陽炎座


前話で吉田くんの手を取っていたらのIFルート






 それは夏の終わりのこと。風が物悲しい音を立てるようになった、ある夜のこと。

「ねぇ名前、俺と一緒に逃げよう?ここではないどこかへ、ただの人間として」

 その誘いに名前は頷かなかった。
 ……けれど、拒絶もしなかった。ただ静かに目を伏せて、体の力を抜いた。それが答えだった。答えだということにした。
 
 そして。

 その日を境に『信仰の悪魔』は地上から姿を消した。





 冬の海は乾いた音がする。「ここら一帯が死体なんだよ」と名前は言う。むくろの、その空洞を通り抜けるすきま風。そういう音だと名前は言う。
 だからこの海全体がひとつの亡骸なんだ。

「名前にとっては冬が死の季節なんだね」

「うん。でも秋の暮れも寂しい感じがするでしょう?じゃあ春がいいかっていったら違うんだよね。頼りなくて心細くて、」

 じゃあ夏は。「夏はあまりに眩しいものだから、それもそれで恐ろしいの」そう言って、名前は水平線に目をやる。
 住み慣れた街を離れて、気づけば季節は秋を過ぎ。早々に沈む陽のなかを、名前の手を引いてふたりで歩く。
 紅の色、橙の色は寒さ知らず。なれどやはり夏のそれとは違うのだろう。いま見えるのは線香花火の、燃え尽きる間際。最後の時にパッと閃く火花の色だ。……あとは落ちて、消えるだけ。
 華奢な手は、決して握り返してはこない。
 でもそれでよかった。それでもいいと思ったから、彼女を人の身に堕とした。夏の終わりの、あの夜に。組み伏して、羽根をもいで、『信仰の悪魔』を死に至らしめた。
 いまの彼女は、なんの力も持たない。

「吉田くんは、」

「ん?」

「また少し、背が伸びたみたい」

「そう言う名前はだいぶ髪が伸びたよね」

「そうかな」

「そうだよ」

 以前はたぶん、そんなことはなかった。どこにもいけないし、何者にもなれない。そういう生き物だったからか、名前の返事はどこか虚ろ。頓着していないのか、それともあえて目を逸らしているのか。
 風に靡く髪を、耳にかける。その横顔、瑞々透き通った膚。その下を流れる血は、果たして何色か。結ばれた唇はやや寂しげで、伏し目がちな瞳に映るものは杳として知れない。
 暮れゆく空を、鳥の群れが駆けていくのが見えた。

「冬の海はこんなに寂しいものなんだね」

 浜辺に人影はなく、ざあっという浪の押し引きのみが繰り返される。潮に乱れ、削り取られる渚。音もなく呑み込まれ、跡には何も残さず。
 砂の中に現れ出たのは貝の断片。白々と覗くそれが一瞬骨のようにも見えたのは、きっと彼女のせいだ。

「……『君とまたみるめおひせば四方の海の底のかぎりはかづき見てまし』、か」

「和泉式部だ。ふふっ、吉田くんにしては風流なことを言うね」

「ああでも、ここではむしろ泉鏡花の気持ちかな」

「ふうん?」

 名前は首を傾げる。肩口に髪が一房、はらりと落ちる。落ちていく陽の、蔭が深まる。夜は近い。
 そういえば、彼女が焦がれた男も海で死んだという。夏の終わりの、寂れた浜辺で。
 その一報を受けた時、彼女がどんな顔をしていたのか。泣いていなければいいと思ったのは、本当に彼女のためであったのか。

 ──わからない。

 名前の足が砂を蹴る。

「ねぇ、吉田くんはこれで本当によかったの」

 ざあぁと浪が打ち寄せる。迫る。夜の気配がひたひたと忍び寄る。乾いた風がからからと鳴っている。からから、からから。
 これは、骸の音だ。

「名前は後悔してるの?」

「してないよ。でも怖いの、怖いんだよ」

 名前は手を握り返さない。だからその分も強く握る。つまるところ、根底にあるのは彼女と同じもの。喪うことを恐れている。

 ──いったいいつまで?

「だって、ねぇ。私はもうキミがいなくちゃ生きていけないんだよ。デビルハンターにだってなれないし、悪魔になることだってできないのに。でもキミは違うんだよ。厭きて、いやになっても、キミはどこにだって行けるんだ」

「行かないよ。どこにも行かない」

「別に、いやになってもいいんだよ」

「ならないって約束しようか」

「しなくていいよ。約束して、破られた時にキミを恨みたくはないから」

「後ろ向きだなぁ」

 笑うと、「ごめんね」と謝られる。なんで。謝らなくていいのに。恨まれても憎まれても、厭きていやになって、どこかへ──たとえばこの浪の下とか、手の届かない場所へ行かれるよりは、ずっといいのに。

「じゃあ約束して。どこにも行かないって、約束。代わりに俺はこの手を離さないから」

「……ずっと?」

「ずっと」

「……うん、」

 それならいいよ、と名前は言った。「私はどこにもいかない」ずっと一緒にいるから。

「だから、ね」

「うん」

 名前は口を閉じる。
 さくりと踏み締める砂浜の、刻まれた足跡はふたり分。その証さえすぐさま浪に呑まれて消えてしまったけど。永遠なんて信じ続けられるかはわからないけど。

「春も夏も秋も冬も寂しいって言うなら、ずっと一緒にいるよ。次の年も、その次も」

「時々、抱き締めてくれる?」

「時々といわずいつでも。抱き締めて、キスしてあげるよ」

「そういうのはたまのご褒美だからいいんだって知らないの」

「知らないなぁ」

 名前がちいさく笑うから、つられて口許が緩む。
 黄昏時は瞬きのあいだ。空には宵闇が滲み出す。「さあ帰ろうか」頷く顔に、未練の色はない。ふたり、屍の海に背を向ける。
 その家路を照らすのはたけなわに白い月明かりであり、一等星の輝きであった。