明鏡止水



 劉備一行が新野に戻って数日後、諸葛夫妻が多くない荷物と共にやって来た。
 新野に着いてすぐに諸葛亮の私邸と執務室を整えることに奔走していた春蓉は、その知らせを聞くやいなや出迎えるべく城内を走っていた。
 夫妻を見つけたのは謁見室だった。ちょうど君主への挨拶を済ませたところらしく、関羽や張飛など主だった臣下も同じ場に居合わせているようだ。
 そんな中に立ち入ることも出来ず部屋の外で待機していると、春蓉を呼ぶ声が聞こえた。向けられる幾つもの視線に居心地の悪さを感じながら諸葛亮の横に並び立つと春蓉は呼び声の主である劉備に拱手した。

「そういえば正式に春蓉を紹介していなかったと思ってな。諸葛亮、月英と共に私の力になってくれるだろう。皆、よろしく頼む」
「着いて早々動き回っておったからの。して、諸葛亮の私邸は無事算段ついたのか」
「はい。案内して頂いた内から選び、すぐに入れるよう手筈を整えました。その節はありがとうございました」
「おめぇもよく出来た弟子だな! 城内でも良い部屋よこせって文官に喧嘩売ってたもんなぁ」
「張飛殿! 言い方! 交渉の上で譲って頂いたんです! お互い禍根はありませんから」
「……春蓉は私の弟子ではありませんよ」

 諸葛亮のその一言に関羽、張飛と親しげに言葉を交わしていた春蓉の動きがぴたりと止まり顔からは表情が抜けた。そんな春蓉の様子に気付いてもなお、諸葛亮は言葉を続ける。

「勿論血縁でもありませんよ。戦災孤児だったこの娘をたまたま傍においていただけです」

 いつも通りの穏やかな口調だったが、涼やかな視線と相まうと冷たい響きが強調される。誰も二の句が継げないでいるようなので春蓉は努めて明るい声で静寂を破った。

「今の時勢、珍しくない話ですよね。先生に拾ってもらえて運が良かったです」

 そこから諸葛亮は何事もなかったかのように劉備軍の現状を把握すべく文官・武官に質問を始めた。その隙を見て春蓉は静かに場を辞した。
 部屋の隅でぼーっとしながらやりとりを眺めていた春蓉はきらりと光るものに気が付いた。光の元に目を向ければ椅子に腰掛ける趙雲に辿り着く。
 窓から差し込む浅い太陽の光が趙雲の後頭部で一層きらめいていた。いつぞや渡した結紐を新野に戻ってからも使ってくれていると分かると何だか胸が暖かくなった。
 そう思った瞬間、趙雲とばちりと目が合う。慌てて目を逸らしてしまいすぐに後悔した。別にやましい事があるわけではないのだから目を逸らす必要はなく黙礼でもすれば良かったのだ。
 そう思い目線を戻したその時、質疑応答も謁見も終了したらしく立ち上がって部屋を出て行く人達によって春蓉の視界は遮られてしまった。出鼻をくじかれたようで気持ちの持っていきようがない。
 仕方なく人の流れに沿って外に出た所で諸葛亮と月英の姿を見つけた。駆け寄る前に目を瞑って大きく息を吐く。大丈夫、と言い聞かせるように呟いて一歩踏み出した。


***


 次の日の早朝、相も変わらず春蓉の姿は厩舎にあった。愛馬である黒麒の世話は勿論のこと、厩舎で働く人の手伝いをするのが新野に着いてからの春蓉の日課だった。
 いつもなら一番乗りで世話を始めているのだが、今日は既に何人もが働いている。本当なら来たくない心境だったが、馬相手にサボるわけもいかずグダグダと準備をしていたせいでこんな時間になったのだ。
 重い足取りでまずは黒麒のところへ向かうとそこには先客がいた。

「おはよう。春蓉」
「お、おはようございます」
「今日は随分ゆっくりだったようだな。他の者が遅いと心配していたぞ」

 主人の足音に気付いた黒麒の鳴き声に背を向けていた趙雲が振り向いた。早朝だというのに実に爽やかな笑顔だ。目と心、両方にとって眩しすぎる。

「すみません……でも、そんな日もあります」

 会話をする余裕すら春蓉にはなかった。常時に比べると低い声で可愛げのない返答をしてしまう。八つ当たりをしている自覚はあるので視線は所在無く地面を彷徨う。

「そうか……何にせよ早く綺麗にしてやらないといけないな」

 そう言うと桶を手に趙雲はさっさと歩いて行ってしまった。混乱する春蓉なんかお構い無しで黒麒は顔をすり寄せて嘶く。共通する言語がなくとも早く綺麗にしろと言っているのが分かる。
 観念して手を動かし始めたが動きは鈍い。しかし、代わりに趙雲がテキパキと働くものだから結局はいつもと同じ時間に全て終わらせることが出来た。
お礼を言わなければと近付いた所で、こちらに。の一言だけでさっさと趙雲は歩き出してしまった。
 こうなるとついて行くしかなくなった春蓉は趙雲の数歩後ろを無言で歩く。歩みが止まったのは庭園と呼ぶにはみすぼらしい場所だった。城内を散々走り回った春蓉だったがこんな場所は知らない。手入れはされているようだが人気は無くどことなく寂しい感じがした。

 ここで待つように言われ木陰に座って幹に体を預ける。偶に通り抜ける風が心地よい。静かな空間につい目を閉じると昨晩の事を思い出さずにはいられなかった。
 謁見室を出た諸葛夫妻を用意した私邸に案内し、先に運ばれていた荷物を片付ける。家人を雇うまでには至らなかった為、各々が動き回っていた。
 そんな引越し初日もなんとかひと段落ついた夕飯で諸葛亮から衝撃的な言葉を頂くこととなった。
 厩舎管理と兵馬調教の任を与えられたこと、それに伴いこれから春蓉は城に住込みで働く者達の部屋で暮らすことを実に端的に伝えられた。直前まで久しぶりの三人での食事が嬉しくて笑っていたのに、大勢の前で冷たくあしらわれた時以上に心が冷えていく。
 何かと食い下がってはみたものの、諸葛亮が意見を変えることはなかった。今まで通り二人に仕え寝食を共にするつもりで整えた部屋の寝台に転がるが、まともな睡魔はついぞ襲ってこなかった。
 殆ど寝ていないのに目を閉じた所で眠気は皆無だ。寧ろあれこれ考えてしまうのでよろしくない気がする。そんな思考を止めてくれたのは趙雲の足音だった。
 ふいに差し出された椀には粥がたっぷりと入っていた。

「ありがとうございます」
「まだ熱い。気をつけて」

 渡された粥を冷ましながら少しずつ口に運ぶ。その間隣に座る趙雲と会話は一切なかった。そんな静寂を破ったのは先に食べ終わった趙雲だった。

「無理に連れ出してしまってすまなかった」
「いえ、気を使わせてしまったようで……申し訳ありません」
「昨日は様子がおかしかったが、今日は顔色まで悪いようだ。心配するなという方が難しい」

 間違いなく睡眠不足なのだから中々に酷い顔をしている自覚はある。しかしそんな事よりも自分を気に留めてくれる人がいるという事実が今の春蓉にとって全てで、何よりも嬉しかった。

「以前、趙雲殿は私に先生の弟子なのかと聞きましたよね? その時私は違うと答えました。昨日、同じように弟子ではないと先生は皆に言いました。それを聞いて何故か気持ちが沈んでしまったんです。私、心の何処かで先生が弟子と思ってくれているって期待してたみたいです」

 事実、弟子にするという話は諸葛亮から出たことは一度もなかった。春蓉とて先生と呼んで慕い教えを乞うていたが、弟子だという思い上がりはしていなかった……つもりだった。だか諸葛亮はその思い上がりに気付いていたのだろう。
 一度開いた口は中々閉じることが出来なかった。さらに思い出すまま昨日告げられたことをぽつりぽつりと話してしまう。
 感情のまま言葉にするので支離滅裂だったと思うが、趙雲は相槌を打ちながら最後まで聞いてくれた。

「傍に置いて頂けただけでも幸運なのに優しいご夫妻に甘えて勘違いしていた自分が恥ずかしいです」
「……それでそんな思いつめた顔をしていたのか」
「劉備様の元まで付いてきて本当に良かったのかとか、実は今まで迷惑だったのかなとか考え出すと止まらなくて」

 過去の自分の行動を思い返して自嘲するように呟く。あと少しだけ残っている粥が急速に冷めていくように気持ちもどんどん冷えていく。

「考えれば考えるほどに情けなくなるんですが、付いてきちゃったんだからどうしようもないですよね。先生の傍には居られないですが、新たな仕事を与えられたので頑張らないと」

 冷えた残りの粥を嚥下して顔を上げると思いの外澄んだ青空が広がっていた。今日はとても天気が良かったことに気付く。
 さっきまでの冷え込んだ気持ちは何処へやら。すっきりとした心持ちで趙雲を見ると驚いているような顔をしていた。

「落ち込んでいると思っていたが、そんな事はなかったようだ」
「いえ、落ち込んでましたよ。気持ちを言葉にしてみると分かったんです、もう前を向くしかないなーって」
「励ましの言葉は不要なようで良かった。正直、なんと言うべきか悩んでいたからな」
「連れ出して話を聞いて下さっただけで充分ですよ。ありがとうございます」

 気持ちの変わりように驚いているのは春蓉も同じだった。一人延々と考え込むことはこんなにも良くないことだったのだ。言葉にすることで気持ちと向き合え、整理することができた。
 春蓉には行くところはないのだからここで前向きに働くことしか出来ないのだ。強いてはそれが諸葛亮のためになるのだろう。

「現状、兵力は乏しいのだから騎馬隊が結成されると頼もしいな。馬に関して春蓉の右に出る者はいないだろうから適任だ」
「そう言われると責任重大ですね。早急に動き出さないと!」

 まずは戦に向いた馬の選別をしないといけない。それに諸葛亮の私邸から荷物を運び出さなければ。そう思い立つとのんびりしていられなかった。
 空になった二つの椀を手に立ち上がろうとした春蓉を止めたのは真剣な顔をした趙雲だった。

「あの時、諸葛亮殿は必要以上に春蓉との関係を否定したように聞こえた。月英殿は案じるように春蓉を見ていたし、何か考えがあっての事だったように私には思える」

 きっと趙雲はこの事を伝えるために早朝厩舎に顔を出したのだろう。

「そうですか……何かお考えがあるのだとしてもその考えを読み取れない私は先生の命に従うのみです」

 笑ってきっぱりと言い切る。そんな春蓉を見て呆れたように趙雲は表情を崩した。
 どこまでも沈み込んでしまいそうだった春蓉を救ってくれたのはこの真摯な優しさだった。