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海に帰るとき

 白くぬれそぼる窓の、彼岸にひしめく針葉樹の葉に、ねむる子鹿のようなしとった雪がそっと折りかさなって、ももいろのともしびも知らず嘆いていた。ずっと昔、フェルディアよりも北のスレンからやってきたかれらの友のかたみの苗木だという、その樹木の葉がなぐさめるのは、野をつむ侍女のこごえた手や、鍬にちぢれた農夫の血だけではなく、銀雪の慈悲は、地面からいくらも高いところにある二重窓から、死地をとおして空を見上げるものに対しても、また同様にあたえられた。するどい樹冠がつくる暗くきびしい影がのぞむ冬は、短い夏の背をちぎってはい出たあとに、ようよう翅を伸ばすように、おだやかで美しいのだった。
 ディミトリはまもなく寝台の中で目を覚まし、しばらく情景を思い巡らした。かれの中には朝と夜とが巡っていた。窓にはりついた雪の結晶の間に、もやのように拡散された朝日がすり抜けて、ようやくかれの命が明日の朝をむかえることができたのだとわかった。厚い二重窓はそとの冷たく吹きすさぶ風をものともしなかったが、けれども、そのへやの空洞に置き去りにされたかれにとっては、あかあかとした火をたちのぼらせる煤の暖炉であっても、しずかに時を止めた氷のように思われた。
 やがて、肺から夜ふけてすさまじき息が細く立ちのぼってくると、ひどい咳がかれをおそった。それがおさまると、かれの目のうちのひとつは、役に立つのをとうにやめていたが、もうひとつの青い氷河のような瞳が、窓の外でたよりげない葉に降り積もりつづける雪のかたまりをじっとながめた。
 ディミトリは寝台の向かいに煌煌と燃える暖炉の熱が弱くなったのを感じたが、薪をくべるために扉の外に立つ年老いた番人を呼ぼうとはしなかった。血の気が引き、からだじゅうが冷たくなる感覚というのは、ふしぎにディミトリの心を安らかにするのだった。それで、ディミトリは薪にしがみついて溺れていく炎をそのままにして、だれもいないような静かさが刺す白いシーツに身を委ねつづけて細い息をはいた。へやがいっそうくらくなったように感じられた。
 時間がたっていき、寝室の扉がひらいたとき、空はすっかり低い太陽の朝に覆われて、かがやいていた。
「陛下。……ディミトリ」
 と、低い鈴の音が、寝室の扉が立てる懐古的な軋みとともにディミトリにささやいた。
「マリアンヌ」とディミトリは答えた。
「お体はいかがですか」
「変わらないよ。……今節も、フェルディアの冬はよく冷える。お前にとってこの冬が耐えがたいものでなければいいと、何度も祈ったものだ」
 ディミトリは枕のなかで振り向いて、かれの妻を見つけた。窓の外の景色がすぐに流れ去って、髪をゆるやかに束ねた白い顔があらわれると、かれはかすかに頬を綻ばせて言った。
 マリアンヌは湯の入った桶を持ち、かたわらの椅子に座りこんで、ディミトリの手をとった。侍従の手も借りず長い廻廊をこえて、彼女がここに来るまでに冷え切ることのない温度で温められた水にひたされたやわらかな布が、わずかな寒さにこわばったディミトリのからだをだんだんとほぐした。
「耐えられます。あなたとなら、なんでも。それに、すぐに晩冬がきます。そうしたら、また春の花を見せてくださいね。それだけで私は満足なんですから」
「そうか」
 とディミトリはくすくす笑った。春まで命がながらえることを、かれはまた祈った。
 マリアンヌはへやが暗いのに気がつくと、立ち上がり、なにもいわずにやさしい手つきでそっと薪を火にくべた。息を吹き返した炎がまた夜明けのように燃え上がって、野にたたずんでいるような夫婦を照らした。
「我が子らは」
 とディミトリはたずねた。
「今日もギュスタヴさんのもとに。よくなついています」
「なつくのでなく、師としてのギュスタヴを与えたつもりだったのだが」
「たいていの大人は、孫には甘いものですから。それに、もうすぐドゥドゥーさんがクレイマンから戻ります。いっときのやさしい稽古も、子供たちにはうれしいものでしょう」
 やさしい稽古か、とディミトリは笑った。けれどもすぐにかれの病魔がやってきて、かれの肺をひどく乾かせてしまうと、喉を裂いてあらわれるような咳にマリアンヌは心をいためた。
「薬は効きませんか」
 とマリアンヌはたずねた。フォドラの外から取り寄せた薬草で煎じた水薬が、かろうじてかれの病を押しとどめているのだと知っていても、そうきかずにはいられなかった。血の染みついた戦場でさえ、幾多もの矢を受けてもなお兵を生かしたかれの最後の鬨の声を、マリアンヌはまだ鮮明に覚えていたからこそ。
「効いているのだろう」
 ディミトリも、やはりそう答えるほかになかった。マリアンヌはディミトリの低い体温にあたためられたかたい手をしっかりと握りしめた。

 ふたりがそうしていると、やがて、大司教猊下がお見えです、という番人の声がかれらのじゃまをしないようにとでも言いたげに、扉の外から控えめにとどいた。それに答えるように、暖炉の中で黒くかがやく薪が炎に巻かれて高い音を立てた。
「開けなさい」
 マリアンヌはとっさに言った。ディミトリはとまどい、マリアンヌを見上げた。
「かれが来たのか。なぜ? 今日は訪問の予定などきいていないのに」
 ディミトリの声は、だれが聞いてもわかるほど、喜色に満ちた子供のようであった。
「公務ではないですから。お見舞いです、先生の」
「本当か」
「もちろん」
 それをきいて、なげきのかたちに衰えていたディミトリの頬に、心から安堵したようないろがひろがった。ディミトリは妻の手を借りてからだを起こすと、両手をひろげて、開け放たれた扉をくぐりやってきた人を迎え入れる仕草をした。
「大司教……いや、先生」
 マリアンヌはさっとへやに入ってきたその人を見た。西の風のような色の髪にカナリヤをつむいだ冠をのせた姿は、マリアンヌがその背中を見つめていた幼い頃から、ずっと変わらないでいた。へや全体をほのやかに包む陽の光によって細かい織りの白い僧衣がしなやかに光り、装飾といえば、冠と、指の節でかすかにきらめいている銀の指輪だけであるのに、そのものがかがやいて見えた。かれは寝台のディミトリをひとめ見ると、ゆっくりと歩み寄り、冠をぬいで、床にふせった王のためにひざまずいた。それは、王に傅く若者というよりも、むしろ、病の幼子を看取る母のするようでもあった。
 若者は、ひさしぶり、とまるで数節会わずにいた友人に酒場で会ったときのような調子で言った。それから、かれはこっそりとしたいたずらが成功した子供のように笑い、ディミトリに両手を差し出した。そして、病によって細かに震えているディミトリの手がそれを取るのを辛抱強く待った。
「ああ、先生。先生……」
 差し出した手にすがりつく、力強い手は、けれども、若者の知っているものよりもずいぶんと弱かった。大司教は、以前に訪れたときにはまだ玉座に座っていた王の姿を思い出していた。ディミトリのからだにはつらかったろうが、かれの矜持だった。いまはそれもかなわぬ。
 若者は傷跡の多く残るおおきな手を包むようになでた。それを見て、マリアンヌはディミトリのそばから離れるために立ち上がったが、若者はマリアンヌをとどめて、しばらく三人で抱き合った。
 若者を師とよばうのは、かれらにとっては奇妙なことではなかった。マリアンヌはその手に剣がにぎられていなくとも、かれの守った命たちを覚えていたし、それが大陸中で芽吹いているのを知っていた。ディミトリは凍えるからだばかりと寄り添っていたが、若者の、子をなでるような手の熱い体温をなによりも愛していた。
「冠をかむってきたことを許せよ」と若者は笑って言い、白色と金の僧衣をよく見えるようにひらひらと振った。「俺のからだは身軽なのに、この着物と冠はひどく重いんだ」
「その重さは俺もよく知っている。そろそろ慣れたか、先生」
「いいや、少しも。今日だって騎士団がぞろぞろとついてきている。生徒の見舞いだっていうのに、きかないから」
「先生が、だれより強いのに……」
 とマリアンヌは、ふたりの後ろで、少女の頃のようにそっと言った。それを聞いて、ディミトリはとりわけ大きい笑い声をたてた。その時間の、なにもかもを忘れるほどの安寧、雨去る海のようなうっとりとした静穏といったらなかった。マリアンヌは長らくまみえずにいた師の髪や頬をいつくしんで触れたり撫でたりしている夫が、どれほどおそるおそるとした手つきを心がけているか、そのつめたく白い横顔を目にするたび胸がしめつけられる思いがした。かれの深い愛ばかりがあった。マリアンヌはすでに世を去ったディミトリの幼い於母影を知らずにいたが、こうしてかれの手がつるぎを手放して、ただ一心に、かなしいばかりの償いのように若者のかたちを確かめているあいだ、死者はかれのまわりに生まれ落ちる前のように、かれにささやかず、引き止めもせず、しんとした深雪になってかれに降りつもるだけになっているのだと思われてならなかった。
「そういえば、先生」と、ディミトリは若者に触れていた手を落とし、ふいの思いつきのように言った。「天帝の剣は、結局のところ、教団で保存するのか」
 マリアンヌは、そのことについて、一年ほど前に話し合ったことを思い出した。公務のていが抜けずに、世間話のようにディミトリがそう切り出したことについて、その場にいるだれも疑問を抱かなかった。ディミトリは英雄の遺産というものを、その継承者たちが、宝物庫や、あるいはただの武器庫にそっと眠らせ始めていることを師に伝えた。
「そのことだが」
 若者はすこしうつむいて、やがてかれにはめずらしく意を決したように言った。「ザナドへ。持っていこうと思っている」
「ザナド? あの赤き谷へか」
「うん。そしてそれは永久に眠らせるよ。やすらかに。もともと、だれが使えるものでもないし」
「そうか」
「あの谷にもだんだんと人が住みつきはじめたろう。そのうち背の低い草から青々とした葦、それから……樹木がきっと生えるだろう。地下の聖墓よりはずっとあたたかい。……それを見届けるつもりだ。つるぎと一緒に」
 そう話し合ったんだ、と若者は小さく呟いて言葉を結んだ。その表情には、どこかしら奇妙な確信めいたものがあって、マリアンヌは、かれらの先生が、時おりそうした冷徹とも無感情ともつかぬ、あるいはひどく情け深い目をすることを思い出した。
「お前がそう言うのであれば、俺は口をはさまない。諸侯への説明は少々気が重いがな」
 ディミトリがそう答えると、大司教のかたちを装った若者は、ひどくやわい笑い顔でうなずいた。

 ふたたび扉がひらいて、王の医師がやってくると、かれらは数刻話したあと、ディミトリのからだを慮って広い廻廊に抜けた。
 マリアンヌはほっとため息をついた。ときおり侍女が行き来するだけの静寂な長い廊下に、ため息だけが取り残されて響いた。等間隔に整列する窓ガラスの小さいおうとつの層から、まるい陽の束がいくつも差し込んで、マリアンヌの頬をぼんやりとしたふしぎな陰影にわけた。
 若者の薄色の目がそれをじっと見下ろしているのに気がついて顔を上げた。その瞳には、ちぢこまって、けれども深い森で獣に対峙したときのように背の伸びたマリアンヌが映っていた。
「先生に……私、嫉妬してしまって……」
 と、マリアンヌは、師の目をまっすぐに見て、それから、幼い羞らいと女神への告白がないまぜになったような調子で、小さく言った。
「なぜ」
「あの人が……ディミトリが、あんなに穏やかな顔をするのは、あなたにだけなんです、先生」とマリアンヌは両手を組んで切なげに言った。その声は、子供のころの細く怯えていたマリアンヌの声にそっくりで、若者は思わず苦笑した。
「それは君たちが、私の──俺の生徒だから。マリアンヌ。今の君だって、ディミトリと同じ顔をしている。俺はそのことが、とても嬉しいんだ」かれはマリアンヌのかたく結ばれてふるえている手を解きながら言った。「それに、ディミトリが君に向ける顔は、ただしく、愛するものに向ける顔だ」
 マリアンヌは顔をあげて、つつまれる両手をゆだねたまま微笑んだ。澄んだまぶたのふちには小さな青い水滴がつぶれて、波紋のようになって、鳶色の瞳をじんわりと濡らした。
「まあ、ふふ。そうでしたか」
「ああ、あの泣き虫の王様がこんな表情をするのだと、それは俺にはけしてできないことなんだ。ねえ、マリアンヌ。君だけが、彼の苦しみを和らげるんだ」
 それを聞いて、マリアンヌはうつむいた。廊下に連なる王城の窓から雪のような光が差し込んで、石灰の淡い金色をした床を春の早朝にあるおだやかな湊江のように照らしていた。
 窓の外で揺れる木々のさざ波がかれらの足元に打ち寄せ、引き、もう一度ゆっくりと押し寄せたとき、マリアンヌはぽつりと言った。
「わたしたち、残されるものの痛みを知っています。だから、あの人の苦しみがわかる。私を置いていくまいと嘆くあの人の深い悲しみがわかるのです」
 若者はだまってきいていた。
「ねえ、先生。私これでも弁舌家なんて呼ばれるようになったんですよ。なのに、……ああ、もう言葉は出てこないんです。かれは女神に誓ってくれました、私を……」
 マリアンヌが言いかけたちょうどそのとき、寝室の扉が開いて医師が出てきた。背すじの伸びた老齢の医師は、大司教と王妃がまるで市政の青年らが“街の医者先生”を待つように、神妙に廊下に立っているのを見ると、近衛の騎士のような敬礼を深々と見せて、侍従について廊下を去っていった。
 ふたりは遠くなる医師の背をしばらく見ていた。マリアンヌは話の続きをするか迷って、若者の横顔を見上げた。それで、マリアンヌは、かれがけして医師を見送っていたのではないことがわかった。ごくある精悍な青年の顔立ちが、廻廊を抜け、フェルディアの城壁のかなたも越えて、ずうっと遠くの、ときにフォドラの大陸からひろがる海ですらない、彼女の知らない場所を見やっているようだった。それは、朝の陽に感じ入ってぼうっとしている様子にも見えず、だれも立ち入ることのできない神殿の一隅で、ながく老いた思案をしている老人というのは、きっとこのような横顔を見せるのではないか。
「先生?」
 と、ついにマリアンヌは不安にかられて言った。かれは振り向かなかった。マリアンヌがもう一度声をかけたとき、やっと、そこにマリアンヌがいるのを初めて知ったというように、青年がマリアンヌを見下ろした。
「ああ……すまない」
「どうか、しましたか」とマリアンヌはひとつずつ言葉を区切って念を押すようにきいた。
 若者の薄緑色の目がいやに透きとおっていた。なにかとてつもない決断をし、それから、途方もない努力によって、たった今それをあきらめたばかりのような色だった。
 マリアンヌはすっかり気圧されてしまった。どうして私たちの先生には、泣きたいほどに差し迫った悲しさがあるのかしら、と思った。
「いいや」と若者は首を振った。薄色の髪がかれの表情に差しかかって盾のように顔を隠した。若者はつづけて、ごく小さな声で言った。「俺の血があれを生かしたところで、きっとだれも喜ばないだろう」
 マリアンヌはその言葉の意味がわからなかったが、聞き返すことができなかった。医師は去り、それ以上話を続けることもできず、マリアンヌは沈黙した。そして、番兵にうながされてふたたび立ち入った寝室で待っていた夫の顔を見ると、すぐにその言葉は忘れてしまった。
 寝室には今度こそ三人だけが残された。暖炉はまだ赤々と燃えて、戦場の火の粉のように激しかった。たった今調合された薬の粉末がいくつかの陶器の容れ物にわけられて、寝台のそばの机に小さな頭蓋骨を並べたように置かれていた。マリアンヌは座り、顔をふせて薬の容器を定位置へと押しやった。
 寝台のしろい羽毛に包まれてひとりでいるディミトリの顔には哀切と憂愁の影が落ち、微笑には、運命を甘受するときの獲物のような、ある種のやすけさが漂っていた。かれは常に医師の直裁な言葉を求めていた。それを受け取った表情だった。北の、高くは昇らない太陽がディミトリの髪をガラスのように透いた。
「王を喪った国というものを、もう二度と見たくはないと思っていた」
 その声は深山にふる雪のようにひびきわたった。まなざしはあたたかく、深層で凍った氷のように澄んでいた。かれはやせた頬をかすかに赤らめて、そっとした幼い子供が告白するように言った。
「だが、先生。実際のところは──俺が恐れているのは、……マリアンヌを置いていくことなんだ」
 ああ、とマリアンヌは思わず胸に手を乗せた。心臓をやさしく掴み取られたような思いだった。この人の内にある、王であろうとする天秤の片側で、ひとりの人間にはあまりある、計り知れぬほどの博愛と憐憫とが、無私の光にかがやいている。
 とうとうマリアンヌの目から透明な水滴が二つまばたきとともにはじき出された。その幸福はマリアンヌの心の奥を痛むほどに押さえつけるのに、彼女の涙は止まることがなかった。マリアンヌはディミトリの手をとった。そして、かれらのかたわらに立ち尽くしている師でも、優しくマリアンヌの手の甲を撫でている夫でもなく、天上に向けて、乞い願う貧しい人のようにのどを震わせた。
「私も、約束……したかった。私はもうだれにも置いていかれないって、信じてみたかったんです……いいえ、信じていました。今も信じているの。夢見ごとだとわかっていました、でも私たちは夢を見て……みたかったの……」
「わかっているさ、ずっと前から」と、ディミトリはマリアンヌの手を握り返した。
「ディミトリさん。あなたに幸せになってくださいと、祈った少女の私は、今もそう願っています。ずっと、ずっと」
 マリアンヌは言葉をつまらせながら言った。ディミトリはそれを見て、ひどくゆっくりと笑んだ。ふたりの足元には、まだ、戦火を浴び、矢を受け、故郷に埋葬されることのなかった無数の星がいまも泥になって折り重なっていた。暖炉の中で、くもり空のような色をした灰が音を立てると、その炎と泥の景色が鮮明になってかれらのもとに帰ってくる。うしろには、馬の蹄が引き裂き、つぶれた麦の種が血に潤う大地がひろがって、兵士の葬列が何列も何列もつづいていたが、かれらは目を背けることなくそれをじっと見つめた。その道の先に立ち、春色の髪をかがやかし、ディミトリとマリアンヌを待っている、天秤をつるぎにつらぬきかがやくひとがなんであるかを、ふたりはよくわかっていたからだった。
 そのとき、ながく口を閉ざしていた若者が身じろぎをした。かれは、たがいに身を寄せあうようにして嘆いている夫婦を見下ろした。マリアンヌはうつむいていた。ディミトリは顔を上げた。ディミトリは、ロンデル窓から差す光が、少しの太陽のかたむきによってふいに屈折し、若者を照らしているのを見た。
 若草の髪に、陽光の金色が冠のようにかがやいた。ディミトリはかれの師に重い鉱石を加工した冠などいらないことを思い出した。若者がくらい闇を裂いてディミトリのもとに降り立ったときから、かれのかがやきは失われていないのだった。
 若者はディミトリとマリアンヌに交互に目をやり、それから、やおらひざまずいた。寝台に乗り上げ、深く泥にぬかずくような仕草で、かれはふたりをその腕にかたく抱き寄せた。
 ふたりを抱えるには小さすぎる若者の腕の輪に、ディミトリは、無理に押し込められる感触がして、突然、マリアンヌのように泣きたいと思った。
「先生……」
 とディミトリはつぶやいた。師と、マリアンヌの髪に頬を埋もれながら。
「俺はあのときのまま、変わらない。いつまでも」
 マリアンヌはそのあたたかな声に揺るいだ。涙がやむ気配がした。
 若者が、かれの変わらぬ容姿のことを言っているのだとわかった。ふたりの子供が生まれ、駆け回り、剣を握るようになっても、初めてかれらが出会ったときから少しも変わらない姿のことを、若者はこの時はじめてその口にのせて言った。
 女神よ、とマリアンヌは思わずささやいた。けれどもその言葉をすぐに取り消すように、顔を上げ、若者の髪に顔を寄せて「先生」と言った。
「うん」と、若者は答えた。かれはいっそうふたりをつよく抱きすくめた。
 熱い手のひらはたしかに人の温度をして、ディミトリとマリアンヌの背をあたためた。ディミトリは、冷たいフェルディアの光景を思いめぐらしていたことを忘れるほど、かれに触れられた背がチリチリと燃えていくような思いすらした。息をひそめた暖炉の静けさだけが、へや中に満ちた。
「マリアンヌは悲しまない。ディミトリ、お前はマリアンヌを悲しませない」若者は言い聞かせるように言った。かれらの耳元で、教師が聞き分けのいい子供にするように。「女神は誓いを果たすとも。安心して俺を置いていけ」
 そうして、若者は顔を上げた。かれらはまた三人に分かたれた。マリアンヌとディミトリの手はかたく繋がれたままでいた。マリアンヌのしろい頬を無邪気に濡らしていた玉の粒は止み、かわりにディミトリの左目からひとつの水滴が押し出された。それきりだった。
 マリアンヌは、そのとき、唐突に、子供の頃のことを思い出した。今は封じられてだれも立ち入ることのかなわなくなった女神の塔に、ただひとり佇んでいた若者の背を、遠巻きに眺めた追憶がかえってきた。あのとき、かれのとなりに勇んで飛びこむ者がだれもいなかった理由を、当時のマリアンヌはちゃんと心得ていたのだった。
「ありがとう」
 という言葉が、だれからともなく漏れ出た。
 来し方から続くかれの祈りが、ようやくふたりに手渡された。
 若者の指をひそやかに飾っている銀の指輪は、ついぞかれらの見慣れぬものだったが、それがきらと霜の光をうけて光ったような気がした。