明鏡止水



朝というには幾らか早い時間、太陽が顔を出す前に春蓉の姿は既に厩舎にあった。
物心ついた時から日の出とともに馬の世話を行っているので早起きは苦でもないが、今日ばかりは事情が違っていた。
昨晩は出立に備えて準備に駆け回っており寝台に入ったのは夜更けのことだった。
加えて劉備一行の馬もいるものだからと、通常よりも起床を早めていた。

ーーさすがに少し眠いなぁ

刷毛をかけていない馬が趙雲と春蓉の馬である黒麒だけになったところで堪らず欠伸が出てしまう。
どうせ誰もいないだろう隠すこともせず大口を開けていると趙雲と目が合った。
いつ厩舎に来たのだろうと思いながら咄嗟に手で口を覆い隠すが欠伸は止まらない。
手を口に添えたまま挨拶をすると、趙雲は春蓉の様子など意に介することもなく返答した。

「随分とお早いですね。……えぇと……昨日は名も名乗らず失礼致しました。春蓉と申します。諸葛亮先生と共に劉備様にお仕えすることとなりましたので宜しくお願いいたします」

気まずさのあまり挨拶に続けて言いたいことを早口で言ってしまったが聞こえただろうか。
拱手し顔を下げているので趙雲の姿をとらえることができないため不安が広がる。
すると思いのほか柔らかい声で呼びかけられたので顔を上げると、趙雲の拱手する姿があった。

「同じ主に仕えるもの同士宜しく頼む」

見上げた趙雲は声色に違わず優しげな顔をしており、男性でも美人はいるんだ。など呑気に考えてしまうほど美しかった。

「春蓉は随分馬の扱いに長けているようだが……」
「北方の遊牧民の出ですので、幼い頃から馬と共に過ごしており自然と」
「そうか…北方からとは……諸葛亮殿の妹君かと思っていたから驚いた」
「妹なんてとんでもない!……私そんなに小難しい顔していますか」

出自を答えると趙雲は一瞬困惑したようだったが続く言葉に冗談めかして答えるとその後は軽口の応酬となり場の雰囲気は和らいだ。
劉備とその義兄弟の口振りから趙雲はあの三人とかなり親しくそしてそれなりの要職に付いていると思われる。
そんな人物に悪印象のままでは今後の生活に影響が出てしまっていただろう。
初対面での印象が良くなかった自覚がある春蓉はこの状況に胸をなで下ろした。
当たり障りのない会話が途切れた所で趙雲は出立の前に辺りを見てくると言い厩舎を後にした。
太陽が上がり始めた草地を白馬で駆ける姿は何とも凛々しく、下ろされた黒髪がなびく様を春蓉は見えなくなるまで眺めていた。


***


諸葛亮の元から新野へ向かう道中はなかなか長く宿屋に泊まれる事もあれば野宿することもあった。
新野まであと少しとなったが比較的大きな街があったので今夜はここで休むことになった。
聞けば来る時もこの街で宿をとったらしい。
早々に手続きを済ませると隣接する料理屋へと向かう一行を春蓉は見送ろうとしていたのだが、張飛に強引に連れてこられ同じ卓を囲むこととなった。
殿と同じ卓で食事なんてと恐縮する春蓉を横目に「あれが美味い、これも食べるといい」と劉備は食べ物を勧め、張飛は「おれの酒が飲めねぇのか」と酒を勧めてくれた。
断ることなど出来ず律儀に全て応えていたのだが、これが良くなかった。
元々あまり酒に強くない上に睡眠不足で余計に酒が回る。
ぼーっと手元を眺めていると、急に今まで握っていた盃がなくなった。
ゆっくりと顔を上げる春蓉を卓を囲んでいる男達全員が見ていた。
どうやら盃は趙雲が取り上げたらしい。彼の手のそばに春蓉の盃が置かれていた。

「春蓉、お主顔が真っ赤ではないか!」
「ちょーっと飲ませすぎちまったな、悪ぃわりぃ。明日もあるしもう休んじまえよ」
「それがいいな。趙雲、春蓉を部屋まで連れて行ってあげなさい」

言われて頬に手をやると確かに熱く、酔っていると自覚できる。

「申し訳ありません、お先に失礼させていただきます。趙雲殿、一人で戻れますのでお気になさらず」
「殿のご命令だ。それでなくともいくら近いと言っても女性の一人歩きは容認できない」

春蓉の言葉には聞く耳も持たず趙雲は立ち上がり春蓉へと視線を向ける。
その急かす様な視線に春蓉は堪らず立ち上がると、また上機嫌で酒を飲み始めた三人に礼をして料理屋を後にした。

部屋に着くなり趙雲は少し待つように言い残し、扉を開けたままどこかへ行ってしまった。
牀へと腰掛け言われるがまま待っていたが、部屋へ戻ったことで気が抜けたのかどんどん春蓉の瞼は重くなってきた。

「遅くなってすまない。湯冷ましをもらってきたが飲めそうか」

部屋に戻った趙雲が問い掛けるが返事がない。
見れば春蓉は牀で上半身を横たえ腕を枕にして眠っていた。
扉を開けたままにしたのは趙雲だがそのまま寝てしまうとは無防備な事この上ない。
水差しの乗った盆を牀の側にある台に置き、声を掛けようと膝を落とすと結っていない趙雲の長い髪が春蓉の頬を掠めた。
それが刺激となったのか春蓉の瞳がゆっくりと開かれた。

「せめて靴を脱いだらどうだ。それにそのまま寝ては風邪をひいてしまう」

どうやら言葉は届いているようで緩慢な動作ながら靴を脱ぎはじめた。
その様子を確認し立ち上がろうとした時、趙雲は頬に温もりを感じた。
何が起こったのか理解出来なかったがすぐにそれが掌だと認識する。
目の前の春蓉が手を伸ばし穏やかな顔で微笑んでいた。

「はい、師父。おやすみなさい」

そう告げられると温もりは消えた。
心臓が一瞬大きな音を立てたがすぐに平常を取り戻す。
今のは何だったのか、師父と呼んだことから寝ぼけて勘違いしたのは間違いない。
これまでの道中では見たことのない笑顔は師父というより、もっと親しい人物に向けられるもののような気がするがそれを問うほどの関係性は趙雲と春蓉の間にない。
肩を上下させ本格的に寝入った春蓉に外套をかけると趙雲は静かに部屋を出ていった。


***


「あの程度で酔っ払ってしまうとは我ながら情けない……」

早朝いつも通り目を覚ました春蓉は自己嫌悪に苛まれていた。
体調は悪くないが夢など見ない体質なのに酒のせいで夢を見た。
どんな夢なのかは全く覚えていないが、懐かしい人に会って暖かい気持ちになった気がする。
しばらく寝転がったままぼんやりしていたが、そこでようやく掛けられていた外套の存在に気が付いた。

「そりゃ暖かいはずだ」

ぽつりと呟くと台に置かれた水差しが目に入る。
起き上がって椀に注ぎ喉を潤すと余計に乾きを覚えた。
二度ほど注いでは飲むを繰り返した所でようやく頭が動き出す。
どうやら趙雲に迷惑を掛けまくったようだ。
きっと趙雲は自分が詫びても、一分の隙もない笑顔と共にこちらの心配をする言葉をくれるのだろう。
酔っ払いを送っただけで恩義を感じるなと言われそうだが性格上そうもいかない。
趙雲相手に春蓉が恩を返すなど大それた事出来そうにないのが困ったところだ。
本人が無理ならその愛馬に、と無理矢理結論付け趙雲の外套を丁寧に畳むと馬を預けた場所へ足早に向かう春蓉だった。