小さき者の一人をも侮るな
重たい音がして、空気が震えた。それは先刻の比ではない。花火なんかよりもずっと鋭くて、激しい音。名前は後ろを振り返った。
そしてほんの一瞬考えた。置いてきてしまった幾人もの仲間の顔が脳裏を駆け巡った。
「──アキくん、ごめん。さき行ってて」
「名前っ!?」
傷だらけのデンジを担いで、アキが叫ぶ。「なに言ってるんだ、早く行くぞ」そう言葉を重ねる彼に、名前は微笑む。
「大丈夫だよ」だからアキくん、デンジくんのこと、お願いね。
公安対魔二課。彼らは強い。悪魔との戦い方を知っている。それは名前だってわかっていること。
──でも今は、そんなものに価値はない。
「夏祭り、楽しみにしてるから。だからね、アキくん……、約束、守ってね」
掴まれた手を優しく振りほどく。彼はそれ以上なにも言わない。なにか言いかけて……、でも呑み込んで、悔しげに唇を噛む。
「……俺たちは車で逃げる。追いかけてこいよ」
「うん、わかった」
その一言だけを交わして、彼は振り返らない。何を守るべきか、いま一番守らなければならないものは何か、知っているから。だから彼は振り返らずに駆けていく。
そんな彼だから、私はきっと──
「あれ?まだ残ってたんだ」
破壊音と共に爆弾頭の少女が現れる。飛び散る硝子片が目に眩しい。でもそれ以上に鮮烈だったのは血の臭いだった。
「キミ、何人殺したの」
「さぁ?悪魔ってふつう、殺した人間の数を数えてるものなの?」
「どうかな。私は人間だから悪魔の考えはわからないや」
「ふうん?」
嘘つき、と少女は言ったけれど、名前は無視した。
だって名前は彼女のことなど何も知らない。なんの縁もない彼女の言葉よりずっと大切なものが名前にはある。
「私は私をただの人間として尊重してくれる人たちのために、キミと戦うよ」
ばぁん、と遠くで花火が上がる。それを合図に名前は跳んだ。
「固っ……」
蹴りを入れてもいまいち響いた様子がない。人間に似た形をしていても、その中身はまるで別物。肉というより金属の感触に近い、それ。彼女はいったい何者なのだろう?
「あーあ、もっと早くに気づけばよかった。こんなに違う臭いしてるのに、なぁ……」
狭い通路で肉弾戦を繰り広げながら、名前はひとりごちる。
こうして相対するとはっきりわかる。人間の臭いに混じる、悪魔の血。腐った肉の刺激臭。湿り気を帯びた厭な臭いは、どんなに人間らしく振る舞っても消えるものではない。
なのに気づかなかった。彼女を見かけたのは今日が初めてではなかったのに。以前はすぐ近くにデンジがいたから、気づけなかった。──彼と同じ臭いを、彼女もまた発しているのだと。
「そういうキミはなんの悪魔なのかな?カエル?……にしては手強いね」
「聖書だよ。知らない?カエルによる災いの話」
「私、神様って信じてないんだよね」
少女の指先から放たれた小さな爆弾を、数多のカエルを鎧代わりにして防ぐ。
後には焼け焦げた哀れな死骸の山。けれどその死を悼む暇すら少女は与えてくれない。矢継ぎ早に繰り出される破壊音。炸裂する爆弾の雨。
「名前ッ!無事か!?」
「副隊長!……と、野茂さん!?」
次いで名前の身体を守ったのは狐の悪魔、その大きな前足のひとつ。契約者である対魔二課の副隊長が、刀を構える。
多勢に無勢。挟み撃ちの格好。けれど爆弾少女は怯まない。異形の頭が、にやりと弧を描いたように見えた。
「神様なら──人間のこと、守ってくれるよね?」
「待……っ」
爆弾。爆風。視界が煙る。
その向こうで閃く銀の牙。狐の悪魔が大口開けて食らいつく。けれどそれは時間稼ぎにもならない。狐は呻いて、姿を消した。残されたのは人間二人、悪魔は無傷で立っている。その手が、ずるり、伸ばされて──
「──そうだよ。だから私は戦えるの」
考える時間はなかった。本能的に駆け出していた。罠だとわかっていても、止められなかった。
少女の前に立ち塞がり、名前は笑う。
その口端から滴るのは赤。愛する人々と同じ、血の色だった。
「バカだね。見捨てれば、私を殺せたかもしれないのに」
「ふふ……、嘘つきはどっちかな。私がこの人たちを見捨てたって、そう簡単に殺されてくれるつもりなんてなかったくせに」
「そりゃあね、悪魔ですから」
手が引き抜かれる。少女の、少女らしからぬ、手。名前の腹から抜かれたそれは、しとどに濡れそぼって、赤い道を作った。
少女は「じゃあね」と言って、切り落とされた親指を爆弾に変えた。
「追いかけなきゃ……」
静寂を取り戻した部屋の中、少女の姿は既になく。あとに残されたのは物言わぬ躯、死の臭いばかりだった。
彼女はデンジを追っていったはず。この短時間では逃げられる距離にも限りがある。きっとすぐに追いつかれるだろう。
彼を……彼らを守らなきゃ。
「その身体じゃ無理だ」
「大丈夫だよ、これくらい」
「バカ言うなって。……ほら、」
副隊長はそう言って、自分の手に刀を滑らせた。すると親指の付け根から真新しい血が染み出す。なのに痛みなんてちっとも感じないといった顔で、名前の前でその手を広げた。
「これっぽっちでも、ないよりはマシだろ?」
「なん、で……」
「あの戦いっぷりを見れば誰だってわかるさ」
名前に無理やり血を飲ませながら、彼は「でもそんなのは些末なことだ」と続ける。
「俺たちは応援を呼んでくる。だから名前、アキたちのことは頼んだぞ」
こんな時なのに、彼は名前の頭を撫でた。いつもみたいに、年下の子どもを相手にするみたいに。
「……うん、ありがとう」
ぐしゃりと撫でてくれるから、その優しさに泣きたくなった。