それからの話W


 湿気た空気が充満している。外は雨。風は穏やか。降りしきる雨音と時計の秒針がいやに耳につく。
 こんなに白かっただろうか。昏昏と眠る名前の顔を眺めて思う。冷たく強ばった──青ざめてさえ見える肌の色。生気のないマネキン。精巧な少女人形。石膏でできた像。サン・ピエトロのピエタ。それは白い病室の白い照明のせいだけなんだろうか。
 普段は気にならない心臓の音が厭な感覚を齎す。或いは厭な想像を。蒼ざめた馬のイメージ。カチカチと無機質に響く針の音が煩い。細く鋭い針に心臓を貫かれる。そんな想像をした。
 どれくらいの時間そうしていただろう。縋りついていた名前の手が、ピクリとひくつく。
 その瞬間はまさしく永遠だった。震える睫毛、持ち上がる瞼。名前が目を開ける。たったそれだけの動作が、スローモーションで過ぎていった。
 蒼く透き通った名前の目。それはぼんやりと宙に投げられ、そして静止した。
 名前には何が見えているのだろう?そこには真っ白な天井があるばかり。そう記憶していたが、果たして?
 けれど見上げてみる勇気はなかった。そこに何があっても……、たとえ何もなかったとしても恐ろしいことのように思えた。彼岸を見た人間は悟りの境地に達するという。昔どこかで聞いた話が、どうしてか思い出された。
 「名前、」はくり、と喉がわななく。記憶よりも掠れた声。自分の声はこんなものだったか。こんな、迷子になった子どもみたいな──頼りないものだったか。うまく思い出せない。
 握る名前の手に力が籠もる。いつの間にか祈りの形をとったそれ。神様の名前すらわからない。じゃあ何ならわかるんだろうな。宙に拡散していた名前の視線が、うろうろとさ迷い、やがて焦点を結ぶ。少し潤んだような眼の、その夜明けの色。乾いた唇が俺の名前を形づくる。

 ──あぁ、かみさま。もしもそんなものがこの世に存在してるなら、それはきっとこんな顔をしているのだろう。

 名前の目は、子供の頃に美術館で観た絵の中の聖母と同じ色をしていた。

「……おかしいな。てっきり地獄に落ちたとばかり思ってたのに、アキくんがいる」

「おまえ……」

「それとも私、赦してもらえたのかな。キミがいるってことはきっとここは天国だもんね」

「…………」

「うそ。じょうだん、冗談だから」

 怒らないでよ、と名前はわらう。いつのも調子で名前はわらう。つい先程まで意識をなくしていたなんて嘘みたいな顔で名前はわらう。痛みなんてないみたいに──人間じゃないみたいに。
 当然じゃないか、と思う。名前は悪魔だ。信仰の悪魔。彼女が無事でよかったと思う。生きている、それ以上にいいことなんてない。ないはずだ。なのに──なのに目覚める前より心臓が痛い。

「アキくん……、泣いてるの?」

 え、と間抜けな声が洩れた。泣いている、……誰が?疑問符と共に見つめ返す名前の眼。
 何もかもを見透すみたいにまぁるいその眼に映るのは俺だけだった。俺しかいなかった。泣いているのは、俺だった。

「ごめんね」

「……何が、」

「キミを、泣かせてしまった」

 だからごめんね、と名前は言う。下がった眉尻。困ったような笑み。未だ冷たい指先が、宥めるように俺の輪郭をなぞる。
 「置いていかれる人のつらさは、私だってわかっているはずなのに」また、遠くに馳せられる双眸。過去を想う眼差し。そこにいるのはかつての仲間たちで、姫野先輩で、マキマさんなんだろう。
 それは俺にもわかる。わかるけれど、何か、大きな掛け違いがあるような気がした。心臓が逸る。背中を厭な汗が伝う。

「名前、」

「大丈夫だよ、アキくん。アキくんに、そんな思いはさせないから」

「何言って、」

「私が死んだら、ぜんぶ忘れて。私のこと、ぜんぶ。ぜんぶ忘れられるように……してあげるから」

 だから、大丈夫だよ。

 すべてを悟ったような、受け入れたかのような微笑。それを見た瞬間、眩暈がした。ガツンと後頭部を殴られたかのような衝撃。失われた平衡感覚。襲う現実遊離感。足許が覚束ない。病室の白が歪む。吐き気がする。

「何が……何が大丈夫なんだよ」

 俺は、こんなに苦しいのに。

「アキくん?」

「ぜんぜん、大丈夫なんかじゃない。忘れて、忘れられるからって、大丈夫なわけないだろ」

 俺は俺の涙を拭っていた手を掴み返す。
 なんでこんな簡単なことがわからないんだろう。今度は苛立ちが込み上げる。名前が不思議そうな顔で俺を見上げてくるから、余計に。

「だって……もう目の前で誰かが死ぬのは嫌でしょう?」

「ああ、そうだよ、そうだけど、でも、」

 雨が降っている。雨音が重なり合い、厚みを増し、滞留する。滞留している空気。澱み。それらを明らかにする遠雷の光。病室の白がより鮮やかな白に呑まれる。遅れて聞こえてくる薄い雷鳴。音、音の重なり。雷と雨。それから、二人分の呼吸音。
 俺と名前、名前は静かに俺を見つめている。俺が何か言うのを待っている。俺は息を吸う。
 「でも、」雨音。雷鳴。「俺は、」耳鳴り。耳鳴り。耳鳴り。世界が白く染まる。俺も、俺の頭も、理性も──抑えていた気持ちも。

「俺は、俺の知らないところでお前に死なれるのもいやなんだ」

 いやなんだよ、と言ってから、『あぁ、そういうことだったのか』と得心がいった。名前には生きていてほしい。でもそれはどこか遠くの話ではなく、知らず知らずのうちに彼女の隣には自分がいることを想定していた。自分の知らないどこか遠くの場所で生きる彼女のことなんか最初から想定していなかった。
 俺はただ、名前と生きていきたかった。彼女の一番近くで──死ぬなら、彼女の隣がいいと思った。
 晴れやかになる思考とは裏腹に、外界は相変わらず憂鬱な闇に沈んでいる。雨脚の強さは変わらず、打ち据えられる窓ガラス。不協和音の中で、名前はくしゃりと顔を歪めた。

「ずるいね、アキくんは」

「そうか?」

「そうだよ」

 ずるい、と名前は繰り返す。でも罵倒というには力ない、それ。どこか諦めたような薄い笑みを浮かべて、名前はちいさな溜め息をつく。

「私は、……私たちは、キミに、生きていてほしいだけなのに」

「それならお前が俺を守ってくれればいい」

「簡単に言うね。四六時中一緒にいられるわけでもないのに」

「四六時中一緒にいればいいだろ」

「……そんなにデビルハンターに戻りたい?」

「お前がデビルハンターを辞めないならな」

「キミは……」

 そこまで言って、名前は額を押さえた。白いベッドに沈む身体。「いつからそんな聞き分けのない子になったの」冗談めかしているが、俺を見る目は恨みがましいものとなっている。……気がする。
 『昔とは立場が逆になってるな』と俺は笑う。昔は俺の方が呆れたり手を焼かされることの方が多かった。そういう関係を心地よく思っていた。それが嫌になったわけじゃない。でも、たった今、俺の我儘に弱りきっている名前も──俺のことで頭を悩ませているその顔を見るのも、悪くないな、と思った。

「俺とバディを組みたいって言ってたろ」

「それはキミがデビルハンターだった頃の話でしょ」

「じゃあ俺が他のヤツとバディ組んでもいいのか?」

「よくないけど、でも、」

「名前、」

 口籠る名前の手を握る。懇願の形。奇しくも眠っていた時と同じ形で、でもその時とはまったく違う心持ちなのが不思議だ。
 逸る心臓は期待の表れ。今度はしっかりと開かれた名前の目を見つめて、希う。

「他の誰かじゃ厭だ。俺を選んでくれ」

 頼む、と。そう言えば今まで断られることはなかった。どんなことだって俺が頼めば最後には名前は『仕方ないなぁ』と言って、受け入れてくれた。
 それはコレッジョの描く聖母子像のような表情で、つまるところ彼女の悪魔としての性質のためでもあったのだろう。そういう悟った顔がいやだった。信仰の悪魔として振る舞うところを見たくなかった。
 でも今は──眉を寄せて悩む名前はとても人間らしくて、頷いてくれなくともそれはそれで充たされたことだろう。
 沈黙が続いた。雨はまだ止まない。けれど予報では朝になれば晴れ間が広がるとなっていた。そうなるといい、と俺も思う。蛍光灯の光では眩しすぎる。上向いた名前の眼に、朝焼けを見た。

「……絶対、死なせないから」

 頷いてくれなくとも充たされたことだろう。そう思ったけど、実際はどうだろう?
 「だからキミも、もう二度と死んでもいいなんて思っちゃダメだよ」と、名前は何故か怒ったような顔で俺の手を握り返す。だから仮定の話なんかわからない。わからないけど、今のこの喜びには劣るんだろうな、と思った。