「あんたがみょうじか?」

そう尋ねる沖田を見上げながら、なまえはこの人をこんなに怒らせるだなんて自分は一体何をしてしまったんだろうかと考える。どんなに頑張って記憶を手繰り寄せてみても、沖田となまえの接点といえばたまに屯所の廊下ですれ違うくらいのことだったので、こんな風に刀を突きつけられるほどの失態を犯したとすればたった今、彼の部屋の前で5分ほど立ち往生したことくらいしか思いつかなかった。

「…みょうじ、なまえと申します」

とにかく沖田の質問に答えなければ、そう思って口を開けばなまえの声は情けないほどに震えていた。中性的な顔立ちには不釣り合いとも思える刀の切っ先をこちらへ向けたまま、沖田はじ、となまえを頭のてっぺんからつま先まで観察している。
Wお役御免で故郷に帰されるWを最悪のケースと思っていた自分はなんて甘かったのだろう、となまえは思った。最悪のケースは今ここでこの人に斬られて死ぬことかもしれない、と。
けれどそれでも、不思議と沖田が自分を斬るなんてことはしないだろうと、なぜか確信にも似た様な気持ちもなまえの中に同時にあった。

「えぇぇっ!ちょっと何やってるんですか隊長ォォォォ!!!」

ゆらりと彼の瞳の奥で揺れている感情は何なのか、ただその目から視線を外せないでいると、急に沖田の向こう側から慌てた様な声が飛んできた。
沖田はチッと舌打ちをすると、すぐにいつもよく見る無表情に戻って、面倒臭そうに後ろを振り返る。

「何でィ、山崎。邪魔すんな」
「いやいやいや邪魔しなきゃ彼女確実に危なかったでしょう、今!!」
「ちょっとした冗談でさぁ。歓迎の印にまずは主従関係バッチリ仕込んでやらねーと」
「仕込み方ァ!!」
「うるせぇ」

耳をふさぎながら、とりあえずここ片付けとけ、とだけ言って、沖田はなまえには一瞥もくれずにその場を去っていった。
後には未だに尻もちをついた体勢のままのなまえと、沖田に呆れ返った様子の山崎だけが残される。

「大丈夫?なまえちゃん、怪我してない?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

慌てておろおろと声をかけてくる山崎になまえはなんとか笑いかけると、いうことを聞かない自分の脚を叱咤した。しかしそれでも腰が抜けてしまったらしくどうしようもないので、ついに山崎に「実は腰が抜けてしまって立てません」と申告する。彼は申し訳なさそうに笑ってなまえを立たせてくれた。

「本当にごめんね!まさか沖田隊長、女性相手にあんなことするとは…」
「いえ、わたしが何か、沖田さんの気に入らないことをしてしまったのかもしれません」

山崎とは以前、大江戸スーパーで彼が大量にあんぱんを購入しているところに出くわしてから、時折話すようになった。男所帯の真選組の中では珍しく控えめで柔らかい雰囲気の持ち主なので、一部の女中からはあの地味な人などと呼ばれたり名前を覚えてもらえないことに悩んでいるらしかったけれども、なまえは山崎と話すのが好きだった。

「なまえちゃんなら大丈夫かと思ったんだけどなぁ…」
「え?」
「あぁ、いや。沖田隊長、今まで側役なんていらないの一点張りだったのに、急になまえちゃんを指名したから」

その言葉を聞いて、なまえは余計に沖田という人物のことがわからなくなった。
さっきの手痛い歓迎も、わざわざ自分を指名した理由も、どうにも腑に落ちない事ばかりだ。「なぜ、わたしなんでしょうか?」山崎に尋ねてみたけれども彼は曖昧に笑って首を傾げるだけだった。

「やることめちゃくちゃだけど、根っからの悪人てわけじゃないから。何かあったら何時でも言ってね」

山崎はそう言って、またあの柔らかい人当たりの良い笑みを浮かべた。彼は監察という役職についているらしいが、なるほど確かに、この人を安心させる笑顔は潜入に向いているのかもしれないと、なまえは思った。
そのあと、山崎が「ここは俺に任せて」と言って聞かないので、なまえは着任早々に沖田の部屋を後にして、医務室へと向かっていた。沖田に突き飛ばされた時に擦りむいた手の裏と、折れた障子の組子で擦ったふくらはぎからじわりと血がにじんでいたので、別段痛いわけでもないのだけれど、手当はしなくてはと思ったからだった。

「……わたし何かしたかなぁ、」

自分を突き飛ばした時の、あの、沖田の顔を思い出す。
なまえ本人に何か恨みがあるような感じではなかったけれど、しかし真選組随一のサディストがあそこまでとは思わなかった。
あの、お前なんて何があっても信じたりしませんといった顔が、自分は沖田に指名されて側役になったはずなのに、なまえの自尊心をことごとく砕いて吹き飛ばす。元から自分が出来る人間だと思ったことはこれっぽっちもないけれど、それにしても、あの歓迎の仕方はいかがなものか、と思った。
じわりと、沖田に刀を突きつけられた時には何とか耐えていた涙がにじむ。これはよろしくない。屯所の廊下で泣いていようものなら、立ち所に噂になってしまう。そうなれば自分も沖田も、少なからず嫌な思いをしなくてはならない。

泣くな。

そう思いながら涙を我慢する自分はおそらくひどいしかめっ面をしていたのだろう、すれ違った隊士が何だ何だとこちらを振り返ったのでなまえは慌てて顔を伏せる。

「どうした?」

そうしていると正面から聞き慣れた声が聞こえてきたので、なまえはとうとう泣き出してしまいたくなった。あんまり優しいその声は、間違いなく土方のものだったからだ。
立ち止まって下を向いたまま顔を上げられないでいると、こちらへ近づいてきた土方がなまえの顔を覗き込んでぎょっとしたように声を上げる。

「…泣いてんのか」

手にはまだ開けていないらしい煙草が握られていたので、どうやらこれを自販機へ買いに来たところのようだった。

「な、泣いてません、」

慌てて涙を拭おうとするとその手を掴まれた。何事かと思って顔を上げれば「やっぱ泣いてるじゃねーか」と眉間に皺を寄せた土方と目があう。ぽろり、と我慢していたはずのそれが頬を伝って落ちた。

「転んだのか」

困ったように手を離した土方がそんなことを言うので、なまえは思わず吹き出してしまった。

「おいコラ、何で笑ってんだよ」
「す、すみません…でも転んだくらいじゃあ、わたし泣きません」
「泣き虫がよく言うぜ」
「泣き虫じゃないです」
「しょっちゅう泣いてるだろうが」

初めて会った時もそうだ、と指摘されてなまえは今度は赤くなった。
田舎から突然江戸に出されて奉公先の屯所の場所が分からず、道に迷うわ人と散々ぶつかるわで泣き出しそうになっていたところへ声をかけてくれたのが土方だった。非番だったらしい私服の彼に真選組屯所へ行きたいのですがと尋ねればわざわざ連れて案内してくれて、聞けば真選組鬼の副長だというのでなまえは余程驚いた。副長が女を連れてきた、と隊士たちがざわめいていたのはまだ記憶に新しい。

「とりあえずさっさと医務室行け。女なんだから跡残すな」

土方が手の傷を指して言う。どうやらこれを見て転んだと思ったらしい、はいとなまえが返事をしたのを見て、土方はじゃあ自分は見廻りがあるからとその場を去っていった。
それを見送ってからなまえは、脚の傷に彼が気づかなくてよかったと思う。おそらく気づいたなら土方は医務室まで着いてきた、ような気がする。

「…よし、頑張らなきゃ」

先の沖田との一件がどうか土方の耳に入りませんように、と願いながら、なまえは小走りに医務室へと向かった。




160909


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