彼の打ち傷によって我らは癒された
喫茶店で衝撃の光景を目の当たりにしてから一週間。その間も名前の中には重たい雲が垂れ込めていた。さながら、胸一杯に石ころを詰められた狼の気分。
──などと言うとまた先輩から『大袈裟な』と笑われそうなところだけど。
「なんだか名前ちゃん、元気ないね」
これまた一週間ぶりに会ったマキマに眉をひそめられ、名前は慌てた。
「まっさかぁ!私は今日も元気いっぱい、いつも通り悪魔相手にブイブイ言わせてきたところですよ!」
「そうなんだ?」
「ええ!ですのでどうぞお気になさらず!」
マキマさんにご心配をおかけするなど不徳の至り。いったい自分は何をやっているのだろう?大切なものを見誤っているのではないか、と名前は己を殴りたくなる。
そう、心の中で猛省する名前を前に、マキマは「ふむ」と一考。
「それじゃあ名前ちゃん、今夜は予定、空いてるかな」
「え、今夜……ですか?特には……」
藪から棒に何だろう?今度は名前が首を捻る。
と、彼女はやおら微笑み、蠱惑の唇を花開かせた。
「今夜は私とおうちデートしようか」
──どうしてこうなったのか。
「名前ちゃんは最近サスペンス系にハマってるんだっけ?これなんかどう?私はまだ観たことないんだけど」
「『暗闇にベルが鳴る』ですか?面白かったですよ。コミカルなキャラクターが多くて日常シーンも飽きないし、でも怖さもしっかりあって」
「じゃあこれも一本借りよう」
マキマはそう言って、ビデオをカゴに入れた。その動作には一切の躊躇いがない。カゴの中には既に幾つかの商品が入っているにも関わらず、だ。
「あとは……そうだな、これと、これも」
このレンタルビデオ店には何度も来店した経験があるらしい。『うちの近くでは一番品揃えがいいとこなんだ』とは彼女の弁である。サスペンスコーナーからホラー、ミステリー、SF、ドキュメンタリーと、歩いていく姿には常連客の風格があった。
「あの、これ全部観るつもりですか?」
「うん、もちろん」
彼女は平然と頷き、そして一言。
「今夜は寝かさないから、そのつもりでいて」
そんな風に囁かれてしまったら、「はい、わかりました」と受け入れるより他になかった。
「映画館もいいけど、こうして家でのんびり気兼ねなく観るのもまた違った良さがあるよね」
コンビニで夕飯のお弁当やらビールやらを買い込み、マキマの家へ。熱烈な歓迎をしてくれた大型犬たちに周囲を固められながら、二人一緒に並んでテレビの前を陣取る。
正直言うと犬はあまり好きではないのだけれど、それでも可愛いと思えるだけ以前よりはマシになった方だ。何せ聖書の考えを絶対だと思っていた頃は、人々が愛玩動物として扱っていることすら理解できなかったくらいだ。これは大きな進歩と言えよう。
……なんて、じゃれついてくる一匹を撫でてやりながら昔を振り返っていると。
「思えば出会った頃と比べると、名前ちゃんもずいぶん変わったね。前はうちの子たち相手にも警戒心丸出しだったのに」
ビデオをセットし終えたマキマが、僅かに目を細めて名前を一瞥した。名前と、その膝の上で寛ぐ飼い犬を。まるで内心を見透かしたかのように言って、マキマはリモコンをいじる。
巻き戻し、そして再生。たったそれだけで世界は彼女の手の中に収まった。すべては彼女の思うがまま。物語を始めるのも、止めるのも──終わらせて、しまうのも。
「そういえば初めて会った時もこんな感じの雨が降ってたね」
物語の始まりは雨だった。降り頻る雨、雫の跳ねる音、重苦しい空気、煙る街並み。……それから、その向こうで鳴り響くサイレン。
不協和音を奏でるオープニングの隣で、不釣り合いな微笑が薄い唇に立ち上る。
「名前ちゃんは覚えてる?」
「当然じゃないですか。あの日マキマさんに会えたから、拾ってもらえたから……本当に感謝してるんです。みんなに出会えたのも、マキマさんのお陰だから」
「……そう。それはよかった」
仄かな笑みを保ったまま、マキマはビールの蓋を開ける。
ぷしゅう、と間の抜けた音。ごくごくと勢いよく飲み干すその横顔は、動作とは対照的に冷めきったもの。相変わらずといえば相変わらずだけど、あまり美味しそうには見えない。
この人は、どうしたら笑ってくれるんだろう。心の底から楽しくて楽しくてたまらない、そういった感情をどうやったら味わわせてあげられるのだろう。
この映画でも、コンビニのビールでも、──私でも、マキマさんを楽しませてあげられはしないんだ。
「……マキマさんはどうしてこの映画を観ようと思ったんですか?」
「特に理由はないよ。話題作だったし、もう一回観てみようかなって思っただけ」
「嫌いだった?」と聞かれ、名前は首を振る。嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、でも、どうしてこんな──こんな陰鬱な映画をマキマさんは選んだんだろう?確かに彼女の言う通り、昨年公開されたばかりのこの映画は名作と呼ばれるに相応しいものだと名前も思う。
七つの大罪になぞらえた連続殺人事件と、それを追う二人の刑事。年齢差のある彼らが徐々に打ち解けていくのを楽しむバディものとしても出来がいいし、ラストへ至る過程も丁寧で、悲劇的な結末を迎えるだけの説得力もある。秀逸な脚本、ラストを暗示するような重苦しい画面、演出、演技力の高い俳優……どれをとっても文句などつけようがない。
けれど、それでも名前は──
「マキマさんはどう思いますか?マキマさんも……無知は罪だと思いますか?」
どんな答えを期待していたのだろう?『そんなことない』と、否定してほしかったのだろうか?
名前の思いをよそに、マキマは「どうだろうね」と淡々とした調子でビールを飲む。
「無知こそが根源的な罪……とまでは言わないけど、でも知らないでいること、見ないふりを続けることはやっぱり良くないんじゃないかな」
「でもそれだけで罪を背負わされるなんてあまりに可哀想です。誰だって始まりは無垢なものなんですから……」
「名前ちゃんは優しいね」
名前は反論するが、しかしマキマが真面目に取り合うことはない。柔く笑んで、宥めるように頬をひと撫でして、でもそれだけ。名前の個人的な意見など彼女は求めていない。そんなことは火を見るより明らかだった。
「……だとしても、償いの機会は与えられるべきです。この犯人にも、主人公にも、」
それから、私たちにも。
マキマは「そう」とだけ答えた。彼女の目は冷ややかに画面を映すだけ。だからたぶん名前の答えは彼女の求めるものとは異なっていたのだろう。それもまた、出会った時からわかっていたことだった。
だって、彼女が本当に必要としていたのは名前じゃない。初めて会ったその瞬間から、彼女の目は名前を通して別の誰かを見ていた。そんなことは最初からわかっていた。わかっていたのに──それなのに、彼女のことを好きになってしまった。
名前は目を伏せてサンドイッチをかじった。何だかいつもよりマスタードの味が濃いように思えた。
……そんなのはきっと、気のせいでしかないんだろうけど。