冗談


 チェンソーの悪魔。その心臓を持った少年。彼のことは事前に聞かされていたから、実際に相対したところで深い感慨はない。「仲良くしようぜ」と言ったのだって、同じこと。

「彼、ほんとに俺らと同年代?小学生じゃなく?」

「こら、」

 宮城の公安に叱られる様を眺め、思わず溢す。
 「聞こえるでしょ」と眦を引く名前は不機嫌顔。けれどそれがデンジを慮ってのことではなく、自分のせいだと──勝手に公安からの依頼を承諾したせいだと──わかっているから、口許は弛む。
 ことの起こりは昨日のこと。帰宅した名前を出迎える。と、開口一番、「どうしてオッケーしちゃったの」となじられた。

「公安からの依頼、……デンジくんの護衛なんて、危険きわまりないことくらいキミなら察しがついたでしょ」

 ひそめられるは柳眉。なれど表れるのは怒りばかりではなく。頼りなげに揺れる目、震える睫毛はむしろ悲しげで。

「ごめんね」

「別に、謝ってほしいわけじゃないよ」

「でもこれで一日中一緒にいられるんだよ。その上報酬もいいし、こんな好条件のバイトはないよね」

「開き直っていいとも言ってないけど」

 「心配なんだよ」と名前は言う。昨日も、今日も。「キミを喪うのが、怖くて仕方ないんだ」そう言われたところで胸を充たすのが悦びだけであると、彼女はまだ理解しない。
 だって、これ以上に深い愛の言葉があるだろうか。好きだとか愛してるとか、そういった言葉よりもずっと強い情念。隠しきれない執着の色に、平静を装うのは至難の業。元より、こちらは隠すつもりもないが。

「……なんでキミはにやにやしてるのかな」

「いや、かわいいなぁと思って。もちろん名前のことだよ?」

「すぐそういうこと言う……」

 腰を抱くと、「からかわないで」と手の甲をつねられる。……本心なのに。
 まったく、酷いのはどっちだか。

「どうしてもこの仕事引き受けるっていうなら集中して。でないと私の心臓がもたないよ。今だって既に心配で、嫌な想像ばっかりしちゃって……、……悪魔にも胃薬って効くのかな…………」

 どうやら怒られているらしい。が、その言葉の端々からすら愛情を感じてしまって、残念ながら効果はゼロ。名前には悪いけど。
 懇々と諭されているところ、「……?」しかし視線を感じ、つと瞳を動かす。

「…………」

 交わるのは視線。じっと見つめるは琥珀の眼。それを美しいと評するものもいるのだろうけど──
 しかし瞬間的に感じたのは奈落。深き深き水底の、その淵に立たされたような錯覚。ごうごうという激しい風の音さえ聞こえそうなほど。笑み含む唇の、凄惨なまでの赤色はゾッとするものがある。
 それに何より、その目に宿るのは──あぁ、紛れもない──

「ちょっと吉田くん、聞いてるの?」

 ぐい、と。
 金縛りを解いたのは名前の手。両の頬を挟まれ引き寄せられたところの、間近に迫るは冴え冴えとした蒼。晴れやかなる空の色は、先刻まで感じていたイメージとはまるで正反対。清涼なる風が胸に吹き込んで、あの恐ろしげな感覚を取り払ってくれる。

「……どうかした?あ、もしかして妬いてくれたの?」

「なに言ってるの。私がマキマさんに嫉妬するわけないでしょ」

「俺はするけど」

 たぶん、『彼女』も。

「まっ、またそうやってからかって……!」

「あれ、動揺してる?ちょっとは嬉しいと思ってくれた?」

「調子に乗らないで」

 朱を散らす名前を揶揄っている間も、射抜くような視線は降りやまない。
 けれど気づかぬふりをした。目をやれば、きっとあの目が待ち構えているのだろう。あのどろりと濁った『女』の──マキマの目。地獄の業火をも思わせる強い怒りが、そこにはあった。
 あれこそ女の情念だ。愛憎入り交じる執着の証。……向けられている張本人は、てんで気づいていないようだけど。

「ねぇ、この仕事の間は名前の家に泊まらせてよ。うちから通うの、結構めんどくさいんだよね」

「だめ。……って言っても聞かないでしょ?」

「うん。けどやっぱり名前の口から直接聞きたいから」

「もう、しょうがないなぁ」

 つんと澄ましてみせるも、そう長くは続かない。すぐに相好を崩して笑み溢す名前の、その無邪気さを愛おしく思う。
 だから、『彼女』の思い通りにはさせない。させたくない。ただの駒として消費される名前を見たくはなかった。それが名前の望みだとしても。『信仰の悪魔』にとっての最善だとしても。

 それでも俺は──

「そんなこと言って、ほんとは嬉しいくせに」

「なっなななんでわかったの!?」

「うそ、ほんとに?当てずっぽうで言っただけなんだけど……」

「なあ……っ!?」

 変わらないでいてほしい。何かを切り捨てることも、何かに押し潰されることもなく。今のままの名前で、変わらずにいられるなら──そのためなら彼女に恨まれたって、憎まれたって構わない。
 もしもふたり、どこか遠くへ──誰にも邪魔されないところへ行くことができたら──どんなに幸せだろう。
 ……なんてね。