悠哉U
東京都立呪術高等専門学校──通称『高専』に入学してふた月が経った。
一年生は名前を含めて三人。しかもうち一人は家庭の事情で入学が遅れると聞いて、当初はどうなることかと思っていた。
けれどそれも杞憂であったのだと今ならわかる。何しろ、唯一の同級生はとても優しい男の子だったから。
「そーだ、恵にお仕事持ってきたんだった」
「は?」
「内容は特級呪物の回収。……ってわけで、このあと仙台までいってらっしゃい♡ついでに観光してきたらいいよ」
「……はぁ」
午前中の座学を終え、お昼休み。たったいま思い出したといわんばかりに名前たちの担任教師は手を叩く。その顔はマスク越しでもわかるほどの笑顔。急すぎる仕事の依頼にも申し訳なさは微塵もない。彼──五条悟はそういうひとだ。
そしてそんな彼にだけは件の同級生、伏黒恵も遠慮しない。いつもの優しさはなりを潜め、大袈裟なまでの溜め息を溢す。
そこに混じるは様々な感情。怒り、呆れ、そして諦念。五条先生には何を言ってもムダだから仕方ない。以前彼がそうぼやいていたのを、隣で聞いていた名前はよく覚えている。
けれどそれは裏を返せばそれだけ気の置けない仲だという証明でもある。きっと否定されるだろうから口には出さないけれど。でも『すこし羨ましいな』と思ってしまう。
「あの、それって恵くんだけなんですか」
「ん?うん、そのつもりだけど……、あっ、もしかして名前も仙台観光したかった?」
「いえ、そういうわけでは……」
「でもごめんね、今回は恵の分の切符しか取ってないんだ。わざわざ二人で行くような任務でもないし、ていうかそもそも大切な名前を宿儺の指に近づかせたくないしね。封印されてるとはいっても『万が一』がないわけじゃないし」
「万が一……それなら恵くんひとりなのも危ないんじゃ」
「それはだいじょーぶ!何かあればこの僕がすぐに駆けつけてあげるからね!」
「そう、ですか……」
両面宿儺の伝承なら聞いたことがある。その指といえば現代に遺る特級呪物。厳重に封印されているとはいえ、油断は禁物。記憶もなく、隠し事さえある名前がやすやすと近づける代物ではない。
そのくらいの察しはつくけれど、でも。名前はちらりと視線を走らせる。
たった三人しかいない教室のなか、二つ並んだ机と椅子。隣にいる恵は渋面のまま。とはいえそれは任務の内容に対してのものではなく、五条の横暴さによるところが大きい。
当の本人である彼が不安を感じていないのだ。無関係の私が気を揉むことじゃないだろう。
そう思い直し、名前は「気をつけてね」と恵に声をかけた。
「恵くんだから心配はいらないだろうけど」
「ああ。けど五条先生が持ってきた仕事だからな、何があるかわからない。用心するに越したことはないだろ」
「ちょっと恵?それどういう意味かな?それに名前も!『万が一』の時の僕の心配はしてくれないの?」
「五条先生に対して心配は無用でしょう?」
膨れっ面の担任に向かって、名前は続ける。「だって最強なんですから」そう言えば、満面の笑み。
「よくわかってるじゃない」
ころりと機嫌を直し、名前の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてくる。
たぶん彼なりに褒めてくれているのだろうけど、この場面を真希が見たらまた青筋を立てることになりそうだ。今ごろ任務に出ているであろう友人のことを思う。と、『お前も少しは抵抗しろ』という幻聴まで聞こえてきた。
「んじゃ、そーいうことで。車回してもらうから、十分後に校門前ね」
それだけ言い置いて、五条は立ち去る。残されたのはふたり。不承不承といった顔で立ち上がる恵のあとに名前も続く。
「ったく、あの人は……」
そう言いたくなる気持ちもわかる。特に今回のことは話が急すぎるし、一言二言文句をつけたくなるのは当然だ。
──でも。
「けどそれだけ恵くんのことを信頼してるってことだよね。そういうのっていいなって、私は思うよ」
「……どうだかな。あの人が適当なだけかもしれないし」
「それは……否定しきれないけど」
でもたぶんそういうことなのだ。名前は思う。彼は私を大切にしてくれてはいるけれど、背中を任せてはくれない。彼の中での私は庇護すべき対象で、他の何ものにもなれない。
それが時々、ひどく悲しく思えてしまうのは──。
「……昔の私はどうだったのかな」
昔の私だったら、拒絶されることもなかっただろうか。
ぽつり、溢れた独り言。二人きりの教室。真昼の穏やかな静寂。けれど恵は返事をしなかった。聞こえないはずがないのに、聞こえないふりをしてくれた。
彼は多くを語らない。過去の名前を知っているのに、まるでそんな事実はないとでもいうみたいに沈黙を守った。
──その優しさに、どれほど救われたろう。
「……おみやげ、」
「え?」
「せっかく仙台に行くんだし、何か欲しいものとかないのか?五条先生みたくお遊び気分……ってわけじゃないけど、お土産くらいなら買う暇あるだろ」
そう言った彼とは、どうしてか視線が交わらない。でも気を遣ってくれたのであろうことはわかった。わかってしまったから、名前の頬も自然と緩む。
「ありがとう、恵くん。でもお土産は恵くんの欲しいものを買ってきてほしいな」
「……それじゃ意味なくないか?」
「意味はあるよ。恵くんの好みを知ることができるもの」
「……あんたってほんと、」
そこまで言って、彼は小さく首を振る。
「わかった。俺もあんたも食えそうなもの、探してくる」
「私のことはいいのに」
「俺がよくないんだよ」
「そう?それならお言葉に甘えようかな。ありがとう、恵くん。楽しみに待ってるね」
手を振って、恵と別れる。その背を見送り、『寂しくなるな』なんて。たったひとりの同級生だからって依存しすぎだろうか。
でもまぁ明日には帰ってくるはずだ。名前はそう考えていたのだけれど、その夜かかってきた電話が齎したのはまったく予想外の情報。
『……ってわけだから、明日はその高校に潜入して、宿儺の指を探す予定だ』
「そう……なんだ」
携帯を握り締めてしまったのは、胸にわき上がる不安のせい。大事になると決まったわけではないけれど、落ち着かない。心がざわつく。
もしも──なんて、考えても仕方ないことなのに。
『まだ騒ぎにはなってないんだから大丈夫だ。封印が解けたってわけでもないしな』
「うん、そうだね、そうだよね……」
名前は自室の窓から夜空を見上げた。
今すぐ飛び出して、彼のいるところまで駆けつけられたらいいのに。
そう願ったところで名前に五条のような力はない。だから『どうか無事で』と祈ることしかできなかったのだけど。
まさかこの事件がきっかけで同級生がひとり増えることになろうとは考えもしなかった。