明鏡止水




新野は目と鼻の先というところまで歩みを進めていた一行だが、この日は朝から薄暗くどんよりとした雲の多い空模様だった。朝食を取りながら今日の行程を相談したが、早く帰りたいという劉備の気持ちを尊重し早々に街を後にして馬を駆けさせていた。
昼食もそこそこに馬を走らせる一行とは裏腹に天気が持ち直す気配はなく、むしろ薄暗さが増してくるとすぐに雨がぽつりぽつりと降りだしてきた。

「とうとう降ってきやがったか。城まではもうちっとあるぜ、どうするよ」
「近くに店も宿もないようだ。今日はこのまま野宿となるな……兄者、よろしいか」
「私が先を急ぐあまり見誤ってしまったな、皆すまない。早々に野宿の準備に取り掛かろう」

劉備の真摯な言葉に答えるようにすぐに行動に移した一行は、森の中に小さな小屋を見つけたのでそこで夜を明かすことにした。
小屋には薪が備えられていたが一晩中火をおこしておくには心もとないため、趙雲と春蓉が周囲の探索がてら集めてくることになり森の中を分け入っていた。

「運よく小屋が見つかって良かったですね。こうも早く天気が崩れると思っていませんでした」
「街の者が森に入る時の休憩用に建てたそうだ。出立前に大体の場所を聞いていて良かった」
「趙雲殿ご存じだったんですね! 道理ですんなりと見つかるはずです。この川も聞いていたんですか」
「いや、川があるとは聞いていなかった。なんとなくありそうだと思って歩いていたら本当にあったので驚いた」
「勘ってことですか? なんだか意外ですね」

つい笑ってしまった春蓉は失礼なことを言ってしまったのではないかと川辺に並んでしゃがみこんでいる趙雲の顔を覗き見ようとしたが、外套の帽子を被っていたため様子はうかがえなかった。その代わりに川に布を浸したり、水を汲んだりと止まることなく動く趙雲の手が目に入った。その手は趙雲が下を向く度に落ちてくる髪を耳に掛けていた。
じっと見つめる視線を感じたのか趙雲が春蓉の方に顔を向けた。

「 雨に濡れてすぎてしまったか? 薪は私が後で拾うから先に小屋に戻ることにしよう」

旅路を共にする事で分かったことだが趙雲は随分と細やかな気配りをする男だ。春蓉が想像していた武人は豪快で我が道を突き進むような人物で張飛が最も近かった。趙雲の気遣いは主である劉備にだけかと思っていたが、そのようなわけではないようで今春蓉に向けられたように周りをよく見ているようだった。

「ちょっとぼんやりしてしまっただけです。ご心配には及びません。ただ……趙雲殿、初めてお会いした時には髪を結い上げていたような気がして……ちょっと邪魔そうだなと」

ずっと感じていた違和感を口にするとしっくりと来た。何度も髪に手をやる仕草は趙雲にしては粗雑だと春蓉は感じていた。

「諸葛亮殿の邸に泊まった夜に結っていた紐が切れてしまったのだが、代わりを持っていなくてそのままにしていた。なるべく気にしないように心掛けていたが無理だったようだな」

外套の帽子をとって苦笑いする顔は相変わらず美しく整っていたが、いつもより少し幼く見えた。

「もっと早く気付くべきでしたね。よろしければお使い下さい」

春蓉は腰にくくり付けていた袋から小さな玉の飾りが付いた結紐を取り出すと趙雲に差し出した。一向に受け取ろうとはしない趙雲に再度押し付けるように差し出す。

「飾りが付いてますけど男の人が付けてもおかしくないと思いますよ。何時ぞや酔っ払いの面倒を見てくれたお礼ですのでお気になさらず」

少し強引な春蓉の申し出に観念したのか趙雲は結紐を受け取ると手慣れた動作で髪をまとめると結い上げた。

「持ち歩いていたぐらいなのだから大切なものではないのか? 新野に戻ったら……」

続けられる趙雲の言葉が予測出来てしまい、遮るように春蓉は首を左右に振って立ち上がった。立ち上がったはいいが今度は美人な武将に上目遣いで見つめられるという構図になってしまい、なんだか心臓に悪く川に背を向けることで視線を外した。

「たまたま持っていただけですから本当に気になさらないで下さい、不要になったら好きに処分してもらってかまいませんので。それより早く焚き木持って帰らないと!」

大切かどうかと問われれば勿論大切だ。
あの結紐は故郷を追われる前に兄と街に出た際、兄が買ってくれたものだった。急に呼ばれたために髪を結う暇もなかった。普段は髪を上げているので馬に乗っている時も買い物の時も顔にかかる髪がうっとおしくてしょうがなかった。そう兄に愚痴ると近くにいた露天売りから褒美だと言って勝手に買ってくれた。春蓉の趣味は一切反映されていない結紐だった。
紺色を主体としているが銀糸が織り込まれておりきらりと光る銀色は今は外套で隠れてしまって見えないが趙雲の身につけている鎧とよく合うだろう。きっと春蓉の髪にあるより余程映える。早くその姿が見たいし、出来ることならそのまま身につけていて欲しいと思ってしまった。

「そうだな、そろそろ張飛殿が腹が減ったと騒ぐ頃だ。急いで拾って戻ることにしよう」

背を向けたままの春蓉の横をすり抜けざまに趙雲が「ありがとう」と呟いた。続けざまに肩をふいに押され軽くつんのめった春蓉が体制を戻したところで笑顔の趙雲が目に入った。
親切の押し売りをした自覚はあったのでお礼を言われ安堵した。単純だとは思うが言葉の裏を読むなんて高度なこと春蓉にできないことは諸葛亮の下にいる間に痛感している。なので素直に受け取ることにしていた。

「趙雲殿、あっちに生木でも燃える木がありましたよ。とりあえず持ち帰って張飛殿に頑張って割ってもらいましょう」

お返しとばかりに趙雲の背を押し、追い抜くと同時に手に持っている水の入った革袋を奪い取る。春蓉が汲まないといけなかったのだがいつの間にか代わりにやっていてくれたようだ。
先程見つけた場所まで先導しようと先を行こうとするが、せっかく汲んでもらった水をこぼしては意味がないので走ることはできなかった。そのため早足で進むのだがなんてことなく追いつかれてしまう。それでは先導の意味がないと歩調を早めるがそれでも並ばれてしまった。
春蓉が一方的に仕掛けた無謀で無意味な競争は小屋に戻るまで続いていた。木を担ぎ、水を持つ趙雲だったが春蓉の後ろを歩くことはなかった。会話をしながらも足元が悪い中、かなりの速度で進む二人の姿は異様な光景だろう。
小屋の外に出ている関羽を見つけた春蓉はついに走り出した。雨粒が落ちるより大きな波紋が水たまりに広がる。

「関羽殿ー! ただいま戻りました」
「声がするので出てみたのだがやはりおぬし達か。ご苦労であった。……にしても春蓉、やたらと疲れておるようだが」

声にならない声で言いよどむ春蓉のそばに趙雲が並ぶ。運んできた木をどかっと置くと春蓉を見てふっと鼻で笑った。

「鍛錬のようなものを少々。水をこぼさないようにしながら私の前を歩こうとしていたようです」

趙雲が持っていた革袋を右手に持たされると左手に持っているものに比べてずしりと重い。

「ひときわ大きい水たまりが出来ていたぞ、詰めが甘いな」

趙雲の視線の先に確かに他とは違う大きな水たまりがあった。両手の袋をまとめて取り上げられたと思ったらすぐに頭に大きな手が乗せられた。

「これだけ体格差があるのだ、歩きで先を行こうとするのは流石に無理だろう」

乗せられた手が頭を何度か叩くと趙雲はすぐに小屋の中に入っていった。春蓉の考えは全て見通されていたようで恥ずかしさと悔しさがごちゃ混ぜになっていた。誤魔化すように大げさに眉を寄せて関羽を見ると声を出して笑い始めた。

「趙雲殿があんなに人が悪いだなんて知りませんでした! 分かっていたなら言ってくれればいいのに」

趙雲が小屋に入ってすぐ出てきた張飛は何故か不思議そうな顔をしていた。

「趙雲のやつ妙に楽しそうだったけどなんかあったのか?」
「楽しいことなんか何にもないですよ! さ、張飛殿薪割りしますよ。私お手伝いします。ぱかっと割りたい気分です!」

ぐいぐいと張飛の背を押す春蓉の後ろでさらに関羽が笑うものだから余計に張飛は不思議がっていた。薪割りをしながら張飛の問いをはぐらかしていた春蓉だったが、夕食時に張飛が趙雲に先程の事を聞き始め劉備が興味を持ってしまったので観念するしかなかった。 勝手にむきになっていただけなのだが鍛錬と言われたので否定しないでおく。どちらにしろこうやって酒の肴になったのだから良しとするが、全てを知っている趙雲と関羽には単純なやつだと思われていることだろう。しかし事実なので気にしないことにして既に変わっている話題に耳を傾けた。こうして旅路の最後の夜は笑い声と共に更けていった。