愛は死のように強く
先月までに比べて陽が落ちるのが早くなってきた。足元に落ちる影の色は濃い。黄昏の頃。逢魔が時、雀色時。影がじんわりと滲み出して、現との境界が曖昧なものと化す。
『さてその黄昏は、少し風の心持……』蒼白い女の怪談話を思い出してしまったのは、この蒸し暑さのせいだ。空の橙色は美しいと同時に、時に訳のわからない焦燥感も連れてくる。
この日も朝から歩き通しだった。たぶん暫くはこういった1日が続くのだろう。デンノコ悪魔を狙う刺客はなかなか姿を見せてはくれない。これは持久戦だ。相手はこちらが油断するのを待っている。
「ヤベェ」
不意にデンジが言った。言ったというより思わず口から出たという感じだった。きゅうっと寄せられた眉。何事かと宮城公安の二人が身構える。
デンジの手は自身の腹部を押さえていた。
「クソ、クソしてくる」
きゅるるる、と腹が鳴く音がする。……、ような気がした。
ずいぶんと切羽詰まっていたらしい。クソという単語の意味を名前が理解するより早く、デンジはダッと走り出す。その背を「待てっ!」と追いかけるのは宮城の二人だ。
「少しは我慢できないのか!」
「うるッせぇええ!ンじゃァここでクソぶちまけてもいいってのかよォ!」
「巡回ルートを守れと言っているんだ!」
「俺のケツを守る方が大事だろォ〜がっ!」
「たとえ漏らしたとしてもキミの臀部が傷つくことはないだろう!?」
「マジで話通じねぇなァーッ!?」
そんなことを言い合う二人に続いて、駆け込んだのは小さな公園。それでも目的の建物が見え、日下部は素早く指示を飛ばす。
名前が命じられたのは公衆トイレ入り口の守りだった。宮城の二人は左右に散って、天使の悪魔はめんどくさそうな顔を隠しもせず空に飛ぶ。ちなみにパワーは名前の横で「疲れた」と座り込んでいる。
じゃあデンジは一人なのかといえば当然そんなこともなく。
「心配しなくても大丈夫だよ。俺のはこういうのに向いてるからね」
たった数分とはいえデンジから目を離すのは不安だ。そんな感情が顔に出ていたのだろう、ヒロフミは名前の頭をポンと一撫でするとデンジの後に続いた。
「着いてくんじゃねェー!俺ぁ男と連れションする趣味はね〜ンだよ!」「俺だってないよ」「ヤダ!名前さんがいい!名前さぁーん!!」「だから扉の前で待ってるだけだって」デンジの叫び声とヒロフミの淡々とした声が反響して聞こえてくる。
でもごめんね、デンジくん。さすがにその仕事は替わってあげられそうにないや。
「デンジくん見てると刺客に狙われてるの忘れちゃいそう」
「あぁ……」
「けど元気ないよりはずっといいよね。そりゃあ江ノ島に行けたらそれが一番良かったんだけどさ」
「そうだな、」
「……アキくん?」
相槌は打ってくれている。だから声は聞こえているはずだ。なのにアキの返事は上滑りしているように感じられて、名前は顔を上げた。
視線が合った。合った瞬間、パチリと音がした。もちろんそんなのは錯覚で、でもそう思ってしまうくらい『目が合った』ことが実感できた。彼がちいさく肩を揺らしたのも、わかってしまった。
でもどうして?仕事中に気が抜ける、なんてこと、真面目な彼が?ありえない。でもそうとしか思えなかった。そうとしか説明できなかった。
パチリと音がする寸前、どこか遠くに馳せられた視線の意味は、
「疲れちゃった?」
「まさか」
「じゃあ何か考えごと?」
「…………」
基本的に彼は嘘をつかない。言いたくないことは黙っているタイプだ。そして今の沈黙。答えは明解だ。とはいえそれ以上のことはわからないのだけど。
トイレからはまだ押し問答が聞こえてくる。宮城の二人は「まだなのか」と声をかけている。天使の悪魔は未だ空に浮いている。壁に凭れ掛かっていたはずのパワーは「お腹空いた」と地べたに横たわっている。
時間が止まっているのはここだけ。名前とアキのたったふたり、その空間だけが静止していた。
そして、そして、
「……仲、いいんだな」
え、と言いかけて、呑み込んだ。というか、声をなくした。名前は隣に、目の前にいる人を、知らない人を見るような心持ちで眺めた。
「あんな風に接してくるやつ、はじめて見た」そう言って、すこし決まり悪そうに目を逸らす、彼は間違いなく早川アキだ。この表情にだって見覚えがある。
だけどそのセリフだけがどうにも彼らしくなくて、理解が追いつかない。だって、名前は『考えごとがあるのか』と聞いたのだ。なのに彼の答えはこれだった。それじゃあまるで、『そのこと』を考えていたみたいじゃないか。私と、吉田くんのことを────
「あぁ、うん、そう、そうなんだ。結構良くしてもらってて、友達……だと、私は思ってる」
「そうか」
「うん、」
うん、ってなんだ。アキくんも『そうか』、って。聞いたのはキミの方なのに。『そうか』って、それだけなの。それだけならあんなこと、言わなきゃよかったのに。
なんとなく見ていられなくて、名前は視線を落とした。黄昏は濃度を増し、影の色と同化し始めている。そんな中を一匹のアリがよたよたと歩いているのが見えて、意味もなくその行く末を見守った。
沈黙が痛い。二人はまだ戻ってこないのか。そればかりを考えていた。じゃなきゃ余計なことを考えてしまいそうだった。
「名前さぁん、コイツのせいで全っ然スッキリできなかったんスけどォ〜」
「ははは、そう言うなよ。仲良くしようぜ」
「俺ぁ男とは仲良くしねーって決めてんの」
時間の感覚なんてなかった。だから二人が出てきた時にはホッとして、思わずデンジの頭を撫でてしまった。にへらと相好を崩すデンジを見ていると、先程までの居心地の悪さを忘れられそうだった。
いや、忘れようとしていた。忘れなきゃだめだよ、と誰かに囁かれた気がした。それは必要のないものだからね。そう言った声は甘く、腐り落ちる前の果実の匂いがした。
「デンジくん、お腹はもう大丈夫?」
「あー、まだなんかぐるぐるしてるんスけど、まぁさっきよりはマシ?って感じ」
「うーん、やっぱりいつもと違う生活だから身体は緊張しちゃってるのかな」
「いや、拾い食いのせいだろう」
戻ってきた日下部が決めつける言葉を吐くと、デンジは「そんなんで俺の腹がダメになるわけねぇ」と断言する。
どこから出てくるんだ、その自信は。日下部の呆れを含んだ目は、あいにくデンジには届かない。
「もう地面に落ちてるものは食べちゃだめだよ」
「でももったいねーし……」
「私はデンジくんが苦しい思いをする方が嫌だな」
そう言えば、デンジはあっさり首を縦に振った。根本的には優しい子なのだ。「もうしねー」と約束してくれた彼の頭を、「いい子だね」と撫でくりまわす。
悪魔をその身に宿してなお『こう』在れるのは、心臓となった悪魔がよほど善性に溢れていたのか。チェンソーの悪魔。出会ったことのないはずの存在に、思いを馳せる。出会うことができたら、友達になれただろうか。
ポチタ、とデンジが呼んでいた悪魔。犬の形をしていたということは彼から聞いている。だからか、彼の傷んだ髪を撫でていると、なんだか大型犬を相手にしているような気持ちになった。素直に擦り寄ってくる様子に、胸が擽られる。
と、その手にぬうっと影が伸びた。
「あんまりベタベタされると妬いちゃうな」
掴まれた名前の手首。ヒロフミの手は、それを一回りしても余りあった。大きくて力強い、無骨な男の手。やがて大人へと変わりゆくそれに、心臓が跳ねたのは憧憬からか。それとも、それとも、
「ね?」と小首を傾げて、ヒロフミは薄っすらと笑う。なのに目は、その双眸だけが笑っていない。温度を感じさせないはずの黒い目に見つめられて、見つめられたところが熱を持つ。熱せられて、膿んで、ぐずぐずに溶けて、それは腐り落ちる果実のイメージだった。
「てめーにゃ関係ねェだろーが!」
ギャンッと吠えたデンジに、ヒロフミは降参の意を示す。両手を挙げて、でもその唇は笑みをたたえたまま。「まぁいいよ」今は譲ってあげる。そう続けて、細められた目。それは未だ名前を射竦めていた。
──そういえばこの仕事が終わるまでは一緒にいようって約束しちゃったんだっけ。
すこし、後悔する。
彼のことは友達だと思っているし、違う関係になりたいと望んでいるわけでもないのに、心は裏腹。浮き足立って、足元が心許ない。そりゃあだって、好意を寄せられて嬉しくないはずがないのだ。応えられないのに、でも手放し難くて。それはとても残酷なことだというのに、彼はそれすらもゆるしてくれるから、
「……間抜けヅラ」
いつの間にか降りてきていた天使にそう言われても、反論できない。どんな顔かなんて自分じゃわからないけど、満足げに笑みを深めたヒロフミの様子で察しがついた。
すごく、すごく、はずかしい。こんなはずかしいのに、世の人間は素知らぬ顔で愛を囁き合っているなんて信じられない。人間はすごい。
「早く行くぞ」と玉置に急き立てられ、ぐんにゃりと投げ出されたままのパワーの身体を抱き起こす。
「もう動けん」「動かないとお家に帰れないよ。帰ったら焼肉にしようね」「ワシは帰るぞォ!」現金なものだ。パワーはあっさり立ち上がり、デンジの腕を引いた。「勝手に決めるな」というアキの抗議には聞こえないふりをする。
早く夜にならないかな、と天使の悪魔の隣で名前は思った。陽が差しているうちは熱が引きそうにない。先刻ヒロフミに掴まれた手首も、未だ感じるアキからの視線も。何もかも忘れてしまいたい、と回らない頭で思う。必要のないものだから。そう、命じられたから。
──あぁ、なんだか無性にマキマさんに会いたい。