バニラ・スカイ



 その日の予定を(とはいってもそれは日下部の考えたものであったのだが)終えたデンジを家まで送り届け、ようやく帰路につく。
 時刻は夜の十一時を過ぎた頃。大都会東京とはいえこの時間になると通りをゆく車も疎ら、元気に走り回っているのはトラックやタクシーくらいなものだ。こんな時間まで御苦労なことである。
 吹く風は秋。昼間よりもぐんと下がった気温は季節の移り変わりを示していた。

「そろそろコンビニ飯も飽きてきたねぇ」

 名前は笑って、お腹を擦る真似をする。彼女の家まで徒歩十分。駅前にある三軒のコンビニエンスストアを順繰りに周る毎日であったが、さすがに目新しいものもなくなってきた。
 とはいえ代替案もなく、ヒロフミは「そうだね」と相槌を打つにとどめた。尤も、食事にさほど関心はないからそこまで困っているわけでもないのだけど。

「今日も一日歩き通し、このままじゃ脚が棒どころかムキムキになっちゃいそう」

「いいね、新しい怪物映画が撮れそうだ」

「やだよ、パニック映画だったら私、最後に殺されちゃうじゃない」

「大丈夫、純愛ものにするから。たとえばそう……『シザーハンズ』みたいな」

 冗談めかした物言いに、名前は「それならいいよ」と、あどけなき微笑。不思議と引力を感じさせる虹彩の蒼。コンビニの看板の、安っぽい光でさえその横顔に映える。
 カリーナに出会った時のゴダールもこんな気持ちだったのだろうか。自動ドアとやる気のない『いらっしゃいませ』の声に迎え入れられながらそんなことを思う。
 ──ファム・ファタール。君が俺の運命だったらいい。

「でも今は恋愛ものの気分じゃないなぁ。ほら、疲れてる時にこそ無性に観たくなる映画ってない?『ゴッドファーザー』の銃撃シーンとか」

 コンビニの間の抜けた音楽を背に、名前が言う。
 「バンバンバン」という効果音と共に、銃に見立てられた両手。狙いはこちらの心臓。いともたやすく撃ち抜かれる『それ』。子供じみた仕草に、思わず笑みが溢れる。

「『男たちの挽歌』とか?いいよね、スタイリッシュな映像美っていうの?」

「うんうん、特に二挺拳銃でのアクションシーンは何回も見返しちゃう」

「俺も。あとは『パルプフィクション』とか。何がいいって説明できないんだけど時々無性に観たくなる」

「わかる、冒頭のハンバーガートークすら謎の中毒性があるよね」

「それから……『ダイナマイトどんどん』とか」

「ダイナ……?」

 指折り数え上げつつも、手は機械的に商品へと伸びていく。ここ最近で染みついたルーティン。時間が時間だ。おにぎりを二つと、少し迷ってから一番小さいサラダを選ぶ。
 正直なところバランスのいい食事なんてどうだっていいのだけど、以前それを言ったら、名前に怒られてしまった。曰く、『キミには長生きしてもらわなきゃ困るんだよ』とのこと。かわいいお願いだ。でも、とヒロフミは思う。
 だけどね、たとえば『気狂いピエロ』みたいな最期を迎えるとして──愛した女に騙されてダイナマイトで爆死するのだとしても──それでも構わないとさえ思うんだ。名前、君が俺の運命になってくれるなら、それで。

「知らない?キャッチコピーが『てめぇら全員デッドボールでぶち殺しちゃる』ってやつ」

「ふふっ、何それ……。物騒だなぁ」

 ヒロフミが映画よりもよほど物騒なことを考えているなどとは露知らず。呑気に笑う名前に、覚えるのはぞくりとした背徳感。
 本当のことを言ったら名前はどうするのだろう。どんな声で、どんな表情で、どんな言葉を口にするのだろう。何にせよ、その目に映るのが自分だけであることに悦びを感じてしまうのだからどうしようもない。

「ヤクザが野球で決着つけようとする話なんだけど……結構面白いんだよ。ちなみに監督は岡本喜八」

「『日本のいちばん長い日』の?」

 そんな気持ちはチラリとも見せず、ヒロフミは「そうそう」と軽く答える。

「この前、久しぶりに観たいなぁと思ったんだけど、うちの近所のTSUTAYA、いつも借りられてるんだよね」

「岸辺さんが借りてるんじゃない?そういうの好きそう」

「そう思って聞いたけど違うって」

「聞いたんだ」

「それに『愚連隊』とか『暗黒街』の方が好きって言われた」

「あー……わかるかも」

 岸辺さん、今頃くしゃみでもしているかもしれないなぁ、なんて。二人して勝手なことを言いながら、レジへと向かう。
 会計を終え、外に出る。店内と比べても感じる肌寒さに差がなくなってきた。澄んだ風が首筋を撫でていく。
 「冷えるねぇ」と息をつく名前は窮屈なスーツ姿。白いシャツが余計に頼りなさを感じさせる。秋は短い。あっという間に冬がやってくる。
 その頃には今の生活も終わりを迎えていることだろう。元々、期限は決まっている。公安との契約は一ヶ月。それが終わればこの日常ともおさらばだ。同じ部屋で目覚める朝も、同じテーブルで食事を摂る昼も、同じ道を歩く夕暮れも、同じ部屋で眠りに就く夜も。やがては終わりがやってくる。そういうことに寂しさを感じる。これは、秋のせいじゃない。

「ねぇ、手、繋いでもいい?」

「突然だね」

「だめ?」

「う〜ん、」

 名前は考える仕草を見せる。でもそんなのは演技だとお互いに理解している。
 だけど「しょうがないなぁ」と差し出された手を、気づけば一拍の間さえ置かず絡め取っていた。体は正直だ。少しだけ、寂しさが和らいだ気さえする。まったく、単純なもので。

「可愛いから許してあげる」

 「吉田くんは案外寂しがりだよね」という言葉を、あえて否定しなかった。都合がいいし、実際のところは自分でもよくわかっていなかったから。
 「そうかも」と笑って、右手をしっかりと握り直した。名前の手は小さくて、ひんやりとしていて、柔らかかった。

「こんな毎日がずっと続けばいいのに」

「毎日コンビニ飯でも?」

「そんなの気にならないよ」

「帰ったらお風呂掃除させられるのに?」

「この会話も同棲してるみたいでいいよね」

「欲がないなぁ」

 名前は少し呆れたように目を細める。その言葉に、「そんなことないよ」と答える。そんなことはない。むしろ──と、無垢なる横顔から視線を落とす。
 細い腕の先、暗くて見えないけれど、その指先に並ぶ小さな爪の並びに思いを馳せる。それを整えるのが自分であればいいと思うし、それで傷つけられるのは自分だけであればいいとも願っている。もちろん、口にはしないけれど。

「たとえば今が夢だったとして、俺にはここから目を覚ます選択肢は選べそうにないな」

 目を上げる。
 自然と絡まる視線。手垢のついていない、まっさらな眼差し。朝焼けとも夕焼けともつかない色の眼、モネの描いたバニラ色の空がそこに広がっているのだと知っている。知ってしまったから、手を伸ばしたくなる。自分だけのものにできたらって、

「夢だと思うの?吉田くんは」

「それくらい今が楽しいってことだよ」

 でも、どうだろう。夢だとしたら、名前はもっと従順な女になるだろうか。そうなった彼女を手に入れたとして、それで本当に満足できるのだろうか。
 答えは決まっていた。

「まぁでも、キミの顔が醜くなったとして、それで心まで歪んだとしても、それくらいじゃ厭にはならないよ」

「愛してる、までは言ってくれないの?」

「それはまた今度、猫に生まれ変わったらね」

「猫じゃこんな風に手も繋げやしないのに」

 口を尖らせると、名前は思わずといった調子で笑った。「可愛い顔したってダメだよ」なんて、絡めた指の先を軽く抓られる。
 でも全然痛くない。むしろもっと痛くしてくれてもいいのに。いっそ爪を立てて、皮膚を抉って、消えない傷を残してくれたらいいのに。

「やっぱり俺は、今の名前がいいなぁ」

 その呟きに、答える声はない。
 でも別に良かった。期待はしていない。諦めるつもりも、毛頭ないけど。元より、長期戦は覚悟の上だ。
 花は折りたし梢は高し。バニラ色の空は、手が届かないからこそ美しいのだと知っている。
 それに、これはこれでいいものだ。ヒロフミは繋がれた右手の感触に意識を傾ける。
 小さくてひんやりとしていて柔らかい、名前の手。控えめに握り返されたそれが、羞じらいを含んだためだとわかったのは、逸された視線のせいだ。
 どんなに見つめても交わらない視線。今が夜であることを残念に思う。明るい陽の元で見れたなら、どんなに充たされたことだろう。想像だけで口の端が自然と緩んでしまった。

「ねぇ、名前──」

 好きだよ。そう耳元で囁けば、ビクリと震える肩。バッと起き上がる顔、わななく唇、見開かれた双眸。面白いくらいの反応に、喉が鳴る。猫じゃあこの反応は見られない。
 人間の、名前じゃなきゃ。

「私は悪魔だよ。今この瞬間だって、キミを食べようと狙ってるのかもしれないのに」

 見透かしたように名前は言う。
 薄紅の唇に浮かぶ、苦い笑み。悪魔だ、と言ったのは彼女自身なのに、傷ついているのもまた彼女の方だった。
 ……嫌ならそんなこと言わなきゃいいのに、とヒロフミは思う。嫌なことから目を逸らして何が悪いというのだろう?嘘だって、繰り返し重ねればいつか真実になる日が来るかもしれない。
 それに、とヒロフミは口角を持ち上げた。ことさら軽薄に、深刻さなんて微塵も滲ませずに。笑いながら、距離を取ろうとする名前の手を引いた。

「それはそれでいいかもね。あんたの中で生き続けるってのも……、うん、悪くないかな」

 腕の中で、名前は目を瞬かせる。東京の星空はくすんでいる。そのはずなのに、その目の奥には例えようもない光が宿っているようで目が離せない。
 暫し呆気にとられていた名前だが、やがて「……どうかしてるよ」の一言と共に息を吐く。
 でもお生憎様、そんなことじゃ傷つかない。

「どうかしてる俺に付き合えるのは、普通じゃない名前くらいなものだよ」

 「つまりお似合いってことだ」と続けると、名前はちょっと困った顔をして、でも否定はしなかった。
 それだけでよかった。満足した、なんて殊勝なことは言わないけど、とりあえず今は。今は、この右手が振りほどかれないことを幸せだと思うことにした。