・モブ男によるBSS(僕が先に好きだったのに)です。
・名もなきモブ男の一人称視点で進みます。
・二部設定。
・夢主は教師としてデンジくんの高校に潜入してます。
・吉田くんといちゃついてるだけです。
夕焼けの橙色に染まった美術室。夕映えの中、僕はカンバスに向かう。描いているのは慈愛の聖母。神の子を胸に抱いたその顔はしかし、未だ迷い線で縁取られたまま。
僕は溜め息をつき、顔のない聖母からカンバスの向こうへ目を移す。
混じりけのない
黄昏に映える黄金の髪。透き通る膚は石膏の像か、はたまたまっさらなカンバスか。
しかし最も目を惹くのはその瞳だと僕は思う。
神聖なる蒼。清純を示す聖母の色。その双眸がふ、と揺らめき、僕の視線と交わる。
「…………」
二人の間に横たわるのは沈黙。けれど厭な静けさじゃない。彼女──名前先生の目は優しく細められ、口許に湛えた微笑は慈愛に充ちたものだった。
僕はまた、未完成のカンバスに向き直る。相も変わらず迷い線で縁取られた聖母の顔。
だけど僕の
僕は震える息を吐き、カンバスの陰で高鳴る胸を押さえる。目を瞑ってもあの微笑みは色褪せない。それどころか色彩豊かに記憶され、思い返すたびに鼓動が速まる。
僕にとっての聖母は、先生の顔をしていた。
男が嫌いだ。コレッジョの聖母子像を見て、はだけた胸元に下卑た感想を持つ男が嫌いだ。
女が嫌いだ。教科書に載っていた『ウルビーノのビーナス』に目を留めた僕を、嫌悪と忌避の目で見る女が嫌いだ。
教師が嫌いだ。社会に出たことなどないくせに、世界の全てを知ったかのような顔で説教を垂れる教師が嫌いだ。
だから僕はずっと、この世界で独りなのだと思っていた。
「『
教壇に立つ名前先生が教科書を片手に詩歌を読む。
「この『
先生の声は清流のようだ。穢れのない、澄んだ声。淡い紅色を乗せた唇が慎ましく動くのでさえ絵画的だと思う。たとえばグェルチーノの『マドンナ』みたいな──『自然で高貴で、尊く美しい』と、かの偉大なる文豪さえもが評した──そんな好ましさ。そう、この世界で彼女だけが真にうつくしい。
その尊さを愚かな生徒たちは理解しない。コレッジョの絵画を見た時と同じ、下品で下らない感想をニヤニヤこそこそと耳打ちし合う。流れ聞こえてくる話の内容は、糊のきいた白いシャツの下、肢体を想像するものだった。
──吐き気がする。
視線で、言葉で、先生が汚されていく。そのたびに『やめろ』と叫び出したくなる。だから先生の授業は好きだけど、拷問のような時間でもあった。
「──なぁ、吉田もそう思うだろ?」
斜め前の男が隣席の男に水を向ける。吉田ヒロフミ──いつだって涼しい表情を崩さない、いけすかない男。女子から黄色い声を上げられるのが常のこの男でさえ、肯定とも否定ともつかない笑みを浮かべるだけ。誰も先生を守ろうとしない。僕だけが先生の本当の価値をわかってあげられるんだ。
僕だけの聖母さま。僕だけの女神。雑音から逃れるべく、僕はノートの余白に鉛筆を滑らす。
新任の名前先生はクラスを持たない。だから一緒に過ごせる時間はごく僅か。担当科目である古典の授業と、顧問を務める美術部の活動時間だけ。その間しか彼女をスケッチできる機会はないのだ──僕は僕だけの神さまをカンバスの中に再現しなければならないのに。
「……それでは今日の授業はここまで。来週からの試験も頑張ってくださいね」
先生はそう言って、教科書をパタリと閉じる。と同時に鳴り響くのは昼時を告げるチャイムの音。生徒たちは一斉に椅子を引き、めいめいに散っていく。ある者は食堂へ、ある者は持参した弁当片手に机を並べ替え、そして僕はといえば黒板に残った文字列を慌ててノートに書き写す作業に追われていた。
絵を描いていると時間が過ぎるのはあっという間だ。お陰で授業がどんな具合で進んで、どこまで辿り着いたのか僕にはてんで分からない。授業中、僕の意識にあったのは先生の一挙手一投足ばかり。居眠りを咎める先生、恋の詩を読む先生、生徒に名前で呼ばれて困った顔をする先生……。僕のノートは先生のスケッチで埋め尽くされていた。
それでもまだ足りないと思う。僕はまだ、本当の先生を描けていない。本当の先生は──後光の中のサンタ・マリアは、もっと美しいはず。僕は僕の手が憎い。きっと世俗の垢にさえ塗れていなければ──美術室で先生と共にカンバスへ向かう、静謐な時間だけが僕にあれば──先生に清めてもらえさえすれば、僕の願いは叶うだろうに。
だけど先生は優しいから。今だって頭の軽い女生徒たちに呼び止められ、教材を持ったまま雑談に付き合わされている。
……かわいそうな先生!
先生はゴールデンタイムにやっているメロドラマになんか興味ないし、ビジュアルだけで売ってるバンドの音楽なんか聴くわけないのに。先生に相応しいのは教会で歌われるアヴェ・マリアの祈りで、『天路歴程』などの物語だ。それを僕だけが理解してあげられる。
そう、先生をわかってあげられるのは僕だけなのだ!
「……それって名前先生?」
背後から聞こえた声に、僕はガタリと机を鳴らした。強かに打ちつけた膝が痛むが、それどころではない。
振り返れば思いがけずすぐ側にあった顔。薄らとした笑みを貼りつけたクラスメイト──吉田ヒロフミが、僕のノートを覗き込んでいた。誰にも見せたことなどなかった、僕だけの聖母像を。冷たい微笑と無機質な黒い眼が、僕の描いた先生に向けられていた。
「アッ、ぁ……」
それは、ゾッとしない感覚だった。
彼は僕を見てはいなかった。彼が見ているのはノートの中の先生だけだった。彼は笑っていた。いつもと同じ笑顔だった。それなのに心臓を掴まれたような、冷たい手で撫で回されたような、そんなぞわりとした感覚をおぼえ、僕は喉を引き攣らせた。
なんの弁解も思いつかず、赦しを乞うための言葉すら発せられず。審判を下される直前の罪人の気持ちで、吉田を見上げることしかできなかった。
殺されるんじゃないかと思った。少なくとも五体満足ではいられないだろうとも思った。もう何もかもおしまいだ。僕は死刑宣告を待った。
だけどそうはならなかった。ならなかったのだ──吉田の眼が僕を映した時、それこそ僕の口からはひしゃげた声が洩れたのだが、しかし彼は目元を寛げ、「上手だね」と言った。僕は耳を疑った。
「ぁ、ぇ、」
「絵を描くのが好きなの?それとも先生のことが好きなのかな」
「ぃやっ、その、」
カァっと頬に熱が集まる。羞恥の正体は言い当てられた思慕のためであり、同級生相手にさえ上手く言葉を紡げぬ自分があまりに情けなく思えたためである。
けれど吉田は僕のことなど眼中にないようで、それなのに「特にこの先生、憂いがちな表情がすごく『らしい』ね」と言って、ノートの一角を指差した。それは『
『寝ても醒めてもあの人のことが忘れられず、憂いは日増しに募るばかり──』
……先生が薬指に指輪をつけてきたことはない。でも生徒たちの間では、先生は恋人と死別したのだという噂がまことしやかに囁かれている。どうしてかは知らない。想像力豊かな生徒が吹聴しているだけだろう。僕はそう思った。──はじめてその噂を聞いた時は。
でももしかしたら……もしかすると……その可能性はゼロじゃないのかもしれない。だって離別の詩を読む先生の顔はあまりにも…………
「……俺も描いてみようかな」
「……ぇっ!?」
思考の渦に呑まれかけた時だった。吉田の思わぬ一言が僕の首根っこを掴んだ。僕はまじまじと吉田を見た。二の句が継げなかった、それだけのことだった。
だけど僕の視線に気づいた彼は、少し気恥ずかしそうな微笑を刷いて、「君みたいに上手くはないけど」と言い添えた。
その瞬間僕は理解した。天啓といってもいい。突如として閃いたのは、『彼も先生のことが好きなのだ』ということだった。
それも軽薄な男子生徒が冗談交じりに言うものではない。神を愛するような──僕と同じ神聖な──そういった気持ちなのだと、僕にはわかった。
「ぅ、うんっ!いいんじゃ、ないかな。よ、吉田くんなら……、ほら、なんでもできるし、きっといい絵が描けると思う……」
「ありがとう。でもなんでもできるわけじゃないよ。何事も、それらしく振る舞ってるだけさ」
「へ、へぇ〜」
仄暗い眼差しと自嘲気味に形を変えた口に、僕は親近感を抱いた。
纏う空気で判断していたが、そういえば女子たちに放課後誘われても彼は断っていたし、男子の下品で幼稚な会話にも積極的に入ろうとはしていなかった。『それらしく振る舞ってる』──なるほど、言われてみれば確かに。
あっさりと得心がいって、僕は肩の力を抜いた。
「じゃっ、じゃあさ、美術部に入ったら?先生が顧問をしてるし、お願いすればモデルにもなってくれるみたいだよ」
「……ふぅん、そうなんだ」
吉田は目を細めて教室の前方に目をやった。
かしましい女子たちは去り、代わりに真面目な生徒が教えを乞うているようだった。会話の内容までは分からないけれど、先生が「また放課後に」と言って手を振るのだけはわかった。たぶん個別指導をお願いしたんだろう。来週には定期試験がある。
でも、だからといって先生の時間を個人の身勝手で奪っていいものか。──否。いいわけがない、だって先生はトクベツだ。それを理解している僕はきちんと身の程を弁えている。
「……すごく心惹かれるんだけど、俺、デビルハンター部だからなぁ」
「あ、そっか……」
吉田は僕に視線を戻し、「でも今度見学に行かせてもらうよ」と言った。
「活動日は火曜と木曜だっけ」
「あぁ、うん、よく知ってるね」
「それはほら、名前先生がデビルハンター部も兼任してるから。それで美術部のことも元々気になってはいたんだ」
つまり先生はデビルハンター部で美術部の話をしていた、ということか。
吉田の言葉からそう思い至り、僕はむず痒さを覚えた。
先生は美術部のことを──僕のことを、どんな風に話していたのだろう。吉田の様子から察するに、悪い話ではなさそうだ。だから余計気になった。聖母マリアの眼に、
僕は彼の話をもっと聞きたかった。僕の知らない名前先生の話を。
でも「おーい」と吉田を呼ぶ声があって、その望みは果たせなかった。吉田は「またね」と僕の肩を叩いて、学ランの集団に迎合していく。でも僕には彼のその笑顔が作り物であることが察せられた。名前先生のことを話す時の、穏やかな【それ】を知ってしまったから。
僕は弁当箱を抱え、いつも通り空き教室を目指すことにした。そうしながら、『吉田になら僕の絵を見せてもいいかな』と思った。描き途中の聖母子像。名前先生をモデルにしたその絵を、きっと彼ならば本当の意味で理解してくれるだろう。
僕がどうして先生をモデルにしたのか──僕だけしか知らない先生のことを教えてあげてもいいかもしれない。独りぼっちの僕に美術室を自由に使えるよう取り計らってくれた先生、コンクールに出した自信作が正当な評価を得られなかった時に慰めてくれた先生、僕の描いた聖母子像のラフスケッチを好きだと言ってくれた先生──先生がどんなに優しいか、僕がどれだけ救われたか、吉田にも教えてあげよう。
この時の僕は傲慢にもそう思っていたのだ。僕なんかが吉田より優位に立っているのだと──本気でそう信じていた。
吉田と初めて言葉を交わして一週間が経った。その間も彼は日に二言三言声をかけてくれていた。たとえば『昨日テレビでやってたオルセー美術館の特集は見た?』とか『ドルチの『悲しみの聖母』みたいな濃い青色の油絵具が欲しいんだけどこの辺だとどこで探せばいいかな』とか。吉田は他の同級生とは違う、意義のある会話を僕に求めてきた。
そんな具合であったので、僕はたいそう気を良くして、週の半ばには『金曜日の放課後、良ければ美術室に来ないか』と誘っていた。名前先生の配慮で、僕は特別お伺いを立てなくても職員室にある合鍵を好きな時に持ち出せるようになっている。もちろんそれは美術室の鍵だけで、昼休みなど必要に迫られた時しか使っちゃいない。
そう、必要に迫られた時だけ──デビルハンター部といえど学生の集まり、故にテスト週間は活動への参加は強制されていないらしい。クラスメイトの部員が(チェンソーマンなどという、女しか助けないことで有名な悪魔殺しを信奉しているんだとか。知性の感じられない間抜けな顔の男子生徒は自分の性別すらも分かっていないようだ。お前なんかどうせ信じた神にすら見捨てられるのに)無駄に声がデカいお陰で、無関係の僕の耳にまでデビルハンター部の予定は筒抜けだ。お遊び感覚でデビルハンターを名乗っているのが丸わかりで、こんな奴らの面倒を見なくちゃいけない名前先生や吉田がかわいそうになった。
……ともかく、金曜日の放課後は予定がないことを確認した上で、僕は吉田を誘った。とはいえ『無理にとは言わないよ』と気を遣うことは忘れない。
すると吉田は嬉しそうに笑みを深めた。ぜひに、と。『とても楽しみにしていたんだ』──その言葉に嘘は感じられなかった。実際、嘘ではなかったのだろう。彼はこの日を、【この時】を、楽しみにしていた。
その真の理由を、この時の僕はまだ知らなかっただけで。
「それじゃあ僕は美術室の鍵を借りてくるから、」
「うん、先に行って待ってるよ」
待ちに待った金曜日。すべての予定を終えて、僕は足取り軽く職員室へ。それから美術室へと向かう。
「あれ……?」
放課後の学校、印象派の描く夕暮れみたいな橙色に染まる廊下。その突き当たりに美術室はあった。幾度となく通った教室だ、今更間違えようがない。だけど僕は困惑に眉根を寄せた。
美術部の活動がない日には一切の隙間なく閉ざされているはずの出入り口、それが僅か五センチばかり開いているのだ──おまけに先に美術室に向かったはずの吉田の姿も見当たらない。美術室の鍵は、たった今僕が持ち出したものともう一本──名前先生が管理しているものの計二つしか存在しないのに。なのに今僕の目の前には鍵のかかっていない美術室があって、引き戸の向こうからは人の気配が感じられた。
僕の喉がごくりと鳴る。なんだかひどく──ひどく嫌な予感がした。
早鐘を打つ心臓。僕は息を潜め、忍び足で扉の前に立つ。知らぬ間に汗ばんでいた掌が気持ち悪い。隙間から人の話し声が洩れ聞こえてくる。引き返すなら今だ。そう思ってから、『何を馬鹿な』ともう一人の僕が言う。
嫌な予感だって?僕の悪い癖だ。なんでもかんでも悪い方に捉えてしまう。でもそんなの気の所為に決まってる。たとえ美術室の鍵を開けたのが名前先生であっても、たとえ吉田が僕より先に美術室の中に入っていたとしても。そこに事実以外の何かを見出そうとする必要はないのだ。
だから大丈夫。普通にドアを開けて、それから、それから──
「……聞かないの?『どうして急に絵を描くことにしたの?』って」
「聞いてほしいの?『どうして私を描きたいなんて言い出したの』って」
「いじわるだね、わかってるくせに」
さざめき笑いが広がる。男と女、二人分のそれが、けざやかなる夕陽の中で響く。
僕は引き戸に手をかけたまま、吸い寄せられるようにして僅かな隙間に顔を寄せた。
室内には、カンバスを挟んで向かい合う二人の男女がいた。男は筆を執り、女は窓辺に佇んでいた。女の豊かな髪は燃えるようで、モネの描いた小さな油彩画を想起させた。ひなげしの色、──夕陽の染みた、
──名前先生、
先生は笑っていた。密やかに、けれど確かに声を上げて。教室で見せる音のない微笑ではなく──聖母子像で描かれる慎ましやかな笑みではなく──クラスメイトの女たちと同じように笑っていた。
「せっかくなんだから可愛く描いてね」とねだり、男に「見たままにしか描けないよ」と意地の悪いことを言われては分かりやすく拗ねてみせる。その姿は【教師】というよりもただの【女】だった。
「それならよく見て、触れてみて。私が何ものなのか、何でできているのか。キミが選んで、……ううん、キミに選んでほしいの」
男のことを「吉田くん、」と彼女は呼んだ。教壇に立つ時と同じ呼び方だった。教室にいる時とは違う、熱を帯びた声だった。
床の軋む、ささやかな音がした。女は窓辺を離れ、男とカンバスの間に体を滑り込ませた。女の腕が男の肩に回り、しなやかなそれが夕陽の中に白く浮かび上がる、その様を、僕はただみていた。女の腕のゆっくりとした動きが、地面を這う蛇のようだと僕は思った。
イヴを唆した邪悪な蛇、──人間を誘惑するために悪魔が化けた姿。どうして忘れていたんだろう?ファム・ファタール、男を破滅に導くのはいつだって、美しい女の形をしているのに。
それでも僕は動けなかった。厭な汗が噴き出していても拭うことさえできず、逃げ出したいと思っていても両の足は根が生えたように動かせず。瞠目したまま、立ち尽くすことしかできなかった。
「いいのかな?センセイがそんなこと言って」
【先生】の部分を強調した言い方に、女は機嫌を損ねたらしい。先程までより幾らか低い声音で、「……キミまで私に役割を求めるの?」と言うのが聞こえてきた。
けれど男の方が動じた様子はない。喉の奥で笑って、
「だって俺たちが【教師】と【生徒】でいられるのは今だけなんだよ?せっかくなら楽しまなきゃ」
と答える。
言葉の意味など僕には分からない。分かりたくもない。物語は二人の間で完結していて、つまるところ僕はただの観測者でしかないのだ。僕には目の前の光景が──男の長い指が女の顎の下を撫でている。さながら雌猫にやるみたいに──そして女の方も気持ち良さそうに目を細めるのだ──長回しの映画にしか見えなかった。
「……バカだね、キミは。私なんて全部ニセモノなのに」
「だからいいんだよ。【先生】でも【神様】でもない──なんにもない君のことを、俺だけが知っていれば、それで」
男が口にした【神様】という単語に心臓が跳ねる。
覗き見ていることはバレてないはず。なのに睨めつけられた気さえした。芯から凍えるような冷え切った眼差し、そして声。その冷たさは覚えのあるもので──どこで見ただろうと、澱んだ意識の片隅で思う。
そんなに昔のことではないはずだ。鋭く光る刃物みたいな……或いは限界まで磨き上げられた宝石みたいな……そういった、硬質なモノ。僕はいったいどこでソレと出会ったのだろう──記憶を遡る中で、ふと閃くのは吉田の無機質な双眸。光すら届かない深海、星一つ見つからない夜の空、そういったものを見た時に感じる足元の揺らぎ、恐ろしさ──(そうだ僕は恐ろしいと思ったのだ。なんで忘れていたんだろう。僕は吉田のあの眼が、初めて僕の絵を見た時のあの温度の感じられない眼が、怖くて堪らなかったのに)それと同種のものを、彼の声色から感じ取っていた。
あぁでも、それだけじゃないはずだ。僕は他にも知っている。侮蔑、嘲笑、……それから嫌悪。吐き捨てられた【神様】という単語。それはきっと、いつの日か同級生が口にした僕の名前とそっくりで──
「意地悪言ってごめんね、許してくれる?」
「……やだ、名前で呼んでくれるまで許してあげない」
「呼んでるじゃん、いつも。名前先生、って」
「そうじゃなくて、……もう、わかってるクセに」
「ごめんって。……ねぇ名前、」
五センチの覗きからくりの中では下らないメロドラマが繰り広げられている。終わりは見えない。それもそうだ、僕という観客がいなくならない限り、緞帳が降りることはないのだから。
膝の上に座らせた女の耳元に顔を寄せ、男は甘ったるい声で求められた名を紡ぐ。それは先生の名を呼ぶに相応しい響きではなく、しかしそれこそが女の求めていたものだったのだと、否が応でも思い知らされる。
じゃれつく獣のように男が耳を噛んできても、女は擽ったそうに身を捩らせるだけ。抵抗するどころか嫌がる素振りひとつ見せやしない。クスクス笑って、「仕方ないなぁ」なんて、本意ではないフリをして。だけどその眼が何より雄弁に語っている。
清純さを表すラピスラズリの蒼色なんて今じゃどこにもない。太陽と共に落ちゆく神性は夕陽の赤。『叫び』の色。狂気の色。神は死んだ。聖母は堕ちた。ここにいるのはイヴで、リリスで、サロメだ。
だからきっとその唇の赤はイチゴとザクロでできている。『快楽の園』で使われた色。官能と誘惑の色。それが弧を描いたまま、男の額に、目尻に、頬に触れ──、最後に行きつく先はひとつしかない。
「ん……」
殆ど吐息でできている声が聞こえた瞬間、僕は踵を返していた。
その後の記憶は曖昧だ。気づいた時には自分の部屋にいた。僕は制服のまま立て掛けたカンバスの前に座っていた。カーテンの閉まっていない窓からは星空がよく見えて、『きれいだなぁ』と思ってから涙が出た。
この星空よりも美しいものがあった。僕はそれを知っていた。知っている気になっていた。でも本当は違ったのだ。美しいと思ったのはまやかしだった。本当はどこにも存在していなかった。信じる神に裏切られたのは僕の方だった。カンバスには『叫び』の赤がぐちゃぐちゃに塗りたくられていた。
僕はスケッチブックを開いた。何か別のもので思考を塗り替えたかった。でも集中なんかできなくて、無意識のうちに鉛筆は名前先生を象って、我に返っては黒く塗り潰すことを繰り返した。結局絵と呼べるものは一枚も描き上げられなかった。
──翌日も、その翌日も。
月曜日が来た。眠ったような眠れていないような、夢うつつのうちに太陽は昇った。
吉田はいつも通りだった。昨日までと同じように僕に挨拶をし、「昨日はどうしたの?」と心配そうに(……)眉を寄せた。
「俺も絵を一枚描き上げたんだ。美術室に置いてあるから、今度感想を聞かせてよ」
僕は頷いた。反射だった。吉田は形のいい唇で微笑を作った。それはあの日見た赤色とおんなじだった。
僕は美術室に向かった。他に行くところなんてなかった。誰もいない美術室に安堵したあと、知らない絵を乾燥棚で見つけ、──頭を殴られたような気がした。
それは窓辺に佇む女性を描いたものだった。原色を使っているのか、夕陽の橙が自然な鮮やかさと柔らかさでもって女性を縁取っていた。
絵の中の女性は笑っていた。ルノワールの描く少女のように無邪気に、ラファエロの描く聖母のように愛情に満ちた眼差しで、けれどコリアの描く魔女のように妖しい光を宿して──見たことのある顔が見たことのない表情を浮かべて、こちらを見ていた。
僕ははじめて敗北を認めた。敵わないと咄嗟に思ってしまった。だって僕にはどんな芸術家とも違う筆致で彼女を描くことはできない。僕が描こうとしたのはラファエロのような聖母で、つまるところ他人の猿真似でしかなかったのだ。僕は彼女の一面しか見ようとしなかったし、それ以外など必要ないと今でも思っている。
僕は僕にとって都合の良い聖母がほしかった。ただそれだけのことだった。
僕は吉田の絵を乾燥棚に戻した。自分が描いていた聖母子像は橙色で塗り潰しておいた。続きを描こうとはとても思えなかった。
僕は吉田と関わるのをやめた。吉田も僕に声をかけてこなかった。視線さえ交わることがないのだ、どんなに鈍い人間でも気づく。吉田が僕に声をかけたのは目的があったからなんだって。そしてそれは滞りなく達成されたのだ。あの日の放課後に。
それから暫くして長期休みが始まり、始業式を迎える頃には吉田も先生も学校からいなくなっていた。吉田は転校したらしい。先生のことは分からない。病気療養のため休職してるのだとも結婚のため教職を辞したのだとも聞いた。どちらにせよ二人は今も一緒にいるのだろう。不思議と確信があった。
そして僕は風景画を描くようになった。人間の一切映り込まない、ただあるがままの景色を。
人物画はもう二度と描けそうになかった。
──僕はまだ、吉田の描いた先生の絵を忘れられずにいる。