背中が寒い。身体が震える。
今きちんと立って歩いているのが自分ではないような気がして、なまえは静かに息を吐き出した。その息でさえも、ひどく震えていた。

「別に今すぐ殺したりなんてしませんよ」

そんななまえの様子を見て、坂牧が喉の奥を鳴らすように笑った。
パーティ会場から彼女を連れ出した坂牧は、慣れた様子でロビーの隅にある扉を開けて従業員用の通路へ入った。開催されているパーティは決して規模が小さい訳ではないのだから、通路に従業員の姿があってもいいものだが、その期待とは裏腹に白い無機質な通路はしんと静かで、わずかにパーティ会場のBGMが漏れ聞こえてくるだけだった。
落胆する間も無く脇腹を銃で小突かれ、通路を進む。

「こっちの通路は緊急時くらいにしか使われないからね。残念ながら誰かと鉢合わせ、なんてことはないですよ」

もっとも、と坂牧が笑みを深める。

「その方が君は、誰かが目の前で死ぬところを見なくて済むけれど」

目眩がした。
青ざめるなまえを眺めるのがよっぽど楽しいのか、坂牧は歌うように「さあ行きましょう」と言って、また銃で脇腹をぐっと押した。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。震える唇を噛み締めながら、こんなことなら銀時の言うようにちゃんと気をつけていればよかった、となまえは思う。普段なら絶対に着られないようなドレスを着て、華やかなパーティ会場や優雅な参加者たちに気遅れて注意力を欠いていた。けれども今そんなことを考えたところで状況が変わる訳ではない。なんとかしなければ、なまえはもう一度深呼吸する。

「さ、坂牧さんは、」

声をかけられると思っていなかったのか、坂牧は少し意外そうな顔をして視線だけをなまえの方へ向ける。

「誰かに、恨みがあるんですか?…十文字家や、花田夫妻、に」

声が震えないようにするのが精一杯だったけれども、静かな通路には十分に響いた。坂牧が立ち止まったので、肩を抱かれているなまえの方も必然的に立ち止まる形になる。二人の身長差はおそらく20センチはあるが、細く高さのあるピンヒールのおかげで顔の距離が近い。坂牧は足元から顔に向かって品定めするようになまえを眺めると、そのまま目を覗き込んでくる。目線を合わせると改めて、底の見えない空っぽの井戸を覗き込んだような気分になって、冷や汗が背筋を伝った。

「恨み、っていうんですかねぇ」
「…え?」
「君、身内を殺されたことはありますか?」

思いもよらない質問に、なまえは目を見開く。何と答えるべきなのか、視線を反らせないまま坂牧の空っぽの目を見つめ続けると、一瞬、その奥で何かが光ったような気がした。

「君みたいに汚れてない人間が、どうしてあんな奴の身代わりになっているのか不思議だけれど、まあ今はいい」

そう言ってから坂牧はジャケットの内ポケットからパスケースらしきものを取り出すと、なまえに見せた。本来なら定期券などが入れられるであろうそこには写真が入っていて、ショートカットの勝気そうな表情の女性と、その隣には今目の前にいる彼からは想像できないほどに無邪気に笑う坂牧が写っている。

「この人は…」
「僕の婚約者でね。一年前に交通事故で死んだ」

事故、と繰り返すと坂牧が自嘲するような笑みを浮かべる。

「事故を起こした車は一度は逃走したが、2時間後に運転していたという男が出頭した。…身代わりだよ。実際運転していたのは十文字のご令嬢だ」
「運転って、だってその時のお嬢様って、」
「そう、無免許だ。ご令嬢はひき逃げを起こした挙句父親に泣きついた。十文字は娘の無免許運転なんて、そんなスキャンダルは何としてでも避けたかったんだろう。金で身代わりを用意して自首させたんだ。事故の上に自首した人間がいれば、警察は無理に詳しくは調べないしね」
「そんなこと…」

あるのだろうか。なまえは思った。
警察、ということは真選組だ。彼らは、それを見落としたりしたのだろうか、と。

「だがそこで困ったことが起こった。事故現場のすぐ目の前のビルには防犯カメラが設置されていてね。ばっちり事件の瞬間の映像が収められていたんだ。十文字は慌ててそのテープを回収し、ビルの所有者である花田夫妻に口止めをした。もともと交流はあったらしいが…その頃から花田夫妻のビルを丸々、異常なくらいの高額なテナント料で借りてる。ズブズブの関係ってわけだ」

言い終えると、坂牧は深く息を吐き出して、何も言えないでいるなまえを見つめる。「…そろそろか」呟いた言葉の意味を聞こうとしたが、それよりも早く、写真を内ポケットへ仕舞い込んだ坂牧の目がまた空っぽの薄暗い色に戻ってなまえに銃口を押し当てた。

「坂牧さん、」

止めなければ。言葉を探しながら息を吸う。しかし何か言う前に腹の底から響いてくるような爆発音と揺れに襲われて、なまえは足をくじかないように踏ん張るしかできなかった。間髪入れずに警報器のサイレンが鳴り響き、天井からはパラパラと塵が落ちてくる。

「さあ、あと少しです」

坂牧はまた歌うように言うと、乱暴になまえの身体を抱き寄せ大股で歩き出した。
高いピンヒールで転ばないようによろよろとついていきながら、なまえはサイレンの音が段々と遠くなっていくように感じて、薄暗い目をした坂牧の横顔と写真の彼を思うとどうしても泣きたくなった。




170926


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