トワイライト


 子供の頃は純粋に楽しかったように思う。
 夏祭り。ねばつく空気とひしめく人々。すれ違うだけで熱が生まれ、不快な汗が首筋に滲む。
 そんなことにすら、子供の頃は気づかなかったのだろう。だから楽しめた。楽しかったのだと思う。

 ──ほんとうに?

「アキくん!」

 呼び止められた。掴まれた手首。感触が、心臓にまで伝う。たぶん、左手だったから。
 「歩くのはやいよ」と名前は少し怒った風で言う。「デンジくんとパワーちゃん、置いてきちゃった」そしてすぐに心配そうな顔で背後を気にする。背後に連なる屋台の群れと人の波を。
 その様子に、『子供とはぐれた母親みたいだな』、と他人事のように思う。意識が遠い。ただ、酷く暑いということだけが実感できた。居並ぶ屋台から生じる人工的な熱と、石畳が反射する自然な熱。それらが混じり合って、膚の上を這いずり回る。
 厭なイメージだ。沈みゆく黄昏の、鮮やかすぎる赤色が、余計にその印象を強くする。
 赤は嫌いだ。

「大丈夫?」

 手のひらが頬に触れる。「少し熱いね」反対に、彼女の手は冷たく感じられた。人よりも少しだけ冷たい体温。今はそれが気持ちいい。
 「人酔いしちゃった?」まさか、そんなヤワじゃない。「平気だ」答える声がどこか遠い。平気じゃないよ、と頭の裏で誰かが言う。子供の声。聞き覚えのある声が続ける。大丈夫なんかじゃない。本当は俺だって、俺だって──

「無理しちゃダメだよ。ここのところ働きづめだったでしょう?平気なつもりでも、疲れは残ってるんだよ」

 手のひらが離れていく。それを追いかけようとして、でも今度はその手が握られて、ホッとする。

「ちょっと休んでいこうか」

 名前は笑う。黄昏の鈍い光を浴びながらも、明々と。笑いながら、彼女は手を引いた。
 人混みのなか、繋いだ手だけを頼りに進む。名前の手。小さいな、と改めて思う。手も、結い上げた頭も、青い浴衣に包まれた身体も、何もかも。小さいのに、なのに、彼女がいると安心できた。
 「デンジくんとパワーちゃんを残していくのは心配だけど」そうだな、と答えたらこの手は離されてしまうんだろうか。

「大丈夫だろ」

「そう?……まぁでも、アキくんが言うならそうなんだろうね。パワーちゃんはともかく、今のデンジくんなら」

 握る手に力を込める。「つらい?」振り仰ぐ目に提灯の火が揺れる。
 だけど彼女が見つめているのはたったひとり、自分だけ。「もうすぐだからね」囁きに、「あぁ」と答えたのか、それとも「うん」と答えたのか。
 河川敷に出る。

「はい、アキくん」

 渡されたのは道中で買ったペットボトル。そういえば喉が渇いていたような気もする。素直に受け取ると、名前はわかりやすくホッとしてみせた。

「軽い熱中症かな。それとも疲れが出たのか」

「かもな」

「もー、自分のことなのに適当だなぁ」

 花火の時間にはまだ早いためか、人影は疎らだった。先までの喧騒が白昼夢のよう。穏やかな静けさが揺蕩っている。

「……ごめんね、アキくん」

 隣りに座った名前がつぶやく。「キミに無理をさせちゃった」
 伏せた目の奥で夕日が沈んでいく。あとに訪れるのは宵の刻。夜の闇がひたひたと迫る足音がする。

「別に、無理はしてない」

「けど現にキミはこうなってるでしょう?私が誘わなきゃ、お祭りに来ることだってなかったのに」

「それは、」

 そうかもしれないけど、そういうことじゃない。そう言いたいのに、言葉が見つからない。潤ったはずの喉が張りつく。
 なんと言うべきだったのだろう?自分ですら理由は判然としないのに。
 惑いに揺れる目が捉えたのは、先程まで繋がれていたはずの彼女の手だった。

「……なんて、謝られても困るだけだよね」

 顔を上げた名前はもういつも通り。にっこり笑って、「今度は私がアキくんの望みを叶える番だね」と続ける。

「望み?」

「そう。だってアキくんは私のワガママを聞いてくれたじゃない。だから、ね?何でも言ってよ。私にできることなら何だってやってあげる」

 そう言われても。
 願いなんてない。銃の悪魔の討伐は自分が果たすべきもので、それ以外のことなんて、何も。夢に見るのだってすべてを失ったあの日のことくらいで、

「手を、」

「手?」

「いや……」

 何を言おうとしたのだったか。青い浴衣の、表で踊る金魚と目が合う。笑われているみたいだ、なんて。とんだ被害妄想だ。
 「何でもない」言いかけて、止まる。打ち捨てられた右手。その上にひんやりとしたそれが重なる。
 心臓が跳ねる、音がした。左手じゃないのに、なんて言い訳はもう通用しない。

「合ってた?」

 これでいいの、と聞かれ、沈黙でもって答える。
 だって自分でさえわからない。何を望んでいたのか、求めていたのは何だったのか。この手を離してほしくないと思ったのは、どうしてだろう。
 「人より冷たいからね」黙っていると、名前は言い訳をくれた。「こんなことでいいならお安い御用だよ」笑う名前に、『そうじゃないんだ』とは言い出せなかった。
 そうじゃない、温度なんて関係なかった。ただ手を握っていてくれたなら──

「子供の頃、家族で夏祭りに行ったのを思い出した」

 楽しかったのだと思う。今ではもう振り返ることすらなかった記憶。浮き足立つ心地と、渦巻く熱気だけが朧に浮かぶ。
 弟に構いきりだった、母のことも。

「……悲しいことがあったの?」

 遠慮がちに聞かれ、首を振る。悲しかったわけじゃない。寂しかったわけでも。それが当たり前のことで、たぶんあの頃は既に諦めていた。そういうものだと理解していた。
 お兄ちゃんだから。

「思い出しただけだ。デンジたちのことを気にするお前が、母親みたいだったから」

「でも私はアキくんのお母さんにはなれないよ。アキくんだって、」

 「お兄ちゃんみたいだけど、お兄ちゃんじゃないんだよ」うまく言えないんだけど、と寄せられる眉。でもその感覚はよくわかる。うまく言い表せないことばかりだ。
 ……この、感情も。

「いい。なんとなく、わかったから」

 僅かに口角を上げると、名前も目元を和らげる。「うん、」そうだね。必要なのは言葉ばかりじゃない。繋いだ手の感触がすべてだった。
 日は沈み、夜が色を濃くしていく。だんだんと人の数も増えてきた。二人は今頃どこで何をしているだろう。少しの不安が胸を掠める。けれど、なかなか立ち上がる気になれなかった。

「あれ、買い出しに行ったんじゃなかったの」

 不意に第三者の声がした。少年の、幼さを残した声。振り返れば、天使の悪魔が首を傾げていた。

「僕の綿菓子は?リンゴ飴は?買ってきてくれるんじゃなかったの?」

 そうだった。人混みは嫌だと言う彼を残して、屋台の列に並んだのがそもそもの始まりだった。なのに今手元にあるのは半分ほど空になったペットボトルだけで。

「ごめんね、アキくんの顔色が良くなかったから休ませてもらってたの」

「そう?いつもこんな顔じゃない?人間くんがごきげんなところなんて見たことないよ」

「それは……そうだけど……」

「悪かったな、人相が良くなくて」

「いいよ、今さらニコニコされても気味悪いし」

 「もうすっかり元気みたいだね」と天使の悪魔に言われ、不承不承立ち上がる。
 人使いの荒い悪魔だ。あの人混みに戻らなきゃいけないのかと思うと憂鬱な気持ちになる。けど、いい加減デンジとパワーの二人も迎えに行かなくちゃならない。

「……仕方ないな」

「ほんとに大丈夫?」

「平気だ」

 もう子供の声はしない。封じ込めた、幼い日の思い。家族には終ぞ言い出せなかった言葉は、今度こそ本当に過去のものになった。
 「行くか」小さく笑って、名前の手を握る。
 だからこれは過去とは関係ないこと。他でもない、今の自分の望み。

「アキくん、」

「……はぐれたら困るだろ」

 それが言い訳なのか真実であったのかはわからない。「そうだね」と頷く名前にとっても、どうだったのか。
 けれど何でも良かった。理由なんて、なんだって。
 今はただ、この手の温もりを少しでも長く感じられることを願っていた。