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来し方の戯画

 堕するところまでおちたものだと、パーシバルはひとりごちた。
 本来穏やかであるはずの空気を、飛竜の群れが知らぬ顔で掻き回し続けた。ベルンで生まれ育つ飛竜どもが、ろくな指示ももらえずにうろうろと旋回する様は、現在あの男の指揮下にあるベルン軍の権威を真に体現しているように見えた。
 城に死士を置き、まんまと逃げ出した男の顔が脳裏に浮かぶ。苦い思いが走り抜けた。
 が、そんなものは彼にとってもはや些末なことであった。パーシバルの心は初陣の日のように湧き立ち、主に身を捧げるという歓びが、苛立ちを凌駕して、体中にうずいている。
 擦り切れた肌を晒しながら、かつてと変わらぬ笑顔でパーシバルに真実を告げた少女は、護衛ももたず再び戦塵の中へ身を投じていった。
(私は自由だというのか)
 パーシバルは僅かの間頭を垂れ、すぐに面を上げた。考える必要すらなかった。急に、馬鹿馬鹿しい茶番のようであった戦場が、優れた思想に基づいて描かれた戯曲のごとく、みるみると色をなしてくるようにさえ思えたのだ。
 背を見せた少女に牙を向いた飛竜が、あっけなく、鋭い一矢に射落とされ、その鳴き声を契機とし、パーシバルはついに剣を掲げ退陣の声を上げる。
「時は来た! 大義は未だ死なず! 我らの戦場はここにはない!」
 騎兵隊を引き上げる間際、金属のかすり合う音と血の臭いの混じった土ぼこりの中に、わずかに覗いた赤い髪を、深く射抜くように見据えた。
 勝てよ、と確信にも似た祈りをその背に捧げた。


 慇懃に差し出された右手は、遣る気なくパーシバルの手を握った。神経質そうに一瞬触れるだけのこれを、親和の握手と呼んで良いものかと、若き将軍は困惑した。
 にやにやと浮ついた笑みを張り付け、探るようにこちらの目をのぞき込む男は、ナーシェンと名乗った。
 男は青の胴衣に濃紫の外套を羽織り、それを髪の色に合わせた金の留め金で留めていた。留め金はベルンの飛竜を象っており、その目は暗赤のルビーであった。環鎧はつけていなかったが、腰には剣が差さっていた。鍍金されて磨かれた柄には黄金の竜と同じく小さなルビーがはまっていた。
「エトルリアの騎士軍将パーシバル殿。お会いできて光栄です。お噂はかねがね」
 品定めをするように歩くナーシェンの足音が、硬質な音を回廊に響かせる。「騎士軍将殿をご案内するようにとの仰せです。至らぬところもございましょうが、何卒ご容赦を」
 パーシバルはその視線に不快を感じた。右隣で歩く男の不躾な眼差しの底には、エトルリアを嗤う大国ベルンの傲慢が居座る玉座が、透けるように見て取れた。嫌味の視軸の応酬は、貴族の常套方であるが、今のパーシバルは真摯にそれに対応する気力を全く失ってしまっていた。ゼフィール王の冷たく光る眼から逃れ、謁見の間から退いた今、いつになく自国の土を踏みしめたいと思っていた。供した部下が待機しているであろう、ベルン王宮に与えられた狭く質素な星の間が、ひたすらに恋しかった。
 パーシバルは歩調を緩めた。並んで歩きたくなかったのだ。それに気づいたナーシェンは、興醒めとでもいうように小さく鼻を鳴らし、調子を早めパーシバルを先導するように歩き始めた。
 すこし低い位置で揺れる男の頭を一瞥し、パーシバルは目を伏せた。灰色の石の間に伸びる光の影が、パーシバルの眼に一瞬刺さる。
 見事な造詣を花木にそえた王宮の内庭は、午後の陽光に誇らしげに照っていた。ベルンの高地では到底咲きそうにもない花が、区画された石膏の間に敷き詰められていた。あの柔らかな花びらは、この乾いた冷たい風の中では長くは笑わないだろう。
 その庭に面した回廊を歩く二人の男は、それらの輝きに見向きもせず、ゆっくりと大理の床石を鳴らして歩く。

 エトルリアとベルンがそれほど険な仲ではなかったころ、パーシバルは副騎士団長から騎士軍将へと異例の昇進を成し遂げた。騎士団長は役目を終え後任に彼の全てを託し、田舎の領地へと帰っていった。
 数多くの武勲と宮仕えの参謀にも劣らぬ軍略の才が、このとし若い青年をそこまでの地位に引き上げた。このことは、彼の同朋や生家、そして師までも喜ばせ、皆惜しみない祝福と期待をその言葉にのせて贈った。実のところでは、パーシバル自身の才能や実力ではなく、まだ少年のにおいののこる見目麗しい青年が、黒の礼服を翻し駿馬に跨って剣をかざす、一種のサーガじみた浪漫に憧れている者も少なくはなかった。
 聡明な青年は、もちろん、その祝福と憧憬の背後で息をひそめる妬み嫉みを見抜いていた。それゆえ、己を叱咤し、つねに律し、器とそれに見合う量を広げ満たすことに専念した。
 時の勢いにおし負けることなく、領地をよく治め、国を護り、王を敬愛するその姿は、ただの華奢な夢語りを有形のものとし、いつしか大軍将に次ぐ、民たち、そしてエトルリアという一つの国の道しるべとなっていった。
 対し、ナーシェンは、いわば盤上の戦がうまい男であった。
 智略にたけた頭は様々な策略を巡らせ、国境近くの反乱については、それなりに常勝を飾ってきた。
 不完全を良しとしないこの男は、時に自ら飛竜を駆って哨戒することさえあった。能のない士卒をやるよりは、デルフィの加護を受けた彼自身の目で見た方がはるかに的確であった。
 そうして彼は、二色の駒を盤に打ちつけるがごとく、綿密に練り上げた作戦を実行する。
 人心など、さして重要なものではないと、ナーシェンは信じていたが、しかし大観的には、駒としての兵士のことについては、それほど投げやりではないように見えた。
 目下の者には、つねに木で鼻をくくったような態度で接するこの男が、現在ベルン三竜将の位置にまで上り詰めることができたのは、ひとえに、弁才に長じ、その舌と頭とをもって上層の将に良策を献言してきたからであった。
 主君への忠誠心などは露ほどにもなかった。金はいらぬ、名誉もいらぬと、ただ地位だけを求める欲が、この男の行動理念だったといえる。あるいは、金も名誉も地位に付随するものと信じていたのだろうか。

「どうかなさいましたか」
 反響する声に、パーシバルは靴の先から地平線へと視線を起こした。
 少し前を歩く男の髪が、内庭から差し込む陽に柔く煌めいた。パーシバルの黒い眼はその光を難なくと受け止めたが、それは脳の奥でちらりと光り瞼の裏に眩しさを残した。
 ナーシェンは肩越しにこちらを見ていた。だがパーシバルからは彼の顔は見えなかった。長く伸びた金褐色の髪と、ハイカラーが男の表情を隠していたのだ。サー・パーシバル、と彼はいった。「お顔の色が優れませんが」
「いえ……お気遣いなく」パーシバルは答えた。声は低く掠れていた。
「それならよろしいのですが。ベルンの空は空気が薄いですから、そのせいかもしれません」
 それだけではない、とパーシバルははうんざりした。
「ときに、我が部下の待つ星の間はずいぶんと離れにあるようだ。これなら乗馬したとしても差し支えはないように思いますが?」
 パーシバルはナーシェンがわざと遠回りに歩いていることに気付いていた。
「おや、エトルリアでは城内に泥を持ち込むのですか。それは存じ上げなかった」ナーシェンは足を止めていった。ふり向くのに合わせて外套が揺れた。「いえね、手合わせ願おうかと思っていたのですよ。でも、やめにしました。あなた……あなた方には王手を差せるチャンスも、そもそもキングの存在すらも危ぶまれる」
 その言い方はいかにもこの男らしい、とパーシバルは苦々しく思った。
「つまり、その見事な剣を使う気はないということですか」
 ナーシェンはぽかんとした。「ああ……いいんですよ、こんななまくら。それに、遥々エトルリアからいらっしゃった方に会うためにおろした服を汚したくはありませんからねえ」
 嫌悪のためにパーシバルは頭がくらくらしたが、この尊大な態度の男が何を言わんとしているのかわからないほど、幼い兵士見習いのように純粋ではなかった。
 ナーシェンは単刀直入にいった。
「あなたは、この城をどうしたら落とせるのか、考えていらっしゃるでしょう。いや、その気がなくとも巡らせるはずですよ。例えばチェスのように。ベルン城は右翼左翼の効かない地形にあることはもちろんご存知でしょうが……」
「……あるいは三日月陣形を駆使すれば、物量で突破できないことはない」
 ナーシェンはうなずいた。「そうです、そのとおり。しかし、まあ、私が言いたかったのは、飛竜にはそんなことは関係ないということですがね。あなた方が包囲攻撃を開始している間に、谷に潜み、山に潜んだ竜騎兵が、後方からあなた方を攻撃しますよ」
「……対応策を聞き出したいのなら、人選を誤ったことになります。我が国の騎兵隊の機動力と、重歩兵の頑強さは類を見ません」それに、とパーシバルは続けた。リグレ家の若い弓騎士を思い出しながら。「弓兵中央隊の腕はどこよりも優秀だ」
 ナーシェンは賛成しないわけにはいかなかった。「……それもそうですね。非礼をお詫びいたします。エトルリア騎士軍将パーシバル殿」彼は指先でゆるい弾力のある髪をいじりながら、傲慢にいった。ベルン、しいては彼自身の威を誇示するには、相手が悪かった。
 さらに数十歩歩き、今度こそナーシェンは完全に止まった。
 陽の差さない廊下は、エレブ大陸全土の地図にベルン王家の紋章を組み合わせたタペストリーと、立ち並ぶ銀鎧の沈黙に見守られていた。敷き詰められた濃紺のカーペットが、不気味に足音を呑み込んだ。音を響かせるはずの高い石の天井は、その役割を果たさなかった。
 ナーシェンは右手で緩やかに廊下の突き当たりを指し示し、そのまま腰を折った。ようやく星の間についたのだった。
 パーシバルは仮初めの感謝の言葉を述べて、同じく礼をした。すぐに背を向け、首を伸ばして待っているだろう部下の元へと通路を歩き出した。
「さあ、ベルンとエトルリアの更なる繁栄と、友好を、心から願っております」
 振り返らなくても、わかった。あの男が笑っていることは。


 後ろについて走る騎士達の高揚したかけ声を聞きながら、自分はあの少年の軍に加わるだろうと思った。それも、じきに。
 ──キングは生きていたぞ。
 パーシバルは笑いだしたい気分になった。王手をかけるに、道はそれほど難くはない。転がる小石をちょいと取り除くだけだ。大切な馬車が転ばないように。