掌で転がされる

 「ヤツらは既に何らかの仕掛けを用意しているらしい」ハンドルを握った赤井は、名前をちらりともせず言った。「『例の機体』というセリフと併せて考えれば恐らく……」
 そこまで口にしたというのに、彼はそこで言葉を切った。
 ――恐らく、なに?名前が助手席から視線で続きを催促しても、彼は口の端で笑うだけ。しまいには、「少しは自分で考えろ」などと宣う。だから名前は唇をきゅっと引き結び、悠然とした男をねめつけた。
 赤井秀一という男を名前はよく知らない。彼女が知っているのは、ライという偽りの部分だけ。しかしそのどちらも相手の痛いところを突くのが上手いらしい。
 しかめっ面の名前に、赤井は笑みを深めた。「君は変わったな」もちろん、いい方に。
 その言葉の真意を問うより早く、彼は続けた。

「じきに着く。……気を抜くなよ」

 その鋭い声もまた、ライと同じ色をしていた。

「……あなた、千里眼でも持っているの」

 東都水族館、管理施設。そこに変装したベルモットが入っていくのを、赤井と名前は見送った。ことは赤井の推測通りに進んでいる。思わず、名前は胡乱なものを見るような目になった。
 「いいや」赤井の手が伸びる。「これくらい、彼にだって容易いことだろうさ」そう言った男の顔は明らかに面白がっていた。
 彼らと名前の間の隔たり。足元に流れる深い川が腹立たしくて、おとなしく撫でられるのは裏切りのようで、どこか手慣れた風な手を名前は払いのけた。「でもあなたと透の間の川の方がずっと深い」子供じみた抵抗は、一笑に付された。

「それを望めるほど、君は器用じゃない」

 あやすような声音に、名前は目を逸らす。深い色の瞳に映る自分を見るのが嫌だった。彼の目も言葉も名前を暴き立てる。組織という殻、透の猟犬という糸。彼の前ではそれらが取り除かれ、名前は自分が何なのかわからなくなる。だから、赤井秀一という男が苦手だった。

「そろそろ俺は行く。こちらは任せた」

 そのくせなんのてらいもなく信頼してみせるから――やっぱり苦手だ、と名前は頬を膨らませた。女泣かせとはきっとこういう男のことをいうのだ。
 ライフルバッグを背負った男が闇に消えた後。建物から出てきたベルモットは、トイレに立ち寄ってからファミリーレストランに入っていった。彼女が選んだのは窓際のテーブル席。それだけならまだしも、ベルモットは双眼鏡を取り出し、窓の向こうを注視している。本来目を向けるべきはメニュー表なのだが。
 なぜこんな目につきやすい場所を選んだのか。それは双眼鏡の先を見れば明らかだった。遮蔽物なしに観覧車を監視できる場所、それがこのレストランだった。
 とはいえ、他にやりようがあったのではないか――そう思わずにはいられない。
 なんとも言えない表情で、名前はベルモットを見つめた。名前はレストランに入ることはせず、観覧車とレストランの間の人ごみに身を隠していた。もちろん、ベルモットからは肉眼では捉えられない位置だ。だがベルモットは観覧車に夢中らしい。名前は安心してベルモットの口元を凝視した。
 『キュラソーをゴンドラに確認。同乗者は公安が一名。頂上に到達するのは約十分ってところかしら』『各セクションに数名ずつ張り付いているようだけど、計画に支障はないんじゃない』『了解』そう言って、ベルモットは口を閉ざした。話は終わったということか。
 名前も同じく自身の耳元に――赤井から渡された通信機に手をやる。報告をして、今後の指示を仰いで――そう思った矢先。名前の耳に飛び込んできたのは全く予想外の言葉だった。

『飼い主の回収に来てくれ』

 それだけ。たった一言を伝え、通信は切られた。その内容について考えるより早く、名前の足は地を蹴っていた。――だって、その言葉で表される人は一人しかいない!
 人混みをぬい、観覧車内部に入り込み、階段を駆け上がる。途中、小さな体躯でよじ登る少年を拾い上げたが、そんなの些末なことだ。少年の目的も、少年の電話の相手も、どうだっていい。名前が思うのはたった一人だ。
 何かが叩き付けられたような音がして、咄嗟にたたらを踏んだのはそのせいだ。腕の中の少年が「あそこだ!」と上を指差す。名前はひとつ頷き、また走り出した。
 名前は不安に駆られていた。透は赤井を憎んでいる。それはきっと殺意と同じ色の感情だ。故に名前は不安に胸を焦がす。復讐を果たしたその先で、透はどうなっているのか。分からない。分からないからこそ、怖かった。

「本当か?コナン君」

 だから、透の顔を見た瞬間視界がぼやけた。それ以上溢れ出さないよう、顔を固くし、唇を噛んだ。だというのに、「名前ッ!?」と叫ばれた瞬間、体が震えた。泣きたくて、でもそれ以上に近づきたくて、触れたくて、でもそれを押さえて、名前は言った。

「……説明、お願い」

 コナンは訝しげに名前を見上げたが、すぐに透に向き直り、爆弾の説明をした。無数にあること、いつ爆発するかわからないこと。それに対し、透は「FBIとすぐに行く!」と応えた。
 そして身を翻す一瞬、名前を見た。視線が溶け合い、彼の唇が音もなく動き出す。

『待ってろ』

 ……たったそれだけで満たされるのは名前が飼い犬だからなのか、それとも。それ以上のことは考えたくなくて、名前はフェンスの向こうから視線を外し、コナンを抱え直した。