主であるわたしは、ねたむ神
耳を劈く雷鳴、吹き荒ぶ暴風。平凡な住宅街を突如として襲うのは異形の怪物たち。崩落したビルの間、血と瓦礫の上で、悪魔がわらっている。
「なんだか怪獣映画みたいだねぇ」
しみじみ。そう呟くしかないのが憐れな人間の定め。翼を持たないものたちは大人しく地べたを這いずり回る他ないのである。
対魔二課と別れ、デンジの匂いを追ってここまで来たらまさかの事態。ボムガールだけでなく、台風の悪魔まで登場とはちょっと欲張りがすぎるのではないだろうか。
飛来する軽自動車を避け、名前は溜め息をつく。これでは風が強すぎて立っているのがやっとの有り様だ。
にも拘わらず、天使の悪魔を抱き抱えたアキに「んなこと言ってる場合か……ッ!」と怒鳴られる始末。ただの人間にすぎないのに。なのに彼は険しい顔で必死に考えを巡らせる。
その目が案じるのは、悪魔に立ち向かう家族のこと。チェンソーの姿になったデンジを見つめ、自分にできることはないのかと苦悩している。
……ただの人間にすぎないのだから、大人しく守られていてくれればいいものを。
「アキくんも自分の心配をしなよ。油断してると吹き飛ばされちゃうよ」
「けど……!」
「デンジくんなら心配ないって」
キミとは──ただの人間とは違うんだから。なのにそんな簡単なことすらわかっていないんだ、アキくんは。
でも、そういうところがかわいそうでかわいくて、いとおしくて。喪いたくなかったから、名前は彼を抱き締めた。──遠くへ連れ去られてしまわないように。
「なん……っ」
「だってアキくん、今にも飛び出していきそうなんだもの」
「……俺だって、自分の力量くらいわかってる」
「そーいう話じゃないんだけどなぁ」
わからずや。こんな時なのに腹立たしいような悲しいような、複雑な心境。
電柱にしがみついたまま、名前は嵐の中心に目をやる。雷は神様の領分でもあるのだ。援護くらいはできよう。それは彼の願いのためでもあったし、何より名前自身が望んでいたことでもあった。
「あ、これはデンジくんに一本かな」
台風の大きいばかりの頭はチェンソーの獲物としては最適だったらしい。脳だか腸だかソーセージみたいな、そんな感じの内臓をぶちまけながら、台風の悪魔は哀れ真っ二つ。ぐずぐずになって崩壊していく様は土砂崩れの様子に似ている。なかなかグロテスクな光景だ。尤も、辺りの惨状に比べたら同情の余地はないけれど。
「デンジは……!?」
「近くにはいない…みたいだね」
嵐は過ぎ去り、悪夢だけが取り残される。瓦礫の山とその間から洩れ出す呻き声。街も物も人も、何もかもが滅茶苦茶だ。まるで神罰にでも襲われたみたいに。彼らには何の罪もないというのに。
名前は慎重に足を踏み出した。でもすぐに動けなくなった。足許に倒れ伏す影を前にして、無意識のうちに膝をついていた。
瓦礫に埋もれるようにして横たわるひと。救いを求めるように伸ばされた手はしかし、冷たく固まり始めている。辺りには、死が充ちていた。
握った手は名前のそれよりも小さなものだった。小さな、けれど大いなる可能性を秘めた生命。でももう二度と、長じることはないのだ。これ以上はもう、どこにもいけないし、なにものにもなれない。
……悪魔の──私たちの、せいで。
「……僕は生き残った人の救助をするよ」
隣に立った天使が囁く。夜の闇のなか、幼さの残る目が光って見えたのは果たして気のせいだったろうか。
名前はわらう。「……天使なのに?」そう言えば、彼もまたいつもの答えを返す。「天使ですから」でも本当に救いの御使いだと思うよ、キミは。私にとっても、……死の淵にある、その人にとっても。
「じゃあ私はデンジくんを探すね。まだ匂いで追いかけられると思うし」
「うん、……あのさ、」
「なに?」
「……むずかしく、考えることないと思うよ」
どのみち僕らは悪魔で、神さまにはなれやしないんだから。
「大丈夫、わかってるよ、そんなこと」
とおくでサイレンの音がする。じんわりとした汗が肌に滲む。生温い風が体にまとわりついて、……あぁそうだ、今は夏だったんだ。なのにこんなにも夜明けがとおい。厭な臭いが胸を塞ぐ。
名前は首を振った。「アキくんはどうする?」訊ねると、彼は迷わず答える。「俺もデンジを追う」そう言ってくれてよかった。そう言ってくれると思ったから、声をかけた。そうじゃなかったら、平静を装える自信がなかった。
デンジくん──彼のことを考えようとすると、同時に爆弾の悪魔の姿も思い出される。彼女と、──彼女に殺された人々。肉の焦げたにおい、滴る赤色の鮮烈さ、──苦痛に歪む顔を思い出して、その痛みに思いを馳せる。そうせずにはいられない。
だから、だから──
「アキくん、私はここで待ってるね」
道の先には海岸線。その向こうは行き止まり。そこで名前は立ち止まった。
どんなに焦がれたってそこから先には進めない。どこにもいけないし、なにものにもなれない。人間にも悪魔にもなりきれない、半端者。
「はぁ?なに言って……」
「この先にデンジくんはいるよ。たぶん、ビームくんも。戦いは終わったみたいだね」
名前はわらって、手を振った。
今は、彼の顔を見れそうにない。彼を責める気もないけれど、でも。……ボムを見逃したであろう彼のことを簡単に受け入れることも、できそうになかった。
アキは最初、怪訝そうに首を傾げていた。けれど優しい彼は問いただすことをせず、「わかった」とだけ答えた。
「……だめだなぁ、わたし。天使くんにも嘘ついちゃった。全然、『わかって』なんかいないのに」
どっちつかずの半端者。信仰の悪魔らしく、傷ついた人々のために彼らを罰することもできず。人間らしく、喪った仲間のために彼女を憎むこともできず。家族らしく彼の選択を素直に受け止めるわけでもなければ、デビルハンターらしく裏切りをなじることもできずにいる。
本当に、救いようがない。
「──ごめんなさい」
それは誰のためのものだったか。
とおく見える三つの影を見つめて、名前は目を伏せる。
こういう時、どうしたらいいんだろう。正解はどこにあるのだろう。
おしえて、────、
「見つけたよ、名前ちゃん」
瞬間、清廉なる春の気配に包まれた。
背後から回る腕。柔らかな肌。その、触れ合う感触。ぬくもり。「よくがんばったね」綻ぶような、こえ。
「マキマさん……」
振り返らなくたってよかった。顔を見なくたってホッとした。声に、気配に、そのすべてに。そのすべてが、名前の唇を震わした。
「わたし、わたし、……」
「うん、わかってるよ。大丈夫、私には……私だけは名前ちゃんの気持ち、わかってあげられるから」
「でも、」
「いいんだよ、名前ちゃんはそのままで。そのままの名前ちゃんだから、私はキミを選んだの。そんなことでさえ悩んじゃう名前ちゃんだから、私のものにしたくなったの」
空が白みゆく。夜明け。黎明のその光に、思考が蝕まれていく。
頭を撫でられている、その心地よさに、すべてを忘れてしまいたくなって。どうしてここがわかったのかとか、デンジたちを収用するため手配された車の、その用意のよさとか。そういった疑問が浮かんでは消えていき、やがてはそのことさえ思い出せなくなった。
いまは、この温もりだけがすべてだ。
「……眠っていいよ。その間に、全部片づけちゃうから」
「はい……、あの、マキマさん、」
「ん?なあに?」
「ありがとう、ございます……」
すきです、だいすき。あなたがいなくちゃ、生きていけない。そう、口走ってしまったような気がするけれど、夢だったのかもしれない。
「うん、私も。……大好きだよ、名前ちゃん」
とろけるような声で、眼差しで、微笑みで。そんな風に答えてくれたなんて、優しい口づけを降らせてくれたなんて、夢だとしか思えないから。だからきっと、これは都合のいい夢だったのだろう。