それからの話U


 春のうららの昼下がり。空は青く、大地は飛び散った肉片で赤く染まっている。
 悪魔も血は赤いんだな、というのが初めて任務に出た時に抱いた感想だ。人間と同じ、血の赤色。それを忌々しく思っていた。……昔の話である。
 「酷いもんですね」若い男が鼻をつまみながら言った。新卒で公安に入った、まだ幼さが輪郭に残る青年。『デビルハンターにはなれなかったけど、それに関わる仕事がしたかった』と以前彼は言っていた。どうやらデビルハンターの適性はなかったらしい。今は俺と同じ、デビルハンターの仕事の補佐を担っている。

「これ、掃除すんのにも時間がかかりますよね。悪魔ってホント、迷惑なヤツらだよなぁ」

 後輩のぼやきは無視して、肉片を調べる。
 どろりとした、柔らかな肉の塊。弾力はなく、肉というより液体に近い。報告では『アルコールの悪魔』と聞いている。そのせいだろうか。マスクをしていてもツンとした臭いが鼻についた。

「よく触れますね」

「お前もそのうち慣れる」

「慣れるかなぁ」

 恐る恐るといった様子で後輩は肉片を掴む。その感触に、「うへぇ」と歪む顔。正直にも程がある。
 でも慣れてもらわなければ困るのは彼自身。これだって大事な仕事だ。悪魔の肉片は研究材料であり、回収には悪用を防ぐ目的もある。
 ──その時、彼の抱えていた肉片が大きく脈打った。

「チッ……」

 舌打ちと共に背負っていた刀を抜く。
 しかし振り下ろした切っ先に、あるはずの手応えがない。獲物は流動体。ドロリと蠢き、青年の胴体に絡みつく。
 交わったのは見開かれた目。驚愕と恐怖と僅かな諦念には見覚えがある。ありすぎると言ってもいい。デビルハンターになってから、何度も遭遇してきた目だ。死を目前にした者特有の眼差し。いつまで経っても見慣れることのないそれ。無力感に、構えた刃がブレる。
 ブレて、白銀が閃いて、一瞬の閃光に目が眩んだ──と同時に、脇を疾風が駆け抜ける。

「キミ、怪我はない?」

 それは春の嵐。すべては瞬きの間の出来事。強い東風は液体化した悪魔を数ミリ状の断片に引き裂いて、その形のまま凍てつかせた。こんなことができるデビルハンターを、俺はひとりしか知らない。
 巻き起こった風の中心地。青年を横抱きにしたまま、名前は彼に問いかける。
 「もう大丈夫だよ」その囁きと微笑に、青年は何を思うのか。先程とは違う意味で見開かれた目。それを見れば何を考えているかなんて聞かなくてもわかる気がした。

「こんなにしぶといとは思わなかったな。ごめんね、……アキくんも。迷惑かけちゃったね」

「いや、こっちこそ悪い。警戒が足りなかった」

 勘が鈍っていると自分でも思う。暫く現場から遠ざかっていたせいかもしれない。そのことに、後悔はないけれど。
 「そろそろ下ろしてやってくれ」無言のままの後輩に、「一人で立てるよな?」と声をかける。いつまでものんびりしてるわけにはいかない。公安はどこの部署も人手不足に苦しんでいる。
 なのにこの後輩ときたら、下ろされたあとも地に足がつかぬ夢心地。ぼうっとした目で名前を見ている。その表情に、思い起こされるのはもう一人の同居人の顔。マキマさんを見る時のデンジも、こんな顔をしてたな。自分のことは棚に上げて、そんなことを思う。
 「彼、新人くん?」こそりと名前は耳打ち。アルコールの匂いは醒め、代わりに咲き初めの薔薇の香りが鼻孔を擽る。嗅ぎ慣れたそれに、感じるのは日常への回帰。後輩にとっては夢を与えるものなのかもしれないが、俺は違う。「ああ」と頷きながら、肩の力が抜けていくのがわかった。

「くれぐれも無茶はだめだよ」

「なんでそういう話になるんだよ」

「だってアキくん、面倒見がいいから」

「普通だろ」

「自分のことって案外わからないものだよ」

 悟ったような顔で名前は言う。そういう顔をした名前をあまり見たくはないな、と俺は思う。
 かつては人間のデビルハンターとして振る舞っていた彼女。けれど今は信仰の悪魔であることを隠さなくなった。むしろ悪魔であることを殊更のように主張するようになった。……今みたいに。

「今のが『信仰の悪魔』ですか?」

 凍らされた肉片を拾い集めながら、後輩が興奮冷めやらぬといった風でそう言った。それは新たな出動要請に無線で応じた名前が、「じゃあね」と走り去っていった後のことだった。幸いなことに。
 ……幸いなことに?

「なんで知ってるんだ?」

「だって有名じゃないっすか。スゲェ、初めて見ました」

「そうか」

 そうなのか。そんなことも、俺は知らなかった。

「仲いいんですか?」

「お前よりはな」

 だけどこの関係に名前はない。たとえば今日、名前が家に帰らなかったとして、もう二度と会えなくなったとしても、それで終わりだ。どこを探せばいいかもわからないし、その理由さえ俺にはない。

「じゃあすげぇ仲良いってことですね!」

 その時なぜか、名前の友達だという男の顔が思い浮かんだ。吉田という名の、民間のデビルハンター。一緒に仕事をしたこともあるが、そういえば一対一で話したことはなかったな、と今更ながらに思う。別に、話したいとも思わないけど。でも彼なら──友達なら、様々な行動に理由が与えられたのだろうか。
 理由。たった二文字のそれが、幾千幾万の言葉の連なりよりも重く感じられた。

「今度紹介してくれませんか?期待の新人とかなんとか言って」

「何でだよ」

「そりゃあ契約してほしいからですよ。だってあんなに強いんですよ?契約してもらえたら俺もデビルハンターになってめちゃくちゃ活躍できるんじゃないかなぁって」

 へぇ、と適当な相槌を打つ。そうしながら考える。次の休みは三日後。ちょうど俺も名前も休みで、夕飯くらいなら付き合えるはずだ。そう考えながら、想像した。
 こいつはこんな調子で名前に『相棒になってくれ』と強請るんだろう。不躾で軽薄で強引だが悪い男じゃない。強く迫られたら名前はきっと断れないし、彼女のことだからそれなりに上手くやるだろう。悪いことじゃない。名前だって相棒がほしいとずっと前から言っていた。だから、これは、名前のためでもある。

「まぁ、そのうちな」

 ……いや、何でだよ。

「暫くは忙しいって言ってたから」

 俺の口が俺の意思とは関係なく紡いだ嘘を、男は「そうなんですね」と一欠片の疑念もなく信じた。
 そりゃあまぁそうだろうな。こう言われたら引き下がるしかないよな。おかしいのは俺の方だ。こんな下らない嘘をつくなんて、どうかしてる。
 でも訂正することもできなかった。ただの悪魔として扱われる名前を見たくなかった。……なんていうのは後付の綺麗事だ。
 本当は厭だった。それだけだった。俺は何者にもなれないのに、コイツが名前の相棒になるのが厭だった。名前のある関係を羨んだ。それを見ていることしかできない自分が厭だった。
 ──凍てついた肉片が、指先を冷やしていく。指先を、呼吸を、心臓を。

「……悪いな」

「いや、良いっすよ!オレもマジでデビルハンターになりたいってわけじゃないんで!あぁ、出会いがほしいってのは本当ですけど」

 笑う後輩に良心が痛む。「昼メシ、奢ってやる」と言ったのは、せめてもの罪滅ぼしだった。





 公安は福利厚生が手厚い。とはいえ、労働時間が不規則なのは仕事柄仕方のないこと。それでもデビルハンターをしていた頃よりはマシだな、と夕焼けに染まった廊下を歩きながら思う。
 悪魔が出たという報せが入れば、いついかなる時であっても出動しなければならなかった。でも、今は違う。夜勤はあるが持ち回りだし、デビルハンターよりも人の出入りは激しくない。こうして定時に上がれる日も格段に増えた。
 ……デビルハンターでは、なくなったから。
 そのことに喜びよりも違和感の方が先立つのは何故だろう。どうしてなんですかね、と記憶の中の先輩に問う。あなたは俺にデビルハンターを辞めてほしかったみたいだけど、こんな俺を見たらなんと言うだろうか。

「あ、」

 ビルを出たところで見慣れた二人と出くわす。名前と岸辺隊長だ。何やら話し込んでいたらしいが、俺に気づくと二人して右手を挙げた。
 何となくこの二人には似たところがあるなと俺は思う。明確な言葉にはしにくい部分、例えば空気感だとかそんなものが。

「今から帰りか」

 「ええ」と岸辺隊長に頷くと、名前は「いいなぁ」とぼやいた。「私たちはまだ当分帰れなそう」はぁ、と続けて溜め息。その顔には少し疲れが滲んでいるように見えた。

「当分って」

「なんかねぇ、ちょっと面倒な悪魔が……」

「おい、あまり口外するな」

 名前の口を塞いだのは岸辺隊長の骨ばった手だ。名前はモゴモゴと呻いた後、「いいじゃないですか」と口を尖らす。

「相手はアキくんなんだし」

「決まりは決まりだ」

「そういうこと、岸辺隊長が言います?いつからそんな優等生になっちゃったんですか」

「俺は昔から立派な大人だったろ」

「あはは、痴呆には早いですよ……イタッ」

 岸辺隊長は「そういうわけだから」と言う。

「悪いな」

 ……そう言われて、俺にどんな選択肢がある?
 「いえ、」と物分りのいいふりをして、理解を示す。それ以外に何を言えばよかったのか。

「そんなわけだから今日は帰れそうにないんだ。デンジくんにも伝えておいて」

「……わかった」

 嘘だ。なんにもわからない。わかったと答える自分をどこか遠くから眺めているだけ。言いたいことが他にあったはずなのに何も言えず、「じゃあね」とビルに入っていく二人の背中を黙って見送った。引き留めることも『頑張れ』とも『気をつけて』とも言えなかった。それらすべてを内包する言葉があったような気がするのに、何も思いつかなかった。
 電線の上にカラスが止まった。それは俺を急き立てるようにカァと鳴いた。喧しい。地平線から滲み出す夜の藍色にさえ気が落ちる。あとは家に帰るだけなのにいやに足取りが重い。立ち去る二人の背中が目の裏から消えない。

「……デビルハンターなら、」

 俺がデビルハンターを辞めなければ。
 そうしたら名前の隣に立っているのは俺だっただろうか。続く言葉を聞く権利もあったし、願えば共に戦うことだってできた。昔ならそれが当たり前だった。当たり前だったことが当たり前じゃなくなって、それは名前や姫野先輩が望んだことで、俺の選択した結果なのに、どうしてこんなに胸がざわつく?どうしてこんなに、こんなに──落ち着かない気持ちになるんだろう?
 俺は深く息を吸った。そうして気持ちを落ち着けようとした。或いは頭を振って、頭を占めている問題を追い払おうとした。
 結局はまぁ、無駄な努力となったわけだけど。