愛は寛容であり、愛は情け深い
朝晩はめっきり冷え込むようになった。九月。夏の名残は束の間の真昼にしか感じられない頃。公安は多くのデビルハンターを喪った。生き残った者もその殆どが心身に傷を負い、夏の盛りが恋しくなるほど。
その一人である彼──早川アキも片腕をなくした。両腕とも治ったのは名前とコベニだけ。そう、話には聞いていた。けれど実際にその欠落を認めると、息苦しさに逃げ出したくなった。
「片腕でもくっついただけマシだろ」
不便ではあるが、生きていくのに支障はない。彼は淡々とした声でそう言った。それが名前には信じられない。欠落は罪の証だ。約束を守れなかった。ごめんなさい、と謝ることすら許されない。いっそこの腕を差し出せたならどんなに良かったろう。
しかし彼の方はその台詞が真実心からのものであることを証明するかのような行動を取る。特段苦労した様子も見せず進められていく料理の手。包丁を扱うのもフライパンを火にかけるのも右腕の仕事。すべての工程を危うげなくこなし、キッチンには肉の焼ける音とさつまいもの匂いが充満する。
その隣で鮭の身を解しながら、名前は返す言葉に詰まった。同意するのも反論するのも違う気がする。では、なんと言ったらいいのか。
取り除かれていく鮭の骨とは対照的に、名前の心中は晴れない。胸に突き刺さるのは罪悪感という名のトゲ。ジクジクと痛んで、刺さった骨で化膿した肉を抉り出したいような感覚さえあった。
「……だから、俺は大丈夫だ」
火を止めた右手が、名前の頭の上に置かれる。「お前が気にすることじゃない」そう、言い添えて。
唯一となってしまった彼の腕。硬く骨ばっていて、でも温かな手のひら。好ましく思っていたところのひとつが失われてしまって、なのにこんなにも愛おしいのはどうして?
『好きだからだよ』と思わず口走りそうになって、慌てて唇を噛む。
好きだよ、大好きだ。でもそれを伝えるのは自己満足でしかない。そんなものまで彼に背負わせるわけにはいかない。この世界にキミがいてくれれば、キミが死んでしまうその日まで隣にいさせてくれれば──それが私にとって、何よりの救いとなるのだから。
「……気にするのは当然でしょう?だってキミが死んだらその身体は私が貰う約束なんだから」
「……そういえばそんなこと言ってたな。冗談じゃなかったのか」
「私はいつだって本気だよ」
おどけて、名前は笑う。好きだと言う代わりに、ほんのちょっぴりの嘘を織り混ぜて。
そうするとアキはホッと目元を和ませた。傷を負ったのは彼の方なのにそれでもなお他人のことを気遣ってばかり。それがもどかしくて、なのに愛おしい。好きだなぁとつくづく思わされる。
あと何度、この感覚を味わえるだろう。出来上がったさつまいものきんぴらを小皿によそっていく、そんな何てことない風景。静かな横顔を眺めて思う。できる限り長く、この日常が続きますように、と。
「私に手伝えることがあったら何でも言ってね。パワーちゃんのことだってあるし、マキマさんにも『よろしく』って頼まれてるから」
炊きあがったご飯と解した鮭の身を混ぜ合わせながら、リビングに目をやる。テレビの前、寄り添い合う二人の背中は兄妹のよう。一見すると微笑ましい光景だが、見慣れないその姿に名前は顔を曇らせる。
闇の悪魔に敗北を喫して以来、血の魔人の精神は大きく退行してしまった。闇に怯え、影を恐れ、孤独を嫌う。そのような具合であったから、夜もまともに眠れていないらしい。そんな彼女を付きっきりで世話しているのがデンジだ。人だとか悪魔だとか関係なく、本当の家族みたいに。
それはひとつの夢の形だった。……だから少しでも近づきたいなんて、欲が出る。
「……無理してないか?」
「まさか。ちっとも、ぜんぜん、無理なんかじゃないよ」
疑わしい。そう言わんばかりの目で見下され、力強く言い切る。
だいたい、それを言うならアキくんこそ、
「俺が?」
「ううん、なんでもない」
キミの方こそ無理してるんじゃないの、と言いかけて呑み込む。
言ったところで否定されるのが関の山。不自由な身体では苦労が絶えないのではないか、……そんな身体になっても銃の悪魔を倒すことだけを目的に生きていくのか。──デビルハンターを辞めようとは思わないのか。
聞きたいこと、言いたいことは山ほどあった。それらすべてを膿んだ腹の奥底に沈めたのは何より自分のためだった。答えを聞くのが怖かった。自分の生死に関心を払わない彼を見るのも、そんな彼に泣いて縋りそうになる自分を認めるのも。彼の願いを叶えたいと思いながらも、同じ心で彼に生きていてほしいと願ってしまう。どちらも真実で、偽らざる本音だった。
「ともかく、私のことはいいんだよ。好きでここにいるんだから」
彼の方はまだ何か言いたげであったけれど、無理やり話を打ち切った。そうしないと余計なことまで口にしてしまいそうだった。
それなのに──
「……毎日来ることないんだぞ」
彼がそう言ったのは夕暮れ時、買い物に出掛けた帰りのことだった。それは突然のことで、名前は自分の顔から表情が消えていくのがわかった。
首輪を着けた大型犬が散歩しているのを見て、マキマのことを思い出していたこともすっかり意識の外。河川敷でサッカーをする子どもたちの歓声さえ遠く、そういった日常的な多くのものから急速に自分が取り残されていく感覚をおぼえた。
「……迷惑だった?」
「そうじゃない。ただ、お前は、」
そこまで言って、アキは視線を落とした。釣られて見て、言わんとすることを察する。横たわる空白。失われた左腕。……虚しく風に揺れる、ジャケットの袖。
既にデビルハンターとしての仕事に復帰している名前とは反対に、彼の方はまだ療養という名の休暇を与えられていた。
名前は口を開きかけ、また閉じた。続く言葉は彼の唇からも発せられなかった。夕陽の物憂い荘厳だけが二人の間に残された。
訪れた沈黙。つかず離れずを繰り返す二つの影。その隙間を駆け抜けていく強い風。でも膚が痺れるのは風が冷たかったせいじゃない。沈黙の方がずっと痛かった。
或いは永遠にうしなわれてしまった、完全なるものの方が、
「……ちがう」
気づくと足は止まっていた。
「名前?」
数歩先で、訝しげに名が呼ばれる。マキマによってつけられた名前。仮初めの、悪魔の身にはなんの価値もないはずの代物。なのに彼に呼ばれると、その声で、その口で形作られた途端に、胸が締めつけられる。伸びる影に呑み込まれてしまう。理性によって抑えられていた本性が、押し出されてしまう。
「違うんだよ、アキくん。わたしはただ、キミたちと……キミと一緒にいたいだけなの。キミが……キミのことが……」
言ってはいけないのに。形に残してはいけないのに。なのに腹の底から押し出された利己的な悪魔が、口の先で空気を震わす。声にならない声が吐息となって吐き出される。
──好きだから。
その言葉が彼の耳にまで届いたかはわからない。絶え間なく吹く風によって攫われてしまったかもしれない。そもそも、きちんとした音にできたのかすら。
逆光のせいで、彼がどんな顔をしているのか名前にはよく見えなかった。そんなことに安堵するのさえはじめてのことだった。
……拒絶されるのがこわい、なんて。
悪魔のくせに、と内心で自嘲する。少しは人間らしくなれたのかしら。いつもだったら嬉しく思っていたかもしれないけれど、今は虚しさの方が先に立つ。
どのみち人間になることなんてできないのに。『彼女』のように献身的な愛など向けられやしないのに。──守り抜くという誓いさえ、果たせなかったのに。人間としても悪魔としても不完全な私は、いったいどこへ向かえばいいのだろう。
黄昏時、赤く燃える地平線。ギラギラと照り返す水面、その眩しさに目が眩む。足が踏み出せない。世界が遠ざかっていく。
『ならば目を閉じてしまえばいい』そう、風に乗って誰かが囁く。蕩けるように甘い──脳髄を溶かすほどに甘い、女の声。
『むずかしいことは何も考えなくていい』
『私がその手を引いてあげるから』
『私が正しい道へ、連れていってあげるから』
『だから何も考えなくていいんだよ』
『私以外のものなんて、必要ないでしょう?』
その声に答えようとして──
「……それなら、ウチに住むか?」
開きかけた唇が、驚きに固まった。
見上げた先、輝いていたはずの地平が大きな影に呑まれるのが見えた。河にかけられた鉄橋、その上を走る列車がガタンゴトンとレールを叩く。そんな重たい音が響いたせいか、聴こえていたはずの声は煙のごとく消え失せていた。
そのことに違和感さえ抱かずに──というより驚きのあまり意識すら向かず──名前は目を瞬かせる。
そうしても目の前の景色は変わらなかった。黄金に光る地平線、足元に伸びる黒い影。数歩先で立ち止まった彼の左腕が治ることはないし、『今のは冗談だ』と訂正が入ることもない。赤く染まった景色の中、気まずげに目を逸らす早川アキがいるだけだった。
「……どうして?」
あまりにも都合が良すぎる。それとも夢を見ているのかしら?
まじまじと見つめていると、アキは「どうしてって……」と口ごもった。
「その方がお前もラクだろ。いちいち通わなくて済むし、それに……」
「……それに?」
「……いつまでもマキマさんちに世話になるのは申し訳ないって言ってたろ」
「そうだけど……。けどそれじゃあ今度はアキくんに迷惑かけることになっちゃう」
「俺はいいんだよ」
「今さら一人増えたところで何も変わらない」と口早に言い募り、そしてまた沈黙。引き結ばれた唇から何か読み取れやしないかと見つめてみるけれど、そうしてみたところで目に映る何もかもが自分にとって都合のいいものに見えてくる。
──輪郭を縁取る朱色が、夕陽のせいだけじゃないかもしれない、なんて。
「……そんな簡単に言っていいの?すぐ後悔することになるかもしれないよ。私ってほら、大雑把だし」
「『なるかも』だろ。それにデンジとパワーの二人に散々鍛えられたからな、大概のことなら……、まぁ、我慢できるさ」
「……食後のお皿をなかなか片付けなくても?トイレットペーパーの補充をサボっても?ティッシュと一緒に洗濯機を回しちゃっても?」
「ずいぶん具体的だな。そういうのは直させるから安心しろ」
ふ、と小さく笑う気配。硬直していた空気がほどける感覚。陽は降りゆき、黄金が満ちる。緑の野は燃え、大気は安息日に酔う。
しかしそれもひと時のこと。やがて灰色の冷気が立ち込め、大地は荒涼たるものに様変わりする。
それはさながらミレイの描いた絵画。十月の冷気。時は流れ、永遠は地平の彼方。どうしたって留め置くことはできない。いずれはうしなわれてしまう。……何もかもが。
そうして立ち竦む名前を見下ろして、彼は──
「お前がどんなにズボラでだらしなくても俺は気にしない。どんな人間だとしても……たとえば悪魔だったとしても」
『それでも構わない』と彼は言う。悪魔に家族を奪われた彼が。誰よりも悪魔を憎んでいたはずの彼が。晩秋の穏やかな夕暮れの中で、穏やかな表情で、穏やかな声音で、悪魔である名前をも肯定した。
それがどれほどの驚きを──驚きと喜びを名前にもたらしたのか。たぶんきっと、彼には永遠にわかるまい。
名前はぎゅうっと口角を持ち上げた。泣いてしまわないように、瞼の裏に力を込めながら。
「……優しいね、アキくんは」
「……別に、優しくなんかないさ」
「これが優しさ以外のなんだっていうの」
軽口に逃げた名前に、彼もまた目を逸らして逃避を企てる。
「だから、つまり、」言い淀み、息を継ぎ、また口ごもり──そしてひた、と名前を見据えた。どこか挑むような、強張った眼差し。視線に、本能がドキリと音を立てる。
逃げられないと思った。思わされた。逃げたくないと、何より自分自身が思ってしまった。
「……同じように、思っただけだ。お前と一緒に……って」
「これ以上言わせるな」と彼は顔の半分を手のひらで隠してしまう。……もっと見ていたいのに。
瞬間的に惜しむ気持ちが生まれたけれど、でも彼がそうしてしまうのも分かる気がした。心臓のあたりが擽ったくて、意味もなく駆け出したくなる両足を抑えておくのに苦労して、夕陽の発する熱なんか殆ど地平線に沈んでいるはずなのに頬はポカポカと温かくて、嬉しいのに気はずかしくて、なのにちっともイヤじゃない。
弛んだ顔をほったらかしにしておいたら、「なに笑ってんだよ」と睨まれてしまった。
「だって、……ふふっ、アキくんが嬉しいこと言ってくれるから」
「……そうかよ」
むすり、と渋面を作る。その顔はいつもより幼く見え、デビルハンターだというのが嘘のよう。けれど温かな橙色は底冷えする灰色に呑まれていき、いずれすべて夜に塗り替えられる。
「先行ってるぞ」そう言って背を向けた彼が夕闇の中に消えていってしまいそうで、名前は慌ててその後を追った。
「待って待って、置いてかないで」
「お前がのんびりしてるのが悪い」
「それなら手、繋いでいい?」
「……何が『それなら』なんだよ」
「だって私ひとりじゃそんなに速く歩けないもの」
「…………はぁ、」
深い深い溜め息のあと、「家に着くまでだからな」と強い調子で念押し。それでも差し出された手は現実で、重ねた手が遠慮がちに握り返されただけで笑みが溢れる。
また睨まれちゃうかしら。とはいえ残念なことに制御不能。どうやら表情筋がバカになってしまったらしい。『好き』って気持ちに『恋』とラベリングしただけなのに。それだけなのにこんなに変わってしまうなんて、恋の悪魔がいたら敵いそうにないな、とふやけた頭で名前は思う。
「ねぇ、さっきの話……本気にしちゃってもいいの?ホントのホントに……キミは後悔しない?」
「こんなことで嘘ついてどうするんだよ」
「それは……そうかもしれないけど。でもあんまり唐突で急展開なものだからびっくりしちゃって……今だってすっごく心臓がうるさいんだよ?聴いてみる?」
「……はぁ!?」
素っ頓狂な声の後で木立が揺れて、何羽かの鳥が羽ばたいた。瞬間的に見える、褐色の体。あれはツグミだ。孤独な冬の鳥。けれどそんな彼らも春には群れをなす。
その光景を思い浮かべて、名前はふと思い立つ。彼らにとってはそれが希望なのかしら、と。一つでも希望があるから──だからひとりきりでも飛べるのだろうか?
「私、ようやくわかった気がする」
「は?何が?」
「ええっと……そう、『希望』についてだよ。ワッツが描いたあの……竪琴の絵」
「あー……」
「ほら、目隠しをした女のひとが竪琴を弾いてるの。たぶんアキくんも見たことあるんじゃないかな」
「……それがどうしたっていうんだ?」
「だから、希望についてだって」
名前にとってはそうとしか言いようがないのだけど、彼の方は相も変わらず『わけがわからない』といった顔。伝わらないのがもどかしい。
名前は小さく唸りながら、繋いだ手を前後に振り回す。
「だからね、つまり、つまり……」
「なんだよ」
「……アキくんには私より長生きしてもらわなくちゃ困るなって話」
「はぁ?」
『希望』はたった一本の弦しか残されていない竪琴とそれを弾く盲目の女性の絵だ。そう詳しく説明すれば名前の言わんとすることも彼に正しく伝わったのかもしれない。けれどそうしようとすると何だか気恥ずかしいような……そんな気持ちになってしまって、名前は誤魔化すように話を纏めた。
自分から言い出したのに、ヘンなの。酔いが回ったみたいに頬が熱い。握った手の指先にだけ神経が集中しているような錯覚さえある。──これくらい、別に、特別なことじゃないのに。
……そう言い聞かせていること自体が異常なのだと、頭の片隅では理解しているのだけど。
「……だったらお前も長生きしろよ」
「……!それっ、それってどういう意味!?」
「それは……、言葉通り以外に意味なんてないだろ」
「あ、そう。そっか、そうだよね」
なぁんだ。浮かれていた心がしゅうんと萎んでいくのが自分でもわかった。
あんまりにも嬉しいことばかり言ってくれるから、期待してしまった。欲望は留まるところを知らない。もっともっとと際限なく望んでしまう。今までだって幸せだったのに。この世界で生きていてくれるだけでよかったのに。それだけじゃ足りないなんて。
頭を抱えたくなる。繋いだ手、その温もりに後ろめたさを覚えた。頬を嬲る灰色の風は断罪のしるしか。冷たさが、熱を冷ましてくれる。
これ以上を望むのは罰当たりだ。自分に言い聞かせていると、握る手に力がこもった。
「…………お前と同じだって、さっきも言った」
……そんなことを言われては、我慢できるはずもなく。
「……うん、」
同じだけの力を返しながら、名前は目を伏せた。
今以上の幸福を望んでもいいと──私の身勝手を、赦してくれるなら。それなら私は、キミに恨まれてもいい。キミが望まざろうともこの願いを果たす。そう、名前は心を決める。
──悪魔に奪われた彼の寿命を取り戻すのだ。