中身に興味はない

 明くる日、名前は透の愛車(ただし、その右車体には大きな傷がついている)、RX-7の助手席に座っていた。行き先は東都警察病院。用件は――言うまでもないだろう。
 昨日手に入れた情報は透に報告済みである。キュラソーが東都水族館にいたこと。記憶を失っていること。警察病院に搬送されたこと。江戸川コナンが関与していること。キュラソーの情報が完全ではないだろうこと。そして、バーボンが疑われていること。
 そういった気がかりのせいで、朝食のパンケーキサンドは4つしか食べられなかった。いつもは6つくらいぺろりと食べられるのに。ウインナーは喉に引っ掛かかるし、たっぷり塗ったケチャップまで舌に絡まる始末。
  Misfortunes never come singly――おまけに、嫌なことは続くもので。
 警察病院の仰々しい看板が見えるころ、名前は瞠目した。「ベルモットがいる」ハンドルを握っていた透も眉間に皺を寄せた。
 「目的は、」――キュラソーか、それとも?透の視線に、名前は肩を竦めた。ベルモットの目はこちらを向いている。

「透にとって、嫌な方」

「……面倒だな」

 舌打ち。安室透の仮面はボロボロだ。それでも今さら行き先を変更するわけにはいかないし、変えたところで意味などない。
 ベルモットを仕留めることも考えたが、名前は無駄だと判断した。彼女を殺したところで、バーボンへの疑惑は解消されない。ここは大人しくするに限る。
 赤毛の女よりブロンドの女の方が良くない、と名前は内心毒づいた。
 これだから迷信なんてものは当てにならない。だいたい、本当に叶うというのなら、名前は今すぐトネリコで十字架を作るし、白樺の小枝だって贈る。どうか透を危険から護ってください――そう言って、神様のこめかみにリヴォルヴァーを押しつけることだって。
 けれど実際に銃口を向けるのはベルモットで、バーボンもノーリも彼女に従うしかなかった。今の彼女は女王だった。彼女の言葉は組織の言葉だった。
 「2ブロック先、右へ」言われた通り、バーボンは車を走らす。助手席に悪魔のように美しい女を乗せて。
 後部座席に移動させられた名前は、バーボンの後ろで流れる景色を眺めた。
 夕刻、車は住宅街を離れて、人気のない港に入った。草臥れた倉庫街。裏街道の者たちにはお似合いの場所で、3人は車を降りた。隣にはポルシェ356A――ジンの愛車がある。

「入りなさい」

 そう言った彼女の手には相変わらず物騒なものが握られている。
 「逃げやしないさ」バーボンは薄笑いを浮かべた。ベルモットは何も言わなかった。
 中には先客がいた。
 一人はキール、つり目がちな目を更に鋭く尖らせた彼女の手は、鉄骨の柱に繋がれていた。そして、バーボンも同じように手錠をかけられる。
 それをしたのはウォッカで、ジンは片方の口角だけ吊り上げて煙草をふかしているだけだった。獲物を前に舌なめずりするような顔!この顔が名前は一等嫌いだった。

「ノーリはこっちよ」

 名前はベルモットに手首を引かれる。彼女の前に立たされたかと思えば、馴染み深い音が背後で鳴った。ベルモットの銃口が、バーボンからノーリに移されたのだ。
 だからってたじろぐことはない。銃弾の雨に撃たれるのは、名前の未来の中ではさして珍しくないからだ。それに、そうした想定が拓く活路があることも名前は知っていた。
 彼女の鼻は、既に闖入者の匂いを嗅ぎ取っていた。向こうもそれを承知の上で計画を立てているだろう。名前は機を窺った。
 「まずは貴様だ」低い声と共に、銃口が動く。ジンの視線の先には、バーボン。
 ウォッカがゼロを数え終わるやいなや、名前は駆け出した。ベルモットとバーボンの焦った声が背を追いかける。

「……なんのつもりだ、フェンリル」

 蛇のようだと名前は思った。地を這うような声。名前はその前に手を広げて立っていた。後ろにバーボンを庇って。

「飼い主を護るのは当然のこと」

「オオカミはもっと賢い生き物だと思ったんだがな、どうやら躾が足りなかったらしい。本来の飼い主を忘れちまうとは」

 ジンはわらった。明らかな嘲笑だった。冬の朝にできる氷柱よりずっと冷たいわらい。
 「……まぁいい、その反抗的な面の皮を剥ぐのは決定事項だ。安心しろ、お前の剥製はオレの部屋によく似合う」冬のような男は、名前を見つめた。殺意が薄く立ち上る。
 名前も見つめ返した。そこにはなんの感傷もない。「よせっ!名前!!」そう叫ぶ優しい人を護るためなら、名前は神にも悪魔にも接吻してやれた。
 だから赤井秀一と共に夜陰に紛れて組織から逃亡するのにも抵抗はなかった。それが透を護る最善策であることを名前は理解していた。
 だから赤井が「良かったのか、置いてきて」と言ったのにもあっさり首肯した。

「あの状況で、私が彼を、彼が私を残していくのは不自然。あくまで扉を開け放ち逃亡したのはバーボンでなくてはならない。私の目と脚なら、内から外へ出ることもウォッカを撒くことも可能。だからあなたと合流するのがベストなはず」
 名前にしては考えた方だった。それなのに赤井に呆れたように溜め息を吐かれて、名前は首をかしげた。
 「君は彼のことを分かっていない」……赤井は相変わらず難しいことを言う。


 風見との連絡を終え、透は海の向こうに目をやった。視線の先にはプロジェクションマッピングのショーが始まった東都水族館がある。透は、そこに行きたいと言った少女を思った。そして、彼女が今行動を共にしているであろう男のことを。苛立たしげに髪をかきむしると、透はすぐに走り出した。