朝であればいいのに


 カレンダーを捲ると、途端に大気が澄み渡る季節。秋。その切り替えの速さに、夏の間は薄い膜のようなものが身体を覆っていたのだろうと名前は思う。それが溶けて、景色は一気に色づき出す。たぶん、じっとりとした熱気がこの目を曇らせていたのだ。東京の空は今日もよく晴れている。

「腹ァ減ったな」

 呟いたのは前方、背後を宮城の公安ふたりに守られたデンジだ。
 しかしその顔に『警護されている』という意識はなく、態度も飄々としたもの。宮城の公安──日下部と玉置の、(主に生真面目そうな日下部の)苛立ちが最後尾にいる名前まで伝わってくる。お陰でこの護衛任務が始まって以来、ハラハラしっぱなしだ。
 そろそろ本当に胃薬の服用を検討すべきだろうか。……悪魔の体では、気休めにしかならないのかもしれないけど。
 日下部は腕時計を見て、「昼食の予定時刻まであと二十分ですね」と呟く。

「個室の店を予約してあるので、そちらに──」

「なんか俺ェ、いま無性にポテト食いたい気分なんだよなぁ〜」

「ハンバーガー!ワシ、ハンバーガー食べたい!」

「おっ、あそこに見えんのはマックじゃねぇの?昼メシはあそこにしようぜ」

 日下部の言葉を遮る、デンジとパワー。悪びれることもない二人に、日下部の眉がピクリと動く。

「警護期間中はこちらの指示に従ってもらう、と言ったはずだが」

「ンなこと言ったってよぉ〜、俺ァいまポテト食いたい気分なんだよ。パワ子だって……、かわいそーと思わねぇのか?」

「ワシかわいそう!人間はいつも勝手じゃ!」

「……キミたち、」

 青筋を浮かべた日下部がふたりを叱りつけるが、そんなもの効くはずもなく。

「俺ァぜってーポテト食うからな!」

「まてデンジ!抜け駆けは卑怯じゃ!」

 ダッと駆け出した二人はアキや天使の制止も振り切り、ファストフード店へと一目散。あっという間に店内へと消えていくものだから、慌ててその背中を追いかけた。

「なんて手のかかる……」

「すみません……」

 やれやれという溜め息の音に、思わず頭を下げたのは入店してから。一頻り説教するもまったく響いた様子のない二人に、日下部が嘆くやら呆れるやらでひとりごちたところである。

「あの、でも二人とも悪気があったわけじゃないんです。事の重大性がわかっていないだけで……」

 そう言ってから、『これではフォローにもなっていないな』と気づく。

「いや、そうじゃなくて」

 が、時すでに遅し。しまった、余計に怒らせたかもしれない。表情が変わらないからわからないけど。
 でもここは先手必勝。「ごめんなさい……」とりあえず謝っておこう。迷惑をかけているのは事実だし。
 身を縮めて様子を窺うと、

「どうしてあなたが謝るんですか」

「え」

「まず第一に彼とあなたは同一の人間ではありません。次に、彼は未成年ではありますが、公安に所属する社会人でもあります。彼の父親でも母親でもないあなたが謝罪をする必要性が見当たりませんが」

「なるほど……?」

 いやまぁ確かに。それはそうかもしれないけど。
 だったらアキくんにはその権利があるのだろうか。名前はそんなことを思い、天使と一緒にメニュー表を眺める彼の横顔を盗み見る。
 彼はデンジの保護者で、母のように家庭を守り、父のように厳しく育ててきた。兄貴分、というのが一番わかりやすい表現だろうか。だからたぶん、彼には謝罪をする権利がある。

 ──でも、それなら、

「……それならやっぱり、謝りたいです。私はデンジくんの父親にも母親にもなれないけど、保護者のひとりではありたいから」

 『そういうこと』だったのだろうと思う。
 爆弾の悪魔、彼女を疎ましく思ってしまったのは彼を奪われたくなかったから。それは年頃の息子を持つ母親のような、そんな心境だったのだろうと今ならわかる。

 ……デンジくんにとっては迷惑な話だろうけど。

「……なるほど」

「あ、こんなこと言われても困るだけですよね、すみません」

「そうですね。ですが否定するつもりもありません。あなたがそう言うのならその謝罪も受け入れましょう」

「ありがとうございます……?」

 真面目だ。真面目すぎるから悪魔の戯れ言なんかも真剣に受け止めて、「どういたしまして」なんて礼儀正しく応えてくれる。
 日下部さんのご家族もこんな感じなんだろうか。名前は思う。きっと大切に育てられてきたのだろう。
 とはいえデビルハンターに家族のことを訊ねるのはやぶ蛇が常。好奇心は忘れることにしよう。内心で頷いていると、日下部は僅かに目を細めた。

「……あなたは変わったひとですね」

「え、」

「デビルハンターなのに悪魔や魔人をそこまで思いやれるなんて」

 何気ない台詞。何気ない言葉。日下部にとっては先刻までの会話の延長でしかないだろうそれに、しかし名前の心臓は跳ねた。ひやり、冷たいものが喉を焼く。

「それは……」

 それはわたしが、悪魔だから。
 だから本当に変わっているのは──怖いくらいに優しいのは、アキくんのほう。悪魔に家族を殺されたのに、それでもなお『個』を尊重してくれる彼だけがとくべつ。他の何にもかえがたい、尊いもの。

 あぁ、喉が渇く。じとりと汗ばむ手のひらが気持ち悪い。
 ──否。本当に気持ち悪いのは──浅ましく、汚らわしいのは──こうして人間のふりをしているわたし(悪魔)の方だ。

「……それなら俺は間男役に立候補しようかな」

 答えに窮していると、不意に肩を抱かれ、息を呑む。
 見上げた先、見開かれた目に映るは柔和な笑み。感情の読めない漆黒の目が、しかし存外情に厚いことを名前は知っていた。

「吉田くん、」

「俺は父親って柄じゃないし。名前が母親役やるんなら、間男になるしかないよね」

「いやダメでしょ。デンジくんの教育に悪いし、そもそも私にだって母親役は無理だって。やるなら……お姉ちゃんとか、そのくらいがちょうどいいよ」

「なら俺はその彼氏ね」

「ままごとにその役、いる?」

 下らない会話を続けているうち、日下部は『やれやれ』という風に立ち去る。……それもまた、彼の目論み通りだったのだろう。
 名前はちいさく笑い、彼の耳許に顔を寄せた。

「……ありがとう、吉田くん」

 けれど彼ときたらそ知らぬ顔。「何が?」と首を傾げてみせる。

「俺はただ、二人の邪魔をしたかっただけだよ。名前が日下部さんとばっかり仲良くしてるもんだから」

「じゃあそういうことにしておいてあげる」

 嘘つき。でも吉田くんのは優しい嘘だ。助け船を出してくれたのであろうことは明白なのに、それを軽口で隠している。優しいひと。

「……このまま何事もなく、平和に終わればいいのに」

 それが叶うべくもない儚い望みであることはわかっていたけれど。それでもこの穏やかな時間が少しでも長く続くことを願わずにはいられなかった。