すべて剣をとる者は剣にて亡ぶなり


 目覚ましと共に目を覚ます。
 と、どうしてか体の自由がきかない。独り身のベッドは肌寒さを覚えるほど広いはずなのに。なのに今朝はその寒さで目を覚ますことなく、むしろ温かすぎるくらいで……。

「ちょっと、吉田くん?」

 腕を伸ばし、喧しいベルを止め。それから名前は自分を抱き締める男の背中を叩いた。
 けれど彼ときたら一向に目を覚まさない。ヒュプノスもびっくりの安らかな寝顔。昏々と眠る姿はいたいけで、乱暴にするのは躊躇われた。
 とはいえいつまでもこうしているわけにはいかない。いくらその温もりが心地よかろうと、出勤時間は刻々と迫ってくる。

「吉田くん、ほら、起きて」

「ん…、名前……?」 

 彼は目覚めのいい方らしい。軽く揺すると、すぐに瞼が持ち上がる。
 が、抱き締める力は弱まらず、むしろ一層その胸に押しつけられて。

「はーなーしーて」

「いいじゃん、たまにはサボったって」

 もがくと、甘い誘惑がひとつ。悪魔の囁きが耳朶を擽り、うっかりすると意思の揺らぐところの。
 それを何とか振り払い、「こらっ」と額を爪弾く。

「不良少年め。そもそもいったいいつの間にうちに来たの。ぜんぜん気づかなかったよ」

「日付が回ったくらいかな。バイトが長引いちゃってさ、うちよりここの方が近かったからいいかなって」

「よくない、よくないよ。せめて一声かけてくれないと。びっくりしすぎて二度寝どころか永眠しかけたよ」

「でもカギくれたのは名前の方じゃん。それに昨日はよく眠ってたから、起こすのも悪いかと思って」

「キミは気を遣うべきところが違うと思う」

 まったく、と溜め息をついてみせるが、その大仰なこと。実際のところ嫌悪の類いは一切なく、けれどこれが彼以外であったなら……果たしてどうだろう?少なくとも同じことを最愛の彼女がしたなら、きっと幸福のあまり意識を飛ばしていたに違いない。
 だから、まぁ、別に、本当に嫌だったわけではないのだけど。

「……悪いけどキミの提案には乗れないな。これでも一応、真面目な公務員なので」

「それは残念、フラれちゃったか。でもそういうところも好きだよ」

「キミねぇ……」

 さらりと言ってのける彼に羞じらいの色はない。眠っている時はあんなに可愛らしかったのに、目覚めるとこれだ。女たらし、レディキラー、ジゴロ……そうした単語が名前の脳裏を駆け巡る。……まさかこうも口がうまいとは思いもしなかった。
 彼が本性を表したのは先日の一件以来。夏の終わりの、ある夜のこと。『好きだよ』と、『一緒に逃げよう』と言われた。言ってくれた、あの日から。彼はあからさまに好意を示すようになっていた。
 しかし言われ慣れていない名前は、咄嗟に二の句を継げず。『軽々しく言うものではない』と怒るべきか、それとも素直に『ありがとう』と受け取るべきか。
 迷っているうちに弧を描く唇の、熱が触れたのは名前の額。

「おはよう、名前。……言い忘れてたからね」

 莞爾、と笑む彼の方こそ悪魔的だと名前は思う。堕落と退廃と……誘惑の気配。
 危うく転がり落ちるところを慌てて踏みとどまり、「……おはよう」と絞り出す。……ものの、渋面までは取り繕えなかった。





 留守をヒロフミに任せ、やって来たのは公安本部。マキマの命で彼女の部屋を訪ったものの、その実用件などは何も知らされていなかった。
 だから彼女が「江の島に行かない?」と早川一家を誘った時には驚いた。

「名前ちゃんの予定もこっちで調整しておくから」

 安心して、と微笑む。そんな彼女の中では名前の江の島行きは確定事項のようだ。有給を使うのも、江の島に行くことも、たったいま聞かされたところなのだけど。

「楽しみだね、名前ちゃん」

 とはいえこの微笑みに逆らう術はない。他に有給を使う宛もなし、ならばこの誘いは歓迎すべきものだろう。
 気分転換にもなるし、と考えて、そこで名前はデンジに視線をやる。

「マキマさんと旅行なんて夢みてえだ……!」

 はしゃぐ彼であるが、ボムの一件以来塞ぎ込んでいたらしい。なんとなく気まずくて早川家から足が遠退いていたから、アキからの伝聞でしか知らないけれど。でも今の様子ではすっかり立ち直っているように見受けられる。

 ……まさかそのために江の島行きを?

「……マキマさんは優しいですね」

「そんなことないよ。私が江の島に行きたかっただけ」

「じゃあそういうことにしておきます」

 笑み交わす、平凡な朝。……なれど崩れるのは一瞬のこと。

「なに、なにごと?」

 突然やって来たのはマキマの配下の男たち。彼らが齎したのは、『デンジの存在が公のものになった』という最悪の知らせ。悪魔の心臓を持つ人間、デンジの命が各国に狙われることになった瞬間である。
 けれどマキマの表情に変化はない。「不味いことになったね」と言いながら、その声の調子すら冷静そのもの。すぐに次の手を考え、指示を出していく。

「宮城公安の対魔2課から日下部と玉置を呼んで。京都公安対魔1課からはスバルさんを」

 それから、民間にいる吉田ヒロフミも。

「……吉田くん、ですか」

 耳慣れた名に、思わず声を洩らす。こんな時なのに、……いいや、こんな時だからこそ。有事に持ち出されたその名前に、名前はひとり狼狽える。

「どうして民間の彼を……」

「それだけ買っているということだよ。彼が使える人間だということは名前ちゃんこそよく知っているでしょう?」

「それは……そうです、けど」

 答えになっていない、と名前は思う。
 だって、別に、吉田くんじゃなくたっていいじゃない。彼は民間のデビルハンターで、高校生で、映画好きの、普通の人間で。──たいせつな、友だちだから。
 だから使えるとか使えないとか、強いとか強くないとか、そんなことは関係なかった。こんな危険な任務に巻き込みたくなかった。あの白い膚の、その下に流れる血の色を。朱の色の鮮やかさを、想像すらしたくなかったのに。

「……名前ちゃん、」

 するり、と指先が滑る。頬に添えられた右手。親指の腹が、強ばった名前の頬を撫でる。
 そして耳元に寄せられた唇が紡ぎ出すのはとろりと甘美なる調べ。

「大丈夫、何も心配する必要はない。恐れることはないんだよ。だってそうでしょう?これまでだってそうだったんだから」

 ──これまでだって、沢山の人間を見殺しにしてきたのだから。

「それとも彼だけが特別なのかな」

 そんなことは赦されない。赦される、はずもない。
 彼は民間のデビルハンターで、ただの人間なのだから。神さまに選ばれたわけじゃないんだから。だから、彼だけが特別だなんて──言えるはずもなかった。

「いいよね、名前ちゃん」

「……はい」

 そう言われては押し黙るしかない。こんなのは逃避でしかないとわかってはいるのだけど。
 目を伏せると、彼女は「いい子」とわらって、名前の頭を撫でた。忠実なる飼い犬を褒める仕草。それ以外でもそれ以上でもない。
 でもそれでいいのだ。飼い犬に思考する余地はない。ただ彼女の命令に従うだけ。それこそが幸福であるのだと、それでいいのだと、そう思っていた──はず、なのに。
 黒服の集団から外れ、名前はひとり、肩を落とす。

「……いやだなぁ」

 いやだ、と思ってしまう。どうしても。そんなのは『信仰の悪魔』らしくないとわかっていても。人の命に優劣などないと理解していても。
 それでもやっぱり彼のことを巻き込みたくはなかったと、どうしたって思ってしまうのだった。