明鏡止水



 一人戦場を駆けてきた肉体的疲労に加えて精神的疲労が春蓉に襲いかかる。まさか本当に横抱きのまま手当てに連れ出すとは思っていなかった。
 日が落ちてから随分経っていたので殆どの人は寝ているようだったがそれでも夜間の見回りの兵はいたし、連れて来られた趙雲の幕舎の周りにも当然趙雲配下の兵が多数いた。その誰もが趙雲の姿を目に留めると驚きを隠せないようだった。
 幕舎入口で警備にあたっていた趙雲配下の兵に至っては、何を思ったか挨拶すると同時に少し離れた位置に待機場所を変えていた。
 気にしないで下さい、通常通りでお願いしますと言いたかったが、そんな事を口にできそうにはなかったので春蓉は泣く泣く言葉を飲み込んだ。

「薬が少し滲みるかもしれない。悪いが我慢してくれ」

 兵士が持ってきた水の入った盆に布を浸し、趙雲自ら傷口を拭い軟膏を塗り込む。長椅子に下ろされた時にも感じたのだがひどく丁寧な扱いに春蓉は少々戸惑っていた。
 さも自分に責があるかのように表情を曇らせている趙雲の手は止まることなく手当てを進めていく。
 仕上げに布を巻き付け、道具を片付けるまでにさして時間はかからず全てが終わり春蓉が改めて礼を述べたところでその表情に変わりはなかった。
 手当てが終わったからと即退室できる雰囲気はなく、二人は無言で長椅子に並んで座っているだけだった。そんな息詰まる空間で先に口を開いたのは春蓉だった。

「今回は差し出がましい真似をしてしまい申し訳ありませんでした。これは私の勝手な行動故の負傷です……あの時はあれが最善と思っていましたが、今になって考えると私が出しゃばらずとも問題はなかったでしょうね」
「いや、春蓉の行動に間違いは何一つない。正直なところあの時の白竜で無事に阿斗様を殿の下にお連れできたかは分からない……だがそれは、敵の真っただ中に一人残してもいい理由にはならないだろう」
「では逆の立場ならどうでしょうか。きっと趙雲殿も囮役を買って出たと思いますよ」

 断言する春蓉に趙雲は困ったように僅かに眉を顰めたが、それに気付かぬ振りをしてさらに言葉を続ける。

「それに私は軍の新参者。少しは役に立つところを見せられて良かったのです。これは云わば名誉の負傷だと誇りたいのに趙雲殿がそんな調子だと困ってしまいます」

 肩を落とす様子は大袈裟だが、本当に困ったように春蓉は笑った。

「そう言われてしまえばこれ以上謝ることはできないな。……ただこの傷が癒えるまで心配することぐらいは許してくれ」

 深い傷ではないし、何より真剣な顔でそう言われてしまえば春蓉は首を縦に振ることしかできなかった。
 それからは互いに今までの状況を報告し合うことになった。趙雲から話し始め、次に春蓉が粗方話し終えた所でにわかに外が騒がしくなった。
 それに気付いた趙雲が幕舎の入口に手を掛けるより先に反対側より開かれ同時に人が入ってきた。


「失礼します。……あぁ、やはり此方にいたのですね春蓉!」
「月英様!それに先生も?呉との会談に向かわれていたのではないのですか?」
「呉とは手を組むことになりました。それより、貴女が無事で良かった!一人敵陣に残ったと聞いた時どれだけ心が冷えたことか……まぁ!傷を負っているではありませんか!」
「えっ?呉と!?それでは我が軍はこれからどうなるのでしょう?」

 側にいた趙雲には目もくれずに真っ直ぐに春蓉の元に駆け寄った月英は無事を確かめるように身体に触れていたが腕の包帯に目を止めるとあからさまに眉を顰めていた。

「趙雲殿が手当てをされたようですし問題はないでしょう。呉との子細はこれからです。話を詰めるにも準備が必要ですから一度戻ってきました」

 月英と春蓉のあまり噛み合っていない会話に代わりに答える諸葛亮はいつも通りの笑みを浮かべ趙雲に目礼する。
 月英の勢いに圧倒されていた趙雲は慌てて礼を返す。

「戻ってみるとどこか兵に落ち着きがないと感じたのですが、劉備殿から話を聞いて納得しました。……ここはまだ戦場。兵が浮き足立つ行動は控えて頂きたいものですね」
「兵達に何があったかは分かりませんが、ここに来て気の緩みが出たのでしょう。しかし常に気を張れとは酷なことです。また明日から気持ちを入れ替え励むよう伝えておきます」

 顔に不自然な程の笑みを貼り付け言葉を交わす趙雲と諸葛亮の姿に、その場の空気が冷え込んでいく気配を感じたのは春蓉だけだろう。
 兵達が浮き足立っている原因に心当たりがあるだけに実に心が痛い。
 そんな事を考えていた春蓉の頬を月英ががっしりと両手で掴みじっと顔を覗き込む。

「碌に休息も取れなかったようですね、酷い隈が出来ていますよ。孔明様、早く休ませてあげましょう。」
「そういうことですので失礼します。お騒がせして申し訳ありませんでした」

 返事を聞く前に春蓉の手を握り、失礼しますの一言と共に幕舎を出て行った月英に続いて諸葛亮が姿を消しても趙雲はその場に突っ立ったままだった。
 ほんの少し前まで内容はさておき穏やかに春蓉と話していたはずなのに、まさに一瞬の嵐のようだ。
 完全にあの夫婦は春蓉を手放したのだと思っていたが、月英の様子からすると離れてはみたものの心配でたまらないと言ったところだろうか。

「妹離れというか子離れ出来ない親のようだ……離れ難くなる気持ちが分かってしまうから笑えんな」

 誰に言うでもないその呟きに趙雲は自嘲する。
 そして明日からまた慌ただしくなることを覚悟して与えられた僅かな休息を享受することにした。