた。なんたる偶然、なんと間の悪いこと。普段なら喜ぶところだが、先輩が悪どい笑みを浮かべたことに気づき、名前は頬を引き攣らせた。
──理由はわからないけれど、嫌な予感がする。
「そっ……そんなことないよ!ちょうど天使くんに会いたいなぁって思ってたから!ね!」
先輩を喋らせてはいけない。直感的にそう悟り、慌てて言葉を繋いだ。
が、それでよかったのかは微妙なところだ。先輩はにやにやとした笑みを深めていたし、天使の悪魔には「こっちには用事なんてないけど」とつれなくされた。
「そうだったのか」と素直に頷いてくれたのはアキだけ。真面目で鈍感で、優しい彼だけが「ちょうどいいし、今晩もうちで夕飯食べてくか?」と誘ってくれる。
「ここ一週間、デンジは外で食ってくるようになったからな」
「へ、へー……、そうだったんだ」
本当はすぐに飛びつきたかった。飛びつきたかったけれど、その甘い誘惑を必死で振り払い、名前は「ありがとう、でもごめんね」と断りの言葉を紡ぐ。
……それはもう、血を吐くような思いで。
「今日はもう準備してきちゃったんだ。だからまた今度誘ってね、絶対、絶対ね」
「あぁ、わかった」
あっさり引き下がられて、よかったような残念なような。
複雑な思いを笑顔の下に隠して、名前は「それじゃあ」と別れを告げる。
「なんで僕まで……」
うんざりだと首を振る天使の悪魔を道連れにして。
生きていくためには必要のないことなのに、入浴という文化を編み出した人類は実に偉大だ、と名前は思う。さらに言えばこの入浴剤という発明品も素晴らしい。見た目にも華やかだし、疲れた体は解されるし、何より様々な香りで嫌な臭いを洗い流してくれる。
だから名前はお風呂に入るのが好きなのだけれど、それはどの悪魔にも共通したものというわけではないらしい。血の悪魔はお風呂嫌いで有名だし、天使の悪魔だって「めんどくさいなぁ」とぼやいている。
「こんな時間かけて洗う必要、僕たちにある?そこらの川にでも入ってきたらいいのに」
「なに言ってるの。悪魔退治の時には血を浴びるといっつもいやぁな顔するくせに」
「それはまた状況が違うだろ。僕が言いたいのは……」
「はいはい、あんまりおしゃべりがすぎると口の中にシャンプー入っちゃうよ」
湯気に曇る鏡の中、天使の悪魔がどんな顔をしているかは定かではない。が、たぶんいつもの顰めっ面をしているんだろう。
名前は気にせず、彼の頭でシャンプーを泡立てた。「せっかく綺麗な髪をしているんだから、ちゃんと手入れしなくちゃね」淡い栗色の髪は無垢の予兆。清らかなる天使の名に相応しき色。
……いいや、その名を宿して生まれたからこそ、このような姿かたちを得たのかもしれない。
「それを言ったら名前だって。その目も髪も、聖なるものを示す色だ」
それは祝福なのだろうか。それとも呪いなのだろうか?
少なくともそう指摘した彼の声は淡々としたものであったし、「ありがとう」と応じる名前の心もまた凪いだままであった。
「私たち、やっぱり似た者同士だね」
私たちは他の何者にもなれない。与えられた名前と役割に縛られたまま、どこへ行くこともできないのだ。
……尤も今いる世界の外側なんて、スクリーンに映し出された景色のようにしか、感じられないのだけれど。
「……うん、そうだね」
天使の悪魔は珍しく否定しなかった。「これでも一応、天使だからね」そして私は信仰の悪魔。この世に神はいないけれど、私たちはその存在に縛られ続けている。
「そんな天使くんもご覧の通り、あっという間に鬼へと大変身〜」
「ちょっと、人の髪で遊ばないでよ」
「鬼でも悪魔でも天使くんはかわいいねぇ」
「バッカじゃないの」
シャンプーで固めた髪を逆立てて遊んでいると、「何が面白いんだか」と呆れられた。人間の子供はこうして遊ぶと喜ぶものだと見かけたのだけれど、これも悪魔には通用しないらしい。またひとつ学びを得てしまった。
名前は「ごめんごめん」と謝りながら蛇口を捻った。たちまち濃厚な湯気が立ち上ぼり、浴室を満たしていく。
シャワーは石鹸と共に多くのものを洗い流してくれた。その日一日の疲れを、穢れを。丁寧に丁寧に、時間をかけて清めていく。
「アキくんとはどう?仲良くやれてる?」
湯船の中。背後から抱き締めても天使の悪魔からの抵抗はない。大人しく名前の腕に収まる彼は、すっかり諦めの境地。脱力しきった体を名前に寄りかからせ、「別に普通」と返してくる。
「ただやたら張り切ってるから、毎日クタクタだよ」
「天使くんらしい感想だね」
くすくす。さざめき笑いは反響し、湯気の向こうへ。
残されたのは僅かにさざ波立つ水面。乳白色に染まったお湯が揺れている。
「でも付き合ってあげてほしいな、力になってあげられない私の代わりに。……おねがい、聞いてくれる?」
濡れそぼった天使の髪を梳る。
と、香り立つのは甘いミルクの匂い。お陰で彼の髪までもがお菓子のひとつ。さながらキャラメル、或いはミルクチョコレートのようだ、と名前は思う。
天使の悪魔はどこもかしこも甘い。甘くて、優しい、──そんな彼だから。
「……仕方ないな」
「ありがとう、やっぱり天使くんは優しいね」
「言っとくけど、同族のよしみで聞いてあげるってだけだから」
「わかってるよ。わかってるから、優しいなぁと思ったの」
「意味わかんないんだけど」
「ふふふ」
抱き締める力を強めて、その頬に頬擦りする。
こんなに優しい彼と我が儘な自分が同族だなんて!そんな風に思ってくれる彼が愛しくて、嬉しくて、「天使くん、ありがとう」どこにも行けないし、何者にもなれないけれど、それでもやっぱりここが自分の居場所でよかったと思う。
彼が──彼らがいてくれて、本当によかった。
「そんなに礼を言われても、あくまで僕は付き合ってやるって言ってるだけだからね。積極的に手伝ってあげるつもりはないから。銃の悪魔の討伐なんて、絶対面倒なことになるし」
「わかってるよ、天使くんが無茶をする必要なんてない。銃の悪魔の討伐なら私も参加できるようにするつもりだから、天使くんには……そうだな、私のお墓にこの綺麗な髪をお供えしてもらおうかな」
「……冗談でしょ?本気だったらさすがに引くんだけど」
「私はいつでも本気だよ」
「……今まで何人もの悪魔や人間が死んでくのを見てきたけど、そんなバカバカしい遺言初めて聞いた」
「世界は広いってことだねぇ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
呆れながらもちゃんと相槌を打ってくれる辺り、優しさが隠しきれていない。
こういうところはアキくんと一緒だ。不思議な繋がりを見つけ、名前は内心『もしかして』と思う。
──もしかするとこの二人、案外いいバディになれるのでは?
そしてそれは名前にとっても喜ばしいことだった。
何しろ名前は未来の悪魔をちっとも信用しちゃいないのだ。胡散臭い言動はまったくもって悪魔らしく、醜悪で穢らわしい。そう思っていたから、信頼できる天使の悪魔がアキのバディに決まって、本当は少し安心してもいた。
「天使くんは私にとっても救いの御使いだったんだよ」
呟きに、答える声はない。でも確かに届いていたのだと名前にはわかった。肩を抱く手に、天使のそれが重ねられたから。