偽りをいうものは滅びる
暴走する乗用車。跳ね飛ばされる二人。一瞬の静寂、そして混沌。
「でん、デンジくんっ、大丈夫っ!?」
「だァ……ァ……」
『大丈夫です』か『大丈夫じゃないです』か、恐らくそのどちらかの言葉を紡ごうとしたのだろう。しかし血に塗れた呼吸器から意味のある言葉は聞き取れなかった。何しろたった今、コベニの車に撥ねられたばかりだ。
……まぁ、運転席に座っていたのはパワーであったのだけど。
「そうだよね、大丈夫じゃないよね」周囲に視線を走らせてから、名前は手首にナイフを立てた。幸い人々の注意は事故を起こした魔人に向いている。刺客に狙われているデンジには、万全の体調でいてもらわねば。
デンジを膝の上に寝かせ、その顎を持ち上げる。脱力した身体。虚ろな眼差し。足元に広がる血溜まり。そうしたものに慣れてほしくないし、慣れたいとも思わない。
けれど滴り落ちる血を、デンジは何の躊躇いもなく嚥下した。ごくり、と上下する喉に、名前も胸を撫で下ろす。それは普通の人から遠ざかっている証だというのに。それでも生きていてほしいと願ってしまうのは身勝手な考えだろうか。
デンジの乾いた眼に生気が戻る。
「うげぇ〜……血の味がするゥ……」
「ワシに飲ませろ!」
「えぇ〜ヤだ。パワ子、おまえオレが死ぬまで飲もうとするじゃん」
「ダメだよパワーちゃん、デンジくんは怪我したばっかりなんだから。私ので我慢して」
パワーに左腕を噛みつかせながら、右手でデンジの口許を拭う。
名前もまた悪魔の身ではあるけれど、血を欲する感覚というものが薄い。だからか、血に汚れたデンジを見ても『かわいそうに』という気持ちが先行する。
──かわいそうに。痛みに慣れていくキミが、哀れでならない。
「シャツ、汚れちゃったね」
「オレは気になんねぇっす」
「私が気になるの。ほら、ボタン外すよ」
「ええぇ〜……」
備えあれば憂いなし。彼やパワーはすぐに服を汚すから、と替えを用意しておいたのは正解だった。どうしてだか頬を緩めたデンジの腕からシャツを抜き取り、着替えさせる。
「よしよし、男前になったね」最後に乱れた髪を梳いてやると、デンジはへらりと笑って、「ありがとうございます」と答えた。かわいい。し、素直にお礼が言えるのはえらいと思う。
「いい子だね」と頭を撫でかけて、整えたばかりだということを思い出し、諦める。それに血で汚れているのは自分の腕も同じだ。
パワーの口から腕を引き抜き、デンジが着ていたシャツで汚れを拭き取る。傷口が一瞬で塞がるのは悪魔の特権といったところ。いいか悪いかはさておき、こういうとき便利ではあった。
「確認の為に互いの悪魔を見せ合うぞ。人の少ない場所へ」
日下部の指示は尤もだ。触れた死体の身なりを奪える皮の悪魔、それと契約したデビルハンターがデンジの命を狙っている。能力からしてより身近な人間に成り代わろうとするのが定石。とはいえ仲間内で疑心暗鬼に陥るのは避けたい。早々に本物である証を立てるべきだ。
それは当然の結論なのだけど、名前は内心『しまったな』と焦る。悪魔を見せ合う。それはデビルハンターにとって造作もないことだろうけど、名前にとっては違う。悪魔でありながら人間のふりをしている名前にとっては。
でも逆らうことはできない。さて、……どうしよう?
「それで、貴女は?」
「私は……」
視線を向けられ、答えに窮する。
信仰の悪魔には幾つかの能力があるけれど、だからこそ『これだ』というものがない。どうすれば信仰の悪魔を有するデビルハンターだと認めてもらえるだろうか。
「……信仰の悪魔なら人の嘘も見抜けるんじゃなかった?」
助け舟を出したのはヒロフミだった。彼はいつも通りの薄い笑みを刷いて、「『虚偽を行う者よ、あなたの舌は鋭いかみそりのようだ』だっけ?」と聖書の一節を諳んじた。
……まったく、よくご存知で。
「俺しか知らないことを聞くから、それがホントかウソか見抜いてよ。……それでいいですか?」
後半、問われた日下部は玉置と目配せし合ってから、「そうだな」と首肯する。名前以外の全員が本人である証明をした後だ。『本物の吉田ヒロフミ』が提案したことだから、彼らも認めてくれた。
「じゃあ……」改めて向かい合い、ヒロフミを見上げる。
表情の読めない硬質な顔立ち、顎に手をやり考え込む仕草。こんな時でも余裕が窺える。どころか、楽しんでいるようにすら思えるのは、勝手な想像だろうか。
「俺が『仁義なき戦い』の中で一番好きなのは『広島代理戦争』である。イエスかノーか」
「……その質問、悪魔の力を使わなくてもわかっちゃうんだけど」
「それならそれでいいんじゃない?俺のことよく知ってるってことは偽物じゃない証明になるし」
そんな適当な。
『イエス』と答えてから、日下部に目をやる。彼からの小さな頷きは許しの証だ。
「よかったね」笑うヒロフミに頭を撫でられる。『よくできました』と褒められているみたいに。先程までとはまったくの真逆、反対の立場に立たされて、なんだかこそばゆい。
さっきのデンジくんもこんな気持ちだったのかな。そう思いながらも、名前は止めることをしなかった。だって、悪い気分ではなかったから。
「ってことでちょっと付き合ってもらってもいい?」
「え?」
温かい気持ちになっていると、ヒロフミが笑みの形を変えるのがわかった。
「気になる二人組がいたんだ」
言ったでしょ、皮の悪魔と契約しているのは三兄弟だって。
続く言葉に息を呑んだのは名前だけじゃない。聞いていた日下部やアキも驚いた様子だった。そんな彼らに、ヒロフミは「俺のはこういうのに向いてるんで」と説明する。
「全然気づかなかった……」
「名前はデンジくんに夢中だったからね」
「面目ない……」
なんだかすごく、責められてる気がする。
しかし事実は事実。私は悪魔なのに、と名前は肩を落とす。不甲斐ないやら情けないやら……、あぁでも、凹んでいる場合でもない。
「わかった。その人たちが本物か見極めればいいんだね」
「そういうこと」
「初めての共同作業だ」というヒロフミの冗談に、大きな反応を示したのはデンジだけだった。
デンジたちと別れ、ヒロフミに先導される形で歩く。
あの騒ぎのあとだ、遠くに逃げられてしまったんじゃないか。そう思っていたのだけど、どうやら杞憂に終わりそうだ。
「この先だよ」とヒロフミが唇に指を立てたのは、寂れたビルが群れをなす路地裏。薄暗い小道だった。
「やっぱあの魔人……!ぶっ殺してやる……!」
声が聞こえた。抑えようともしていない、怒りに満ちた声。だからその内容まで、寸分違わず聞き取ることができてしまった。これでは共同作業も何もない。
「残念」片眉を上げて、ヒロフミは笑う。
──それで終わりだった。
今風の格好をした、年若い男。血気盛んな発言をした彼だったが、その願いは闇色の触手に飲み込まれて潰えることとなる。
あとに残されたのは鮮やかな血の赤色。そしてビルの谷間から注がれるのは場違いに明るい日差し。空気を読まないそれが、血溜まりに反射して眩しいくらいだった。
「……大丈夫ですか?具合悪いみたいですけど」
歩を進めたヒロフミに続いて、暗がりに目をやる。
二人組、と確かに彼は言っていた。でも地べたに座り込んで嘔吐していたらしい男性は、先程の青年とは年格好がまるで違う。それに、その様子も。大きく汗をかき、吐瀉物に汚れた姿は、とても命のやり取りに慣れているようには見えなかった。
──でも、
男は上擦った声で、「人身事故を見てしまって」と答えた。
その声音、調子は、嘘を言っているようには聞こえない。聞こえないけれど、でも、名前には視えてしまった。虚偽を行う者よ、あなたの舌は鋭いかみそりのようだ──少なくともこの男は、嘘をついている。
「………………」
静かな目が名前に向けられた。ヒロフミの、凪いだ瞳。どうする、と彼は名前に問いかけていた。
決定的な証拠はない。名前にわかるのは、男が嘘をついているということだけ。
世界の終焉は未だ訪れず。審判の日は遠い未来の話。私は悪魔で、神様になれやしないけど、
それでも……と、名前は一度目を閉じ、一呼吸置いてから男に向き直った。今度は見下ろす格好ではなく、膝をつき、目線を合わせ、手を取って。
「『偽りをいう者は滅びる』……けれどあなたがその罪を悔いているなら、偽りを捨てるというなら、何も恐れることはありません。あなたのその魂は清められます」
その言葉が男に届いたかはわからない。だって、万能の神などではないのだから。
だから呆気にとられた顔の男を残して、その場を立ち去ることにした。
「……まぁ、プロにしてはちょっと様子がおかしかったけど」
よかったの、とヒロフミは言う。これでよかったのか。あの男が刺客だったとして、また命を狙ってきたら──見逃したことを後悔しないのか、と。
こんな時でも気遣いをみせる彼に、名前は小さく笑った。
「贖罪の機会は与えられるべきだと思うんだ。それに……」
「それに?」
「……もしも嘘を重ねるなら、今度こそその罪は裁かれるだろうからね」
そうならなければいいと、思うのだけど。
『名前ちゃんは優しいね』という声が聞こえた。いつだったかに言われた台詞。少し突き放したような、隔たりを感じさせる声を、どうしていま思い出してしまったのだろう。
冷たい横顔を思って、名前は手のひらに爪を立てた。