それからの話V


 今晩名前は帰ってこない。事前にそう聞いていたはずなのに、扉の開く音に大袈裟な反応をしてしまう。料理の手を止め、玄関に目をやって、そこに立っているのが名前のよりパサついた金髪であることに落胆して……そんな自分に呆れた。
 名前じゃないならデンジに決まってるのに。だいたい、落胆ってなんだよ。

「あれ、はえーな」

「そういうお前は最近遅いな。部活でも始めたのか?」

「いや、ちょーっとやることがあってよ」

 デンジはシャツのボタンを外しながら脱衣所に消える。その、にんまりと笑みを蓄えた顔。悪巧みする子供の表情だ、とすぐにピンときた。
 いったい何を考えているのやら。どうせろくでもないことだろうな、と思いつつ、一応聞いてやることにする。作業用につけたテレビでは興味のない芸能ニュースが流れているだけだったし、それに比べればデンジのバカ話の方がつまらなくはないはずだから。

「やることってなんだよ。まぁどうせ色ボケたことなんだろうけど」

「決めつけんな!ンなこと言うアキにはぜってー教えてやんねぇ」

「……下らねぇこと考えてるくらいなら部活のひとつでもやった方がモテるのにな」

「えっっっ」

 ドタドタドタッ、と喧しい足音。デンジは半端に脱げたシャツそのままに駆け寄ってきた。……必死すぎだろ。
 思わず吹き出しそうになるのを堪えて、じゃがいもを洗うのに集中する……ふりをした。

「ぶかっ部活するとモテんのッ!?」

「さあな」

「おいアキっ!知ってることあんなら全部吐けっ!」

 首を掴まれそうになり、「邪魔だ」と軽い肘鉄をガラ空きの脇腹にくれてやる。
 「イてぇ」恨みがましい目で見上げられるが、昔のような膝蹴りが飛んでこないだけ利口になったのだろう。アレは痛かった。正直あまり思い出したくない記憶だ。少し考えただけであの壮絶な痛みの残滓が蘇りそうになる。

「もういい。あとは名前さんに聞く。……なァ、名前さんは?まだ帰ってねーの?」

「あぁ、今日は帰れそうにないらしい」

 名前に言われた。その言葉をそっくりそのまま唇に乗せた。そうでなければ余計なことまで言ってしまいそうな予感があった。或いはデンジなら何に臆することもなく口にできるんじゃないかという期待もあった。
 けれどデンジは「そっか」とだけ言った。「大変なんだな」と。たったそれだけ。
 ……それだけなのか?
 停滞する時間。垂れ込める澱み。待てどもデンジがそれ以上のことを言うことはなかった。そのことに幾らかの失望のような、それに類する衝撃を受けた。
 夕日の色が網膜を焼く。鮮烈な、痛いほどの赤。昼間浴びた血の臭いが俄に沸き立つ。悪魔の……名前の中にも流れてる血の……腐りかけた果実の……甘いにおい。

 あぁ、目眩がする────

「……なんとも思わないのか」

「何が?」

「何がって、……」

 それがわからないから、お前の答えを知りたかったのに。
 デンジだけは違うと思っていた。デンジだけは同じものを感じてくれているはずだとも思っていた。デンジなら俺には言語化できなかった『何か』をわかりやすい形にしてくれるんじゃないかと思っていた。

 ──なのに、違うというのか。

「……心配、するだろ、普通」

「心配ぃ?」

 デンジは片眉を上げた。

「なら着いてきゃよかったじゃねーか」

 「心配なんてしたってどうもなんねーだろ。だいたい、名前さんはつえーし」それくらいお前も知ってるくせに、とデンジは言う。俺の方がおかしなことを言ってるんだって風で、デンジは言う。
 これでは八方塞がりだ。気を紛らわすためのテレビはとうに異次元の産物と化し、気を紛らわすためのデンジとの会話ですら、考えないようにしていたことを眼前に突きつけてくる。
 つまりは、自分こそが異常なのであると。
 まるで遠い異国に放り出されたみたいだ。乗っていた列車の、自分のいるコンパートメントだけが切り離されて、代わりにまったく別の場所へ向かう車両に取り付けられたみたいな──そんな錯覚。
 頭が痺れる。
 言葉に詰まると、デンジに「気味わりぃな」と悪態をつかれた。

「……なぁ、いつまで洗ってんの?それ」

「………………」

 その日の夕食は散々だった。無駄に味付けは濃くなるし、水分量を誤ったのか粘性の強い白米が出来上がった。
 それらを何とか飲み下し、時刻は夜の十時。風呂から上がり、『もしかして』と淡い期待と共にリビングを覗く。が、待ち受けていたのは冷え切った空気。変化といえば窓の向こうではいつの間にか雨が降り出していた。……名前は傘を持っているだろうか。
 そんな心配をしてから、『バカげたことを』と苦笑する。名前はデビルハンターだ。悪魔を狩る、そのために命を張っている。たかが雨ごとき……心配するなんて、くだらない。
 『もっと他に考えるべきことがあるだろう』、と俺は思う。同時に、『そんなことを考えたって無駄じゃないか』とも思う。頭が痛い。鈍い痺れが皮膚の下を這い回る。不快感。胸がざわつく。
 冷静に考えれば今すぐ向かうべきはベッドだ。温かな布団の中で体を休めるべき。そう理解しているのに、実際に向かった場所はキッチン。お湯を沸かし、コーヒーを淹れた。砂糖もミルクもなし。これではどんな眠気も飛び去ってしまう。いったい俺は何がしたいんだろうな。
 テレビをつける。放映されていたのは始まって十分ほど経ったドラマ番組。どうやらデビルハンターが題材らしい。よくあることだ。フィクションの世界でまで悪魔の話なんて見たくないと俺は思うのだが、身近な題材かつ、悪魔と戦うことのできない一般市民にとってはやり場のない復讐心の矛先としてちょうどいいのだろう。
 チャンネルはそのままに、ボリュームを下げる。苦いコーヒーを飲みながら眺めるドラマはいったいどんなストーリーなんだか。そもそもタイトルすら知らないのだ。ただ、出ている俳優のひとりに見覚えがあった。確か、以前に名前が何かの折に話題に上げていたのだ。黒髪の、同じ年頃の男。『少しアキくんに似てるね』いつだったかの笑顔が脳裏をよぎる。
 『そうか?』と思いながらテレビを眺める。俺と似ているらしい男は主人公らしい女とバディを組んでいるらしい。気もそぞろに見ているせいで何もかも『らしい』としか表現できない。面白いか面白くないのか。客観的にも主観的にも天秤は傾かず、沈黙。冷めていくコーヒーが今の俺を表している。
 番組の途中で耳障りな音が挿入され、画面上部に【速報】の文字が点滅する。さて、どこぞで地震でも起きたか。他人事だった意識が、次いで表示された【デビルハンター】という文字に身を乗り出す。

【デビルハンター、都内で大規模戦闘。死傷者多数か】

 デビルハンター、戦闘、死傷者。それらの文字が表示されていたのは実際にはほんの二、三分のことだったろう。衝撃的なニュースはすぐに消え、またフィクションの世界が帰ってくる。
 けれど俺の意識は作り物の世界に戻れなかった。現実が押し寄せ、脳神経を焼いた。

 頭が痛い。

 額を押さえる。それでもニュース速報の音が鳴り止まない。頭が痛い。風呂場で落としてきたはずの血の臭いが鼻につく。目を閉じても燃えるような朱色の中に消えていく後ろ姿がチラつく。
 頭が痛い。

 ──本当に痛いのは頭だけなのか?

 立ち上がろうとして襲い来るのは目眩。小さく嘔吐くと胃液の酸っぱさに舌が痺れる。それでも何とか体を起こし、もたつく指で自宅の鍵を取った。

「あ?今から出かけんの?」

 朦朧とする意識で返事をする。『ああ』とか『うん』とか、そんな感じの言葉を残して、家を出る。

 ──いったいどこへ?

 そもそもさっきのニュースに名前が関わっているとは限らない。考えなしに出てきてしまってから、考える。
 焼け爛れた脳を冷ましていく夜風。暫く立ち竦んでから、車に乗り込む。思い出したのはデビルハンターだった頃によく世話になった病院の存在。悪魔の治療も引き受けてくれる医者はそう多くない。
 とりあえず、とエンジンを入れる。とりあえず向かおう。徒労に終わったらその時はその時だ。今はとにかく動かなければ。そうしなければ鮮烈な夕日のイメージから逃れられそうになかった。太陽はとっくに沈んだはずなのに追いかけられている。そんな感覚が拭えなかった。
 湿った道路を走り、人気のない病院の駐車場に入る。矢も盾もたまらず飛び出してきたが──さて、ここからどうしよう。
 正面玄関の前で突っ立っていると、自動ドアが開いた。出てきたのは季節外れのロングコートを着た男──岸辺隊長だった。

「……どうしてお前がここに?」

 問われ、口籠る。どうしてって……そりゃあ、心配だったからだ。同僚のことなのだからそれはごく当たり前の感情で……、でもそれ以前の問題がある。だって俺は何も知らない。あのニュースの中の……死傷者多数……ひとりが名前だなんて誰も教えちゃくれなかった。なのに勝手な妄想でここまで来て……、馬鹿みたいだ。
 「まぁ、いい」俺が答えないのを見かねてか、岸辺隊長は首を振る。「どこで聞いたか知らないが、用事があるのは名前だろ」案内してやると言った彼は、さながら救世主であった。
 白い壁。白い床。白い照明。白い制服を着た、看護師たち。曲がりくねった廊下を無言で歩く。どこに向かっているのだろうか。名前は今どこに?ここは冷えるな、と二の腕を擦る。そういえば上着を着てくるのを忘れた。

「傷は塞がったんだが、血を流しすぎたらしい」

 病室のドアを開けながら岸辺隊長は言う。
 白い壁。白い床。白い照明。白い病院着を着て白い顔をした名前が白いベッドの中で横たわっている。

「今はよく眠ってるよ」

「目覚めるんですか」

 問い返した声は掠れて遠い。薄膜を被ったような自分の声を聞きながら、呆然とした気持ちでベッドの上の名前を見下ろした。
 岸辺隊長は感情の読めない目で俺を見る。一拍か、二拍か。沈黙の後に、「心配いらない」と俺の肩を叩く。
 「お前の方が死にそうな顔してるぞ」それならよかった、と俺は思う。俺が死ぬのは別にいい。でも名前が死ぬのはいやだ。

「あまり思い詰めるなよ」

 岸辺隊長はそれだけ言い置いて病室を出ていった。残された俺はパイプ椅子に座って、名前の手を握った。
 いつもより冷たい、力のない手。いつもより──いつもより?以前はどうだったか、こうなる前の感触を思い出そうとしてもうまく思い出せない。俺は目をつむる。でも祈りの神の名前さえ俺にはわからなかった。