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黙祷の日

「幸せになってください」
 永久に空中に取り残される音節のつながりが、すべなく瓦解していくさまを、マリアンヌは幾たび見ていた。大聖堂の足もとにならべられた紋様をながめていると、どこに混ざってしまったのかも、さっぱりと見当がつかなかった。
 くらく、わずかに灯されたろうそくの黄色い光がまばたきするように揺れるなか、マリアンヌは組んだ指をすこしもはなすことなく、かといって祈りを捧げることもなく、ひとりでたたずんでいた。高みから大聖堂を見下ろす飾り窓からは、昼のかがやかしい色とりどりの光はうしなわれて、ただ夜だけがぽっかりとした目でマリアンヌを見つめていた。
 マリアンヌは、じつのところ自分がほんとうに女神を愛しているのか、よくわからないでいた。人びとの喧騒にまぎれて懺悔をするのは、その実、女神にマリアンヌの罪を拾い上げられてしまうのを恐れているからかもしれなかった。だから、動物たちが眠り、フォドラじゅうの誰もが──ときに女神でさえも──寝静まってしまったのではないかと思われるほどの幽寂なある夜に、かの人が一心不乱に祈りを捧げているのを見つけたとき、かれの告解に興味を持たなかったといえばうそになる。
 だれもいない大聖堂で、惜しげもなくひざを地につき、深々とこうべを垂れているすがたは、でたらめの戴冠のように思われた。あるいは、刑吏の斬首を待つもののようにも見える、とそう思いかけてマリアンヌはその考えのあまりのおぞましさにふるえ、思わず足を踏み入れた。
 かれは人の気配に気づくのがうまかった。すぐに立ち上がって振り向き、
「マリアンヌか」
 と、ほんの少し丸くなった青い目でマリアンヌを見ると、ばつのわるそうに苦笑した。
「お邪魔をしてしまい……すみません」
 マリアンヌはあやまった。思えば、かれが礼拝をしているのを目にするのは、マリアンヌにとっては初めてのことだった。マリアンヌはうつむき、今にも消えてしまいたかった。かれはきっと心から女神に祈りを捧げていたにちがいないと思ったのだった。自分とちがって。
「かまわない」と、かれは首をふった。「以前もこういうことがあった。そのとき、声をかけたのは俺だったが」
「そう、でしたね……」
 マリアンヌがだまってしまうと、かれはまた生真面目な顔にかたい笑いをうかべて、思案するように腕を組んだ。そこには、さっき目にした礼拝の、ひしとしたむき出しの静けさはなく、ただいつもの、遠目に見る背筋の伸びた青年のすがただけがあった。しばらくすると、かれは組んでいた腕をとき、
「話をしないか、マリアンヌ」と言った。
「ええ」
 マリアンヌはうなずいた。
 そこで、かれとどんな言葉を交わしたかは、くわしく覚えてはいなかった。ただ、ふたりで大聖堂の長椅子に座って、つるぎの話や、星の話をしたように思う。それはいずれもかれからこぼれ出て、そっとマリアンヌにわたされた。マリアンヌはそれをひとつひとつ受け取るたびに、その凍った綿のような脆さといとおしみに驚いた。そして、そんなに長い時間ではなかったが、かれらの会話が終わるとき、青年はぽつりとした響きで、「俺は祈りを捧げていたわけじゃない」と告白した。マリアンヌは聞き返したが、それで会話は終わってしまった。
 マリアンヌの組んだ指のなかには、そのときわたされたものが、まだ大事そうにしまわれている。
 今夜、あわよくば、かれが礼拝に訪れるとよいと思っていたが、どうやらかれは現れないようで、それがマリアンヌに後悔とも安堵ともつかぬ奇妙なこころもちをもたらし、そして、あの夜に見た祈りのさまと、かれの告白がぴったりと当てはまるのを感じた。
 あれは告解というには重く、苦しく、懺悔というには奇妙なはなばなしさがあった。
(ああ。あれは、誓いかしら)
 とマリアンヌは思い至った。
 マリアンヌは目を閉じ、息を長く吸い、おもてを上げた。眼下にひろがる、大地を几帳面に区切ったような敷き瓦に描かれた蔦や葉が、マリアンヌの細い足をささえた。
 そうして何事もなかったかのように振舞った。