与うるは受くるよりも幸いなり


 回覧板を開くと、かき氷や綿菓子のイラストが目に飛び込んできた。

「アキくん、アキくん、夏祭りだって」

「ああ、もうそんな季節か」

 素麺を茹でる家主を振り返ると、彼は何の感慨もなく呟いた。たぶん去年もその前も、おんなじ調子だった気がする。
 アキくん、アキくん、夏祭りだって──でもそう言ったのは名前じゃなかった。去年も、その前も。

「早いねぇ。光陰矢のごとしとは言うけど、これじゃあっという間に揺りかごから墓場までひとっ飛びだよ」

 名前は我が物顔で冷蔵庫を開ける。家主は何も言わない。カルピスの原液をちょっとだけ多めに入れても、気づきやしないだろう。
 グラスを傾けながら、名前は思う。これが背徳の味だと教えてくれたのは姫野ちゃんだった。夏祭りがとても楽しい行事だというのも、彼女がいなければ知る由もなかったろう。

「今年も夏祭り、行きたかったなぁ」

「行けばいいだろ、誰も止めやしない」

「そうだけどさ。やっぱり浴衣、着たいじゃない?」

 去年もその前も、姫野が浴衣を貸してくれた。『妹のお下がりだけど』と言って、何も知らない名前を普通の女の子のように着飾ってくれた。
 『美人姉妹でしょ』と鏡越しににんまりと笑う彼女。その表情を、肩に置かれた手を、胸に込み上げた喜びを、いまも鮮明に覚えてる。
 「さすがにひとりで浴衣を着る勇気はないよ」新しく買おうにもアドバイスをくれる人はいない。並んで歩いてくれる人も、一緒にお祭りを楽しんでくれる人も。

「……祭りに行くくらいなら、付き合ってやってもいい」

「え、ほんとう?」

「ただし浴衣は着ないからな」

 そう言って、アキはテーブルに素麺を置く。驚きと共に彼を見上げる名前と、名前を一瞥もしないアキ。視線は合わない。素麺の上でトマトの瑞々しい赤色が目についた。

「やったー!ありがとうアキくん!!」

「おい暴れるな、溢れるだろ」

「そんなヘマはしないよ〜。私の反射神経を舐めないでほしいな」

「反射神経関係あるか?」

「あるあるありまくり。アキくんの手料理なら、溢れ落ちる前に私がすかさず受け止めるよ、この口でね」

「犬か。だいたい手料理って……、素麺茹でただけだろ」

「アキくんが茹でた素麺に価値があるのですよ」

 下らない会話を繰り広げながら、二人向かい合って素麺をつつく。テレビではお昼のワイドショーが流れ、ベランダでは洗濯物が風に揺れている。
 名前は素麺を掬うふりをして、アキの様子を窺った。それから、その指先や温もりのことを想った。穏やかで、いとおしくて──なのに少しだけ、切なさが込み上げた。

「夏に食べる素麺ってどうしてこんなに美味しいんだろうねぇ」

「夏以外に素麺食べること自体あんまりないだろ」

「私は冬場にも冷たいものが食べたい派なんだけど。ていうかそろそろクーラーつけない?溶けちゃいそうだよ」

「人間は溶けないから安心しろ」

 地球温暖化問題が取り沙汰されるようになった昨今。早川家でも『冷暖房を使うのはできるだけ我慢しよう』というのがルールとなっている。が、文明の利器に慣れきった今の名前には我慢ならないところ。
 「エコの悪魔に殺されちゃうよ」溜め息をついて、グラスを呷る。手のひらに吸いつく水滴が気持ちいい。
 グラスの中で氷がカランと音を立てた。





 遠くで銃声のようなものが聞こえた気がして、名前は思わず身構えた。

「──なんだ、花火か」

 なんと物騒な想像だろう!やれやれ、完全に職業病だ、労災だ──そう、ぶつくさ呟いていると、天使の悪魔には「独り言までうるさいなんてすごいね」と嫌味を言われてしまう。

「独り言じゃないもん、天使くんに話しかけてるんだもん〜!」

「うわっ」

 がばり。抱き着こうとする、と、天使の悪魔は小さな体を飛び退かせた。その目は『信じられない』と名前を見上げてくる。

「何考えてんの。『普通の人間』は……、『公安のデビルハンター』が、僕に触れてくることはないのに」

 でも名前は『普通の人間』ではないし、『公安のデビルハンター』である前に永遠を約束された悪魔だ。寿命などないに等しい。名前が死ねるとしたら、それは人類から信仰心が失われた時くらいだ。
 だから彼が気にしたのは名前自身の身の安全じゃない。それは、彼の目が素早く辺りを見回したことからもわかる。
 ここは対魔二課の訓練施設。ここにいる人はみな、名前のことを人間だと思っている。人間の、仲間だと。

「天使くんは優しいねぇ」

「だ、からっ、触るなって言ってるのに!」

「撫でてるのは髪の毛だけだから大丈夫だって、セーフセーフ」

「……もうほんと、知らないから」

 拗ねた顔の天使の悪魔を見ていると、その頬をつついてやりたくなる。白くて、柔らかくて、おいしそう。なんだかわたがしが食べたくなってきた。

「そうだ!天使くんも夏祭り行こうよ。一緒に、ね?」

「なに、なんなの急に」

「今度ね、アキくんちの近くで夏祭りがあるんだよ。珍しくアキくんが誘ってくれたから、バディの天使くんもどうかなぁって。天使くんの好きな甘いお菓子もいっぱいあるよ」

 名前は『名案だ』と手を叩き、笑う。もとから楽しみだったけど、三人ならきっともっと楽しい。そう、思ったから。
 なのに彼は「ふうん」と意味深な呟きひとつ。上目で名前を見て、「ほんとに僕を誘ってよかったの」とわけのわからないことを聞いてくる。よくなかったら最初から提案しないのに。

「どうして?あ、お金の心配してるの?もう、どうせそんなに食べられないんだから、計画的に買わなきゃダメだよ?」

「そうじゃなくて、」

 天使の悪魔は言葉を切る。
 そうじゃなくて、……そうじゃなくて?どうしたの、と名前が口を開きかけたところで、歓声が上がる。天使の悪魔の肩の向こう、人垣の中央で、揺れる影。「ご指導ありがとうございました!」グローブをつけた男の前、涼やかな横顔が淡々と応じている。

「……あいつと二人っきりの方がいいんじゃないの」

 いつの間にか《彼》を見つめていた。見つめていることに気づいて、ハッとして、天使の悪魔に視線を戻した。その双眸は何もかもを見透かしたように名前を見ていた。
 「好きなんでしょ」と天使の悪魔は言った。好きなんでしょ、あいつのこと。……違うよ、そんなんじゃない。名前は苦笑した。

「私はアキくんに生きていてほしいの。生きて、幸せになってほしい。……でも、私には叶えてあげられない」

 だからこれは恋じゃない。恋であってはならない。その隣を望んではいけない。私では──私が隣にいても、幸せにしてあげられないから。

「……天使くんは?」

「……は?」

「天使くんはどうなの?アキくんのこと、すき?」

 にっこり。笑うと、天使の悪魔は呆気にとられる。それから、深々と溜め息。

「どうしてそういう話になるわけ?」

「好きな人がみんなに好かれているって、すごく嬉しいことでしょう?」

「いや、同意を求められても知らないけど」

 最終的には「祭りでもなんでも、好きにしたら」と匙を投げられる。
 ……ということはつまり、誘いには乗ってくれた、と見ていいのだろうか。質問には答えてもらえなかったけれど。

「……でもきっと、キミも好きになるよ」

「……なに?なにか言った?」

「ううん。嬉しいなぁって、独り言」

 笑って、誤魔化して、天使の悪魔の手を引く。優しい彼のためにも、そのスーツの袖を掴んで。