明鏡止水



 春蓉が指導する騎馬隊がようやく形になった頃、曹操の大軍が南下して来たとの一報が入った。
 諸葛亮の指揮の元、一度は新野で迎え撃ったが大軍を打ち払う事は出来ず、樊城へ移動するもその樊城からも撤退しなければいけない事態になっていた。
 子供や老人を含む民衆と共に江陵を目指していたが、その行軍はとても厳しいものだった。
 始めは行軍の中央で遅れがちな人々を馬に乗せたり、民の不安が蔓延しないよう努めて明るく振舞っていた春蓉だったが日に日に近付いてくる曹操軍の気配を感じていた。

 もうすぐで長坂橋にさしかかるというところで、とうとう恐れていた事態が発生した。地鳴りと共に起きた砂埃が辺りを覆う。追いつかれたと理解し、戦闘を覚悟するも騎兵した一団は民ばかりの集団には目もくれず走り抜けて行った。
 恐らくここよりも先を行く劉備や関羽の一団を狙い行軍を足止めするつもりだろう。そしてここまで兵が来たということは、最後尾ではすでに戦闘が開始しているはずだ。そうなると中間にあたるここでも戦闘が始まるのは時間の問題だ。最早何処にも逃げ場などない。
 周囲に現状を端的に話し、自らが練兵した一団にその場を任せると春蓉は馬上の人となり大量の弓矢と共に林の中に分け入っていった。
 身を隠せる木々がありながらも小高く、眼下を見下ろせる恰好の狙撃場所を見つけると黒麒から降りて弓の調子を確かめる。もうすぐやってくるのは生きるか死ぬかの極限世界だ。一瞬の判断で全てが決まる、そう思うと自然と肩に力が入る。
 それを諌めてくれたのは賢く美しい愛馬だった。顔を頬に寄せてくる黒麒は戦場にあって常時となんら変わりがない。

「一緒に先生の元に帰ろうね」

 首筋を何度も撫でる。そうしていると風にのって喧騒が聞こえてきた。近付いてくる音に向かって弓を構える。春蓉にはもう戦場の音しか聞こえてこなかった。


***


「張飛殿! さっき流れを逆に行く白い馬がいましたけどあれって……」
「おう! 趙雲のやつだ! 兄者の赤ん坊が行方不明だって聞いて探しに戻ったみてぇだぞ」
「この大軍の中をお一人でですか!? 無謀な!」
「そー言ったところで思い留まるような奴だと思うか? 無謀と承知で突っ込んでったよ!」

 弓を射って偶にこちらに気付き近付いてきた敵兵を林に誘って撃剣で倒す。それを繰り返しながら少しずつ後尾に下がっていると目に入った物凄い速さで駆ける見覚えのある白馬。まさかとは思ったが、そのまさかとは。
 誰かの庇護の元でしか生きられない赤子がこの混乱の渦中にいると知ったのならば。さらにそれがただの赤子ではなく主君の世継ぎであるならば臣下として取るべき行動として間違いではない。それが最適な選択かどうかだが……。
 とにかく趙雲は阿斗を助け出すという選択をした。きっと趙雲は見つけるのだろう。それならば春蓉が選択すべき道は決まっている。

「張飛殿! 私も阿斗様の救出に向かいます。先生の予定通り長坂橋に着いたら構わず実行して下さいね!」

 蛇矛を振り回しながら張飛が何か言っていたが最早耳に入ることはなかった。なるべく戦闘を避け体力を温存すべきだと判断した春蓉は少し遠回りながらも人目につかない林を駆ける。
 軍列を離れた時にはまだ高かった太陽が沈み始めようとした時、ようやく趙雲を見つけた。未だ馬上にあるが多くの敵兵に囲まれていた。
 趙雲に集まる視線を外させるべく大声で名乗りを上げ弓矢を放つ。少々距離はあるが敵を射抜けないことはない。
 予想外の救援に驚いた様子の趙雲と敵兵だったが、武人としての格の違いだろう、敵の隙を趙雲は見逃すことなく槍を一閃する。包囲が解け単身ではなくなった趙雲にとって周りを一掃するのは難しいことではなかった。

「阿斗様はご無事でしょうか!?」
「あぁ、ここにいらっしゃる。無事だ。しかし何故春蓉がここにいるのだ!」

 趙雲の胸元には布が巻かれていて大きく膨らんでいた。眉間に皺を寄せた険しい形相と戦場には似つかわしく無いその姿の落差が激しく思わず笑ってしまうと、たしなめるような低い声で再度名を呼ばれてしまった。

「趙雲殿を迎えに来ました。阿斗様を探すのにあちこち駆け回って白竜は疲弊しているだろうと思って。黒麒はまだまだ走れるので使って下さい」
「……馬を交換してどうするつもりだ? 共に駆けるのならば交換した所で意味はないだろう」
「私はここで囮となります。どれだけ兵力を削げるか分かりませんけどね。時間稼ぎにもなるはずですよ」
「馬鹿な事を!そんな事を承知すると思っているのか!?」

 既に馬から降りている春蓉に向かって趙雲は首を横に振る。戦場にあって気持ちが昂っているのだろう、平時の穏やかさは微塵もなく激しい勢いで拒否される。だがそれは想定内だ。

「今優先すべきは阿斗様。未だ敵多数の状況で劉備様の元へお連れ出来るのは趙雲殿だけです」

 荒ぶる相手にこそ冷静に正論で対応する。諸葛亮の元で春蓉が学んだ事のひとつである。駄目押しとばかりに微笑みかける。諸葛亮のような余裕の笑みは春蓉には出来そうもないので、全力の笑みを向ける形となってしまったが。
 そんな締まりのない説得だったが、馬の限界も現状の厳しさも理解していたのか不承不承ながらも馬を交換することを了承してくれた。

「白竜を頼む。必ず一緒に戻ってきてくれ」
「……分かりました。劉備殿の元でまたお会いしましょう」

 目を合わせて大きく頷くとそれぞれの進路に向かって馬首を返す。すぐに全力で駆けるひづめの音が聞こえてきた。
 顔だけを音の方向に向けて既に遠くを行く趙雲の後ろ姿を眺める。こんな自分でも少しは諸葛亮の強いては劉備の役に立ったはずだ。それだけで充分だと思えた……はずだった。
 正直な所、この場で一人で戦って帰れる自信はない。でも趙雲と約束してしまったのだ。
 一緒に戦場を駆け抜けてきた白竜を失わせる訳にはいかない。それに加え優しいあの人は戻らなかったらきっと自身を責める。春蓉が勝手に起こした行動で心を痛めるのだろう。それだけは避けたい。その想いが心の大部分を占めていく。

「ご主人様と引き離してしまってごめんね。一緒に帰れるように今は少しでも休んでおいて」

 曹操軍は大軍の遠征故に日が落ちた暗闇の中、無理な追撃はしてこないだろう。それ迄持ちこたえられれば阿斗の命は保証される。勝負は日没までだ。
 敵を強襲すべく身を隠す。春蓉のたった一人の戦いが今始まる。『白竜をご主人の元へ』その一心で弓を放ち剣をふるった。