明鏡止水



 趙雲と別れてどれほどの敵兵を倒したか分からないが、おおよそ百は超えただろう。大軍にあってその数は微々たるものだが敵兵の中に松明を持つものが現れはじめた事から、充分に時間は稼げたようだ。
 撤退すべく弓から再び撃剣に持ち変えた時に春蓉は敵兵に違和感を感じた。
 剣筋を受け流される事が増え、致命的な一撃をすぐに与える事が出来ない。敵兵の数は多くはないが一人一人が洗練されている。
 今まで思ったより体力を消費せずにいれたことを疑問に思うべきだった。
 敵陣に踏み込み過ぎている。誘導されていたようだ。
 そう気付いた瞬間だった。
 横手から襲い掛かる鋭利な殺気に春蓉は慌てて大きく飛び退いた。

「ほう……今のを避けられるのか。一人でここまでやってくるだけのことはあるな」

 松明の光が照らし出したのは他とは覇気の異なる隻眼の男だった。
 曹操軍において隻眼の将といえばただ一人しかいない。周りの兵士は夏侯惇直属ともなれば強いのも納得だ。

「その腕で次も避けられるか? 」

 言われて先程の一撃を躱しきれていなかったことに気付く。確かに左腕がピリピリするがそれ以上の痛みは感じない。
 傷を確認すべきなのだが、春蓉は対峙する夏侯惇から目を離す事ができなかった。一瞬でも集中を欠けば死に繋がる。
 向かい合いながらも僅かに後退する春蓉にすかさず夏侯惇が仕掛ける。
 振り下ろされる一撃がとてつもなく重い。そして巨大な得物の割りに次の一撃が早い。
 僅かに笑みを浮かべて太刀を振る男とそれを正確に受ける女の姿は、ここが戦場でなければ演習中かと思うような様相を呈していた。
 しかし、このままでは力負けすることは必死である。
 横薙ぎの一閃を撃剣で流すように受けると、その力を飛び上がった体を回転させることに利用する。さほど力のない春蓉が近接戦闘で負けない為に身につけた技だ。
 避けると同時に夏侯惇の懐に入り込もうとした春蓉だったが、流石にそう甘くはなく、すぐに大きく距離を空けられてしまった。
 が、まさに好機。くるりと背を向け春蓉は来た方向に脱兎のごとく走り出した。
 ピーと大きく指笛を鳴らす。
 敵に今だ追いつかれていないが、足の速い者が数名いるようだ。
 足を止めて弓を構え、素早く矢を放つ。全ての矢の軌道を確認する前に再び走り出した。
 短い悲鳴がいくつも聞こえたことから正確に狙いを捉えたようだ。
 三度目の指笛を吹こうとした時に待ちに待った音が聞こえてきた。正面の闇にぼんやりと浮かんだ白が徐々に明確な形をつくる。
 春蓉にとってこれは賭けだったが、この賢い馬は理解してくれた。
 走っている時に見えた空は僅かに赤く染まっていた。方角からして間違いなく長坂橋。事前の計画通り張飛が橋を燃やしたのだろう。
 既に退路は無く活路は自ら切り開くしかない。
 走ってくる白竜の背に乗ると向きを変えることなく、追ってきた敵兵に突っ込む。
 白竜は怯えることもなく減速すらせずに敵陣の中を走ってくれた。流石は趙雲の愛馬だ。何とも頼もしい。

「馬を持て! 追うぞ! 捕まえて捕虜とする!」

 跳躍した馬上から視線を落とした所で夏侯惇の声がした。
 逃げ出した相手が馬に乗って再び戻ってくるとは思っていなかったのだろう。明らかな動揺が見て取れた。
 そのまま森に向かって白竜を走らせる。闇だろうが、森だろうが春蓉には関係ない。
 そしてそれは白竜も同じのようで、恐れることなく進んでくれた。
 夜陰に乗じて木々の間を縫うように、しかもさほど速度を落とすことなく走れば流石に追って来れないようだった。

「ありがとう、白竜。あなたに私の命は救われたよ。後は帰るだけなんだけど……少し遠くまで来ちゃったかなぁ」

 納刀して馬上から夜空を見上げると沢山の星が輝いていた。柄杓のように連なる星の傍に、一際光を放つ星を見つけた。

***


 春蓉が劉備一行と合流できたのは一度昇った太陽が再び沈んだ頃だった。
 身なりを整える間もなく劉備の前に連れ出されると、趙雲と張飛に粗方の話を聞いていたらしい劉備は安堵の表情を全面に表して帰還を喜んでくれた。

「無事で本当に良かった。阿斗の為といえどもこのような無茶はもうしてくれるな」
「お言葉ですが、臣下として当然の事を行ったまでです」
「……趙雲にも言ったのだが、今ここでそなたたちを失うことも阿斗を失うことも同様に苦しい」
「劉備様……」

 劉備の心の底から出て来るような言葉に何と声を掛けるべきか悩んでしまう。
 我が子と同じように心配してくれることは素直に嬉しいのだが、それを表すことは部下として正しいのだろうか。
 そうこう考えていると天幕の外から声がした。天幕が開くと同時に趙雲が姿を見せる。
 大きな傷もないその姿に安心するも、なぜか戦場で対顔した時と同じ気迫が感じられた。
 劉備に拱手した趙雲は春蓉から目を離すこともせずに盛大に足音を鳴らして隣に並び立った。
 と、思った瞬間視界が急激に暗くなった。肩の辺りを締めつけられる感触があり、額は金属特有の冷たさを感じた。

「どれほど無事を願ったことか……」

 耳のすぐ近くで吐き出すように呟かれた言葉は、劉備と同様に重みのあるものだった。
 そう思うのだが如何せん趙雲の胸に抱き込まれている状態が恥ずかしくて堪らなく頭が混乱する。打破するにはどうすればいいものか思案している内に視界は開け解放された。
 ちらりと盗み見した劉備はあんぐりと口が開いていて、驚きを隠せないでいるようだ。
 劉備の様子から趙雲の行動は通常を逸するものだということが理解できた。それほどまでに春蓉の行動は無理を押し通したものだったと痛感する。

「ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。あぁ、白竜は傷一つなく元気ですよ。無事にお返しできて良かったです!」
「白竜は……?」

 趙雲の視線が左腕に留まる。

「夏侯惇と対峙してこれだけで済んだのは白竜のお陰です」

 切られた左腕は既に血は止まっている。血が服に染み付いて痛々しく見えるだけだ。
 そう言ってみたところで趙雲から溜め息を頂戴した。ついでに眉間に盛大に皺が寄ったのが分かった。

「殿、春蓉の手当てを先に行いたいのですがよろしいでしょうか」
「うむ。詳しい報告はゆっくり休息をとってからで構わぬ。趙雲、頼んだぞ」

 春蓉が口を挟む間もなく趙雲に手を引かれた瞬間、足が地を離れる。

「ち、趙雲殿! 切られたのは腕だけなので歩けます! これはさすがに恥ずかしい!」
「騒げば何事かと人が集まるぞ。目立ちたくないならおとなしくしておけ」

 背中側から回された腕のせいで上半身が起き上がって自然と顔と顔が近くなる。膝裏にも腕がある。
 意識せざるを得ない箇所が多すぎて抱き込まれた時以上に混乱する。横抱きとはとんだ拷問だ。
 さらに、そんな春蓉様子のなんぞお構いなしに脅しにも近い言葉を趙雲はしゃあしゃあと吐く。
 この人は本当に温厚篤実で有名な趙雲なのだろうか。
 君主を前にして傍若無人な振る舞いをする趙雲を眼前にして黙り込むしかできなかった。
 最後の望みとばかりに劉備に助けを求める視線をあからさまに送るも、劉備は愉快そうに目を細めて首を横に振るばかりだった。
 諦めろということなのだろう、春蓉は考えることを放棄して誰にも会わないことだけを願った。