風に冷たいものが混じるようになった。夏の終わり。秋の気配。……落莫たる、孤独の情。
夕刻の帰り道、ヴァイオリンの啜り泣きから逃れ、レンタルビデオ店に入る。
新作、準新作、旧作……さて、何を観ようか。久しぶりに仕事が早く片付いたから、と思ったのだけど、これといって目当ての作品があるわけでもない。
アクション、SF、サスペンス、コメディ、ラブストーリー……歩みを進めるたびに次々飛び込んでくるタイトル。でもいまいち頭に入ってこない。
少し寒いな、と名前は二の腕をさする。夏仕様の店内は冷房が効きすぎているようだ。
「あれ、名前じゃん」
「吉田くん、」そういえば前にもこんなことがあった気がする。何だかずいぶん、昔のことのように思えるけれど。
「偶然だね、学校帰り?」制服姿を見るのは新鮮だ。頷いた彼を前に、考える。この近くに住んでいるのだろうか。……気になったけど、聞くのはやめておこう。知りすぎるのも知られすぎるのもよくない。
折しも爆弾の悪魔の一件があったばかり。『少し自由にさせすぎちゃったかな』林檎飴を舐めながら呟く、その横顔を思い出す。
『こんなご時世だし、付き合い方を考えないといけないね。私たちは公安で、デビルハンターなんだから』
ね、と同意を求められて、首肯した。祭りの夜、大輪の花火の下。仄かに浮かび上がる微笑は柔らかくて美しかったのに、なのに少しだけ、秋の気配がした。
「まぁ、寄り道にしては遠回りになるんだけどね。でも寄ってみてよかったよ。ここはほら、公安本部に近いから」
「?本部に用事でもあったの?」
「ううん、そっちじゃなくて、」
なのに彼は、黒い目を細めて続ける。
「名前に会えるかなって、そう思ってたから」
彼は一般人だ。デビルハンターではあるけれど、でも、公安の人間じゃない。守るべき一般市民。付き合い方を考えないといけないね──甘やかな声が、喉元を絡めとる。
錯覚。幻想。でも、脳内に響く声は止まない。
「そう。嬉しいな」
思考から目を背けて、名前は笑う。やっぱりここはさむい。さむいけど、でも、手を伸ばしてはいけない。それは罪だ。裏切りだ。
「何を観る予定なの?」
「まだ決めてないの。こうやってのんびりタイトルを眺めながらどうするか考えてるところ」
「いいね、レンタルショップの醍醐味だ」
そう言った彼の手には既に何本かのビデオが積まれている。名前と違って、迷いがない。私たちは似て非なるもの。そんな彼が選ぶ映画とはなんだろう。
名前の視線に気づいた彼が、「ああ、」と自分の選んだ作品を見せてくれる。
「『カッコーの巣の上で』、『愛しい人が眠るまで』、『アマデウス』、『存在の耐えられない軽さ』……共通項は?」
「『イングリッシュ・ペイシェント』だよ。前回のアカデミー賞で最多ノミネートされたやつ」
それなら名前にも覚えがある。日本でも春先に公開されたラブロマンス映画だ。舞台は大戦直前のアフリカと、大戦末期のイタリア。ある男と、夫を持つ女の激しい恋、そしてその終わりを描いた作品である。
名作と呼ばれたそれを、しかし彼は否定的な口ぶりで語る。
「アカデミー会員たちの保守的な思考が表れただけに思えるんだよ」
まぁ、確かに。
彼らは愛の映画を好むから、ただのコメディやサスペンスなんかでは受賞は叶わない。あの『スター・ウォーズ』ですら主要な賞は貰っていないのだ。『羊たちの沈黙』が作品賞を取れたのがどれほど異例中の異例だったか、ハリウッドの空気を知らないものにも察しがつく。
「それでも歩み寄りは必要だろうと思ってね。同じ監督のとか、プロデューサーのとかを改めて見返して、良さを見いだそうかと」
「真面目……というか、面倒な性格してるよね。嫌いなら嫌いでいいのに」
「それは自分でも自覚してる」
ヒロフミは薄く笑って、「このあとどう?」と小首を傾げた。
「よければ付き合ってくれない?いわく、この面倒な男に」
レンタルショップの安っぽい電気がちかちかと瞬く。様々な人の気配が混在する、くすんだにおいが鼻につく。
そんな中で浮かび上がる、硬質な目。その目を見つめる時、時おり軽い失墜感のような、足許の覚束なさを感じるのはどうしてだろう。自分、という存在の不確かさを思い知らされるのは、なぜ?
気づけば名前は頷いていた。「私でよければ」なんて言ってしまってから、また思い出す。底無しに静かな目を、枯葉の舞うような音を、晩秋の黄昏時、佇む墓場を連想させる気配を。付き合い方を考えないといけないね──耳の奥がざわざわと落ち着かない。
このレンタルショップから近いのは名前の家の方だった。『彼女』によって手配されたマンションの、その一室。『他人』を招き入れるのに抵抗がなかったかといえば嘘になる。この部屋に上がったことのある人間は、公安関係者しかいない。
「意外、ちゃんと片付いてるんだね」
物珍しげな顔をする彼は、いったいどんな部屋を想像していたのだろう。「意外は余計でしょ」型通りの返事をして、名前は飲み物の用意をする。
「あんまり生活感がないからさ。これなら今すぐにでも夜逃げできそうだ」
「そう?デビルハンターなんてこんなものじゃない?」
だって、いつ死ぬかもわからないんだから。
「それって『重い』のかな。それとも耐えられないほど『軽い』せいなのかな?」
コーヒーを淹れて戻ると、彼はリモコンの再生ボタンを押した。
選んだのは『存在の耐えられない軽さ』。時は冷戦下、プラハの春を背景にした恋愛小説が原作である。『永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しが際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!』そんな独白で始まるそれを、理解しきる前に読み終えてしまった記憶がある。
「『イングリッシュ・ペイシェント』しかり、映画だとラブロマンスに比重が置かれてしまうよね」
「ロマンスはきらい?」
「嫌いではないよ、俺の趣味じゃないってだけ」
ふーん、と相槌を打ち、コーヒーを飲む。前半はそのロマンスがメインだから退屈なんじゃないだろうか。その証拠に、「ねぇ、どう思う?」と画面を見つめたまま言葉を続ける。
「名前は重いの?それとも軽い?」
さて、どうだろう?
「公安のデビルハンターであることにこだわってるよね。隊列の中のひとり、機械の中の部品のひとつみたいに。そういうものであろうとしてる」
そうだ、その通りだ。公安のデビルハンター。うつくしい理想のための、駒のひとつ。
それは枷であり、救いでもある。なぜなら考える必要がないからだ。裸で兎跳びをさせられるイメージ。個としての思考はなく、けれどうつくしい理想に殉じることができる。これほどに楽な生き方があるだろうか?
だからきっと、私というものの価値はとても軽いものなのだろう。名前はそう思う。
「でも『信仰の悪魔』としての君は、君ひとりだ。君は自分に使命があると思ってる。人間を救うことが、悪魔としての君の使命だと。……違う?」
「……私って、そんなにわかりやすい?」
「よく見てたから。俺は、名前のことを」
「そんなに
「ちがうよ」
画面から目を離す。彼は私を見る。隣に座るわたしを。人間のふりをする悪魔を。その向こう側にいる、わたしという『個』を。
「すきだよ、名前。君が好きだから、つまらない映画だって再生するし、わざわざ遠回りしてでも公安近くのレンタルショップに寄るし、『信仰の悪魔』としてじゃない名前のことを知りたいとも思うんだよ」
透徹した目だった。その時はじめて、彼のその目を『こわい』と思った。いや、ずっと前から──それこそ永劫回帰が正しい理だというのなら──出逢った瞬間から、生まれるより前からわかっていたのかもしれない。
そしてその眼差しから──名前は目を逸らした。
けれど。
「逃げないで」
顔の横に置かれた手。背中にはソファ、両脇には腕という衝立。三方を彼に囲われては逃げ場がない。否が応にも、視線は交わる。
「ねぇ、名前。家族も友人も恋人も……すべてを切り捨てた先にあるのは『存在の耐えられない軽さ』だよ。空虚だ。切り捨てるものをすべて失ったら、その時君はその軽さに耐えられるの?」
見下ろされる、見下ろす、め。淡々とした声が落ちてくる。箭のように落ちて、縫い止められて、動けない。
「わたしは、」言いかけて、干上がる喉に気づく。
──どうして?夏はもう、終わったのに。過ぎ去ったうつくしいものたちが足許に積み上がっている、錯覚。まぼろしに、喉元が絡めとられる。
「私は……私は公安の、デビルハンターだから。それだけが残るなら……、他には何も、いらないよ」
「……ほんとうに?駒のひとつでいいの?その存在の無意味さに耐えられる?それでいいと、本当に思ってる?」
「……どうしてそんなこと言うの。君は私に、どうしてほしいの?」
わからない。頭がよく、回らない。瞬きのひとつでもしてくれたらいいのに。なのに彼は言葉を止めない。止めてくれない。
右手が、頬をするりと撫で上げる。
「『信仰の悪魔』とは聖なるもの、神に守られたもの。簡単には殺せない。……でも、前例がないわけじゃない。そうでしょう?」
あるかなしかの仄かな微笑。微睡むように、夢見るように。指先を滑らせ、降りきった先。おとがいよりも下──頸部に、彼の手が回される。
「聞いたんだ、君ではない君の話を。昔から『信仰の悪魔』の出現は確認されてきたって。そんな彼らがどのようにして死んでいったのかも、聞いたよ」
ぐっ、と。
喉元を弛く締め上げられる。ソファが幽かな軋みを立てる。
それでもなお、その顔に浮かぶのはどこか満ち足りた笑みで。
「『信仰の悪魔』とは聖なるもの、清らかなるもの、……それなら、」
──それなら、その清らかさを失ったら、君はどうなるんだろうね。
「ねぇ名前、俺と一緒に逃げよう?ここではないどこかへ、ただの人間として」
囁きが満ちる。それ以外のもの、この腕の外側のことは既に遠く。曖昧に滲み、彼のその宵闇よりも深い色の瞳しか目に入らない。
反響音のない洞窟のような、投げ込んだはずの石ころさえ音を立てずに沈んでいく水底のような。恐ろしいような、なのに目を離せない──夜の淵に、名前は立ち尽くす。
その中に飛び込んでしまえたら、いっそ楽になれるのに。そう、わかっているのに──
「そんなの、できるわけない……」
「どうして?俺のことがきらい?」
「ちがう、ちがうよ。そうじゃない。だけど、でも、そんなのはだめだよ。私のせいで君をそんなところへ、そんなところまで、落とすわけにはいかないよ」
「名前、」
彼が名前を呼ぶ。呼んで、そっと、笑みを深める。
「そんなところでも、俺は幸せになれるよ。君が一緒にきてくれるなら。……まだわからない?君にも、俺にも、使命なんてものはないし、君は君でしかないんだ」
「吉田くん……」
奇しくもそれは映画のラストシーン、田舎に追いやられた二人がダンスを踊りながら交わした言葉に似ていた。
だから、思わず、夢想してしまう。
「……私ね、本当は都会ってあんまり好きじゃないの。ねぇ、はじめて一緒に観た映画、覚えてる?あんな風に田舎の村でのんびり暮らせたらいいなって、時々夢に見るんだ。自分たちで畑を耕して、みんなでご飯を食べるの。週末には街に出て、映画を観るのもいいかな。それで感想を言って、笑い合って……そんな生活ができたらって、私も思うよ」
──それは、選ぶことのできなかった幸福のひとつ。
名前は顔を上げ、わらった。それは自嘲であり、苦笑であり──ともすると泣き出してしまいそうなほどに歪なものだった。
「だけど、きっと私は耐えられない。無力な、なんの使命もない人間になったら、きっと後悔してしまう。悪魔の力を捨てなければよかったって、誰かを……、きみを、恨みたくはないよ」
「……そっか」
ただその一言で、彼は拘束を解く。離れていってしまう。けれど追いかける資格はない。選ばなかったのは、名前の方だから。
「俺は憎まれても恨まれても、ぜんぜん嬉しいけど、でも、罪悪感に苦しむ名前は見たくないから、……仕方ないね」
彼は芝居がかった仕草で溜め息をつき、前髪をかき上げる。
「あーあ、ざんねん。結局また、この間とおんなじ結末か。今回はいけるかと思ったんだけどなぁ」
「ごめんね、いやになったでしょう?」
「厭になれたらよかったかもね」
そう言って、彼は名前の肩に寄りかかる。
「なんだか眠くなってきちゃった。ねぇ、このまま一緒に寝ない?それくらいならいいでしょ?なんにもしないから、ね?」
「いいけど、そんなことに何の意味があるの?」
「何事も積み重ねが重要だからね。そのうち名前が絆されてくれないかなぁって」
「そんなこと言って。きっと君が厭きる日の方が早いと思うよ」
「俺は一生だって付き合う覚悟だけど?」
「……そう」
……危うく、『本当に?』と返してしまうところだった。本当に──本当に、ずっと一緒にいてくれる?そう、言いかけて、慌てて呑み込んだ。
永遠などない。どんなに美しい思い出だっていつかは色褪せ、霞みゆく。自分は悪魔で、どうしたって人間にはなれないのだから。
なのにその夜、夢を見た。どこか遠く、この国の言葉などひとつもない場所。のどかな田舎町で暮らす、夢を見た。
それはとても幸福で、──どうしようもなく虚ろな夢だった。