たそがれの、日の沈むころ、


 次に目を覚ました時、名前がいたのは病室だった。

「気がついた?」

「マキマさん……?」

 床に伏したまま視線を巡らす。白い天井、白い壁。白いシャツに身を包んだ、神にも等しいひと。マキマは林檎の皮をひとつ、剥き終え、ナイフを置いた。さびしい病室の中に響く、かわいた音。カラン、と皿が鳴る音さえどこか遠い。
 夢を見ているみたいだ、と名前は思う。紗がかかる視界。薄ぼんやりとした思考。永らくの悪夢。つきり、と痛む腕はシーツの浅瀬に投げ出されたまま。

「腕は無事だよ。名前ちゃんのは両方、くっつけておいたから」

 すうっと細められた眼は頭の中を見透かすよう。黄金の色の、獣の眼。窓から降る黄昏が色を濃くしていく。落日。終わりゆく日々の色。──喪失の、色。

「……みんな、は」

 途切れた記憶の繋ぎ目。意識が暗転する直前に見たのは、倒れた仲間たちの姿。腕を狩られ、頭を落とされ、血を吐いて。辺りには死体が散乱し、鉄錆の臭いが充満する。そこはまさしく地獄だった。
 いま、思い出しただけで背筋が粟立つ。心臓を冷ややかな手に握られた、そんな錯覚をする。
 向けられた殺意。その他の感情の一切が感じられない、純粋なそれ。根源的な恐怖。光すら呑み込む濃密な闇。
 けれど本当に恐ろしかったのは、自分自身の終わりなんかじゃない。眼の前で大切なものが奪われてしまう──喪失の予感に、何より恐怖した。

「……誰が生き残れましたか」

「デンジくんとパワーちゃん、早川君と天使くん、コベニちゃん……くらいかな」

 掠れた声に答えると、マキマは「水を飲んだほうがいいね」と言って、水差しを手に取った。
 彼女の左手に支えられながらゆっくり身を起こす。指先を意識すれば思ったように動く。でも、なんだか違和感が拭えない。一度失ったからだろうか。自分のものではないような感じがする、とぼんやり思う。

「自分で飲めますよ」

「遠慮しないで。私がやりたいの」

「でも、」

「いいから」

 押し切られ、素直に向けられた水差しに口をつける。小動物にでもなった気分だ。或いは動物園に飼われた赤子。見えない首輪が喉元で鳴る。
 水差しから口を離すと、すかさず「リンゴは食べれそう?」と聞かれた。「そろそろ目覚めるんじゃないかと思ってね、切ってたんだ」
 サイドテーブルに置かれていたのはウサギの形をした林檎たち。いつだったか、彼にも切ってもらった覚えがある。しゅるしゅるしゅる、と切れ目なく皮を剥くのに驚かされた。今はそれがさして難しいことではないと知っているけれど、当時はびっくりして、あんぐりと口を開けていると彼に笑われた。彼が笑うのを見たのはその時が初めてだった。

 ──アキくん、キミは今、何を思っているのかな。

 爽やかな味が舌に広がる。瑞々しい果実が喉を潤す。でも後悔は薄れない。
 きっと彼も同じなんだろうと思う。何もできなかった過去の自分を、今の自分が責め立てる。残されたものをどうしたら守れるのかと考えてしまう。どうしたら奪われずに済むだろう?どうしたら──

「名前ちゃんが無事で、よかった」

 沈みかけた意識が引き揚げられる。噛みしめるような声と、頬に這わされた手によって。
 顔を上げると、燃える黄金の眼に囚われた。降り注ぐ西日。それはさながら矢の如く。四肢を射抜き、縫い留め、眼を灼いて。眩む視界は、彼女で満たされた。満たされてしまったから、もう、彼女のこと以外考えられなかった。
 神の如きひと──貴女の他に何が必要だというだろう?

「どうか自分を責めないで。名前ちゃんが生きて、ここにいる。それだけで私は嬉しいんだから。それだけで私は救われた気持ちになるんだから。だから、『自分が代わりになればよかった』なんて思っちゃだめ」

「マキマさん……」

「大好きだよ、名前ちゃん」

 聖母を象った唇が囁く。笑みを形作ったまま近づいてくる。さん、にぃ、いち。あとは女の形をした影に呑み込まれるだけ。
 熱が掠めたのは唇の端。音もなく触れて、離れて、その赤色がまぶしくて、目がチカチカした。チカチカ、チカチカ。濡れた唇が、今度は頬に落とされる。頬に、目尻に、瞼に。涙の跡を拭って、なおもマキマは微笑う。

「泣いていいよ。私の前でなら。私が赦してあげる」

 かみさま、と名前は呟く。私の神様。罰と赦しを与えてくれるひと。その腕に抱かれ、肩に顔を埋める。
 首筋から立ち上るのは、熟れた果実の匂いだった。
 名前は泣いた。涙を流した。そのたびに自分が喪われていくのがわかった。わかっていたけれど止められなかった。彼女の『普通』を望んでいたはずなのに。普通の人間であってほしかったはずなのに。それでも温かな腕を拒絶することなんて、名前にはできなかった。
 マキマはそんな名前の頭を撫でた。「よしよし」いい子、と呟く声はいたく満足げだった。後悔や罪悪感を涙として溢れ出させる名前に、笑みを深めた。すべては彼女の手の内にあった。





 医師の診断を受け、その日のうちに退院する運びとなった。
 名前が眠っていたのはほんの一日のことだったらしい。でもその間にすべては終わっていた。護衛の任務も、残された人の治療も、これからのことも。

「コベニちゃんが『お世話になりました』って」

 挨拶のない別れなんてよくあることだ。どこかで生きている、それだけで十分。
 名前は「そうですか」と答えるに留めた。デビルハンターを辞められたならよかった。泣き虫だった同僚のことを思って、今後の幸福を祈る。
 マキマに手伝ってもらいながら、病院着を脱ぐ。代わりに腕を通すのは糊のきいた真新しいシャツ。揃いのスーツを身に纏い、病室を出る。他に荷物はない。お守りのようにポケットに入れていたポケベルは闇の悪魔に蹂躙された折、壊れてしまったらしい。
 「吉田くんには私から連絡を入れておいたから安心してね」長い廊下を歩きながら、マキマは言う。

「新しいのを買ってあげるよ。あぁでも、今度は携帯電話の方がいいかな。その方が私も気軽に連絡できるし」

 彼女は「それでいいよね」と続けた。
 狭い廊下に反響する、僅かに弾んだ声。行き交う人影はなく、左側の窓ガラスから落日の赤色が伸びるばかり。それはやがて赤黒く変色し、境界線すらなくなるのだろう。
 いっそ、そうなってしまえばいい。マキマの右手に握られた自分の左手を眺めながら、名前は思う。浮ついた足取りでは正しい道なんかわからない。思考は未だ夢の中。悪夢の中に取り残されたまま。だから手を引いてくれる人が必要だった。
 その人とひとつになれたら、どんなに幸せだろう。

「そういえば今朝、名前ちゃんちの近くに悪魔が出たんだって。幸い民間で片付けられたらしいんだけど、運の悪いことに名前ちゃんちのマンションが倒壊しちゃって」

 住む家がなくなった。そう聞かされても、深い感慨はなかった。これからどうしようかな、と傍らで思うけれど、思考の大部分が霧に覆われ機能しない。どうしよう、というところで止まって、その先を考えようとはしてくれなかった。

「だから今日から私と一緒に暮らそうね」

「いいんですか……?」

「もちろん。じゃなきゃ最初から誘わないよ」

 「これからはずっと一緒だよ」と、握った手に力が込められる。「もう離さないからね」その言葉に引っかかるものがあったけれど、……なんだろう?一瞬のうちに霧に呑まれ、疑問に思ったことすら忘れ去られた。
 名前は足元に伸びる影を眺めた。影を、或いは境い目を失った黄昏を。鮮やかな赤色は濃度を増し、夕闇へと姿を変えていく。太陽は地平線に呑み込まれ、名前からはもう見ることすらできない。
 ひたひたと、夜が這い寄ってくる。

「朝にはトーストを焼いて、コーヒーを飲もう。デビルハンターは続けてもいいけど、バディを組むなら私とだよ。休日には映画館をハシゴしたり、美術館巡りもいいね。それで夜にはふたり一緒のベッドで眠るんだ」

 「しあわせだね」……しあわせって、なんだっけ。うまく、頭が回らない。酩酊感。何が正しくて何が間違っていて、自分が何を考えていて、考えている自分とは果たして誰だったのか。
 もうなにも、かんがえたくはない。
 ──でも、

「…………、」

 はい、マキマさん──そう答えようとした唇が固まった。
 幸せになりたいのは、なってほしいのは、私じゃない。胸中で言語化されたのはそんな感情。強い衝動は、咄嗟に思い浮かんだのは、いつだって自分より他人のことばかり優先する彼のこと。

 ──アキくん。
 私はキミに、幸せになってほしい。

「……どうしたの?」

 足を止めてしまった名前を、半歩先のマキマが振り返る。怪訝そうに、……それとも確信を持って?何もかもを見透す眼は、宵闇の中であっても爛々と輝いていた。
 その眼を見つめ返し、名前はそっと首を振る。

「私だけが、そんな幸せを享受するわけにはいきません」

「……そう」

 彼女は目を伏せる。「名前ちゃんなら、そう言うよね」その声音には幾つかの感情が内包されているようだったが、名前にわかったのは諦念と少しの喜びくらいだった。
 マキマはすぐに頷いて、「わかったよ」と顔を上げた。

「それじゃあ仕事終わりには早川君のとこに寄ろうか。片腕なくなっちゃったのが心配なんでしょう?」

「……はい」

「……優しいね、名前ちゃんは」

 名前は深い翳りの中で苦く笑った。
 優しさだなんて、そんなきれいなものじゃない。ただ彼のことが好きで、抗いようもなく好きで、だからきっと、少しでも側にいたいだけで。彼が今の暮らしを望んでいるのなら、それを守りたいと思った。ただ、それだけのこと。
 きっとこの思いもこの人には見透かされているのだろう。歩みを再開した、その横顔を盗み見る。
 しかし凍てついた横顔からは何の感情も読み取れなかった。

 ──もうすぐ冬がやってくる。