氓T


 最初に知覚したのは【におい】だった。
 雨上がりの湿った土のにおい。或いは濁った下水、澱んだ川。共通するのは鼻につく刺激臭であるということ。本能的な忌避感に、名前は目を開けた。

「ここは……」

 広がるのは無明の暗闇。なれどまったく目が利かないというのでもない。不思議なことに自分の姿かたちは過不足なく捉えることができていた。
 横たわる体も、──その下に積まれた人骨の山も。

「ようやく目覚めたか」

 傍らに座すのは──はて、誰であったか。薄笑いに心当たりはない。ないけれど、自然と居住まいを正していた。
 そしてその反応は間違っていなかったらしい。

「呪いの王を前にして呑気に寝こけているなど、ずいぶん肝の据わっていることだなぁ?」

 男の言葉で確信を抱く。
 呪いの王──両面宿儺。つい先日聞いたばかりのその名が脳裏によみがえる。特級呪物であるその指が行方不明になったこと、発見には至ったものの回収は叶わなかったこと、現在は少年──虎杖悠仁の体に取り込まれていること。

『悠仁はいい子だけど油断しちゃいけないよ。いつ何どき、宿儺が表に出ないとも限らないからね』

 その時は──もしも『彼』に殺されるようなことがあったら──

『僕は宿儺を殺すだろうし、そうなったら器の悠仁がどうなるかは……わかるよね?』

 僕にかわいい教え子を殺させないでね。そう言った五条悟の、冗談まじりでありながら少しも笑っていない目を思い出して、名前は背筋を凍らせた。
 いったいぜんたい何がどうなっているのかわからないが──彼に殺されるのだけは避けなくては。

「おい、だんまりか?」

「いっ、いえ!すみません、においが気になってしまって……」

「におい?」

 しまった。話題を逸らそうとして、つい本音が。しかもここの住人であろう彼に対し、かなり失礼な物言いである。
 名前は焦った。それはもう大いに焦った。けれど覆水盆に帰らず。一度発してしまった言葉は取り消せない。できるのはただ、祈ることのみ。彼にとっての地雷ではありませんようにと願うばかりである。
 ハラハラと見守る名前の前、宿儺は「ふむ」と一考。

「確かに。生者であるお前には些か刺激が強すぎたか」

「あの……」

「許せ、これが俺たち呪いの【業】というものだ」

 驚いた。あの両面宿儺が。快楽のために女子どもでさえなぶり殺しにしたとされる呪いの王が、『許せ』などと。他人に許しを求めるなど思いもしなかったから、咄嗟に反応につまる。
 さて、ここはなんと答えるべきだろう?

「……おそうじ、お掃除してみてはいかがでしょう?お掃除はいいですよ、無心になれますし、気分転換もできますから」

「…………」

 ……何を言っているのだろう。困ったからといって、これはさすがにない。宿儺でなくとも無言になる。呆れられて当然だ。

「……っく、」

 ……こうして笑われることだって、甘んじて受け入れなくては。

「掃除、掃除ときたか!この俺に!」

 反響するは笑い声。腹を抱え、膝を叩く呪いの王。一介の呪術師に過ぎない名前は肩を縮こまらせるしかない。

「よい、許す。今宵の俺は些か気分がいい。感謝するんだな、この俺の気紛れに」

「あっ、ありがとうございます……」

 どうやら本当に機嫌がいいみたいだ。『不敬だ』と激昂されてもおかしくなかったのに。
 けれど宿儺はといえば鼻歌でも歌いかねない様子。にんまりと弧を描く口許に、『案外いいひとなのかも』とすら思う。
 気紛れだと彼は言ったけど、それならそのきっかけはいったい──?

「匂いだ」

 窺い見る名前の目。その視線に気づいた彼は端的に答える。「お前の匂いが気に入った」と。

「匂い……ですか?」

「ああ、……懐かしい匂いだ」

 細められた目、馳せられた眼差し。それは郷愁のため……だろうか?

 でも思い当たる節なんて──

「……っ、」

 いや、ひとつだけある。たったひとつ、──さよならだね──そう、別れを告げたひとたちが。

「呪霊と縁があるから……?」

 確信を持った問いに、宿儺は否定しなかった。「それもまた理由のひとつだ」そう言って、わらった。その顔は名前の知る誰とも似ていなかったけれど、何故だか懐かしさが込み上げた。
 今頃みんなはどうしているだろう。名前は思う。裏切った私には、何を想う資格ももうないけれど。恨まれても憎まれても、文句は言えないけど。
 それでも、

「何より俺好みだ。術式も、──それ以外も」

 腕を引かれる。骸の上。不安定な足許が揺らいで、体が傾ぐ。傾ぐ体を支える術はなく、けれど地に叩きつけられることもなく。

「ぁ……」

 抱き留めるのは厚い身体。鼻先を掠めるのは吐息。そしておとがいを捉えたのは痛いほどの力で。
 皮膚の上を走る爪の鋭さを感じながら、名前は息をつめた。
 夜の中で煌々と照る朱の色。深く鮮やかなその瞳は血の結晶なのだと、この時理解した。

 ああ、なんと恐ろしい──恐ろしいほどに美しい、血のいろ。

 その目が歪んで、舌を打つ音が響く。

「どうやら邪魔が入ったようだ」

 またな、と。囁きと共に齎されたのは、頬を舐められる感触。その後で、景色が急速に遠ざかる。
 強い力で背後に引っ張られる。どこか遠く──ここではないどこかへ。引き揚げられる力に、名前は逆らわない。不思議と恐れは感じなかったから。

「おはよう、名前」

 いつもの微笑みに見下ろされ、名前は安堵した。

「どうしたの?怖い夢でも見た?」

「そう……みたいです」

 どんな夢だったかはもう、思い出せないけど。

「大丈夫だよ、僕がついてるからね」

 それは魔法の言葉だった。どんな呪言よりも力を持った声、頭を撫でてくれる手のひらのその温かさに、何より救われた。

「……悟くんはすごいです」

「そりゃあね、人類最強ですから」

 だからもう大丈夫、だからもう、怖いものなんてなんにもないよ。
 梳る指の動きに合わせ、緩やかに瞼が下りてくる。

「もう少しだけ、このまま……」

「うん、いいよ。名前が望むなら、いつまででも」

 陽が昇る。夜は明け、世界もまた眠りから目覚め出す。その流れに逆らうようにして、名前は温もりに身を委ねた。
 きっと家を出る頃には慌てて身支度を整えるはめになるのだろうけど。その時はこの選択を後悔することになるのだろうけど。
 だけど今だけはまだ、このままで。