砕けるガーネット
※マスター殺しアンソロに寄稿少年は夜な夜な許しを請うた。
「たくさん人が死にました。救うことができませんでした。こんなおれを誰が許してくれるでしょう」
礼拝堂は小さく、天井は低く、そのうえ暗くて狭かった。カルデアの雪に埋もれた真白の廊下の隅っこに目立たずひっそりとしてある様は、たった今少年がひざまずいて額を埋めている聖女には少し見慣れないものであったが、それでも彼女は少年の黒いふさふさとした頭をやさしく撫でつけていた。
「あなたの日頃の行い、ことば、その身に背負った貴い使命。それらすべてを主はみておられます。ゆるしておられます」
と、聖女はいった。
「ジャンヌ・ダルク」と少年はか細い声で顔も上げずにささやいた。「許してくれるんだろうか。今日も俺は許されたのだろうか。あなたの手によって」
「許すのは私ではありません。あなたの行いが、ことばが、神の許しを得るのです」
ジャンヌの透きとおる声は礼拝堂にひそやかに響いて少年の頭に降り注いだ。
祈りの形に組まれた少年の手指は、他に見る者のいたならば、きっと、今にも心臓に突き立てられようとしている短剣が震えているさまにも見えたろう。けれども、そのことに気がついているのは、この潔白な礼拝堂の中にはだれもいなかった。ジャンヌに見えているのはうつむく少年の頭であったし、少年に見えているものといえば、ジャンヌの、かすかに草のにおいを含む夜空色の布だけだった。
「そう、そうなんだね、ありがとうジャンヌ。あなたのおかげで……」
おれは明日の訪れるのをちょっとでも楽しみに眠ることができる。と少年はいったが、その実、聖女は少年の青ざめた頬にくっきりと色濃く墨のように沈んだ隈を見咎めずにはいられなかった。
聖女は心の底から少年を哀れに思っていた。かつての自分は鎧を纏ったが、うずくまる少年は今と変わらぬ生身のまま、少しばかり日に焼けた首筋をさらして戦場に立ち、白い包帯に巻かれる手指を震わせながら指揮を執っていた。しかし、死者に囲まれた唯一の生者がジャンヌの背後に見たものに何を求めているのか、ジャンヌはついぞ知ることはなかった。
「ありがとう」
と立ち上がった少年の笑い顔に浮かんだ眼の奥には、彼の盾にはけして見せてはならないというように、黒い灯と、ほんのわずか天の階から降り落ちるような淡い光が、ゆらゆらと揺れて潜んでいた。
そうしてジャンヌはいつも、礼拝堂を去る背中が外の喧噪に触れるために、しゃんとしたふうに、無理に背骨を引き抜くように、伸ばされるのを見送った。かつて少女だった聖女の、澄みわたり清い瞳の色が、何度もまたたいていた。
夜ごとに時は過ぎ、つたない祈りが深く深くなるにつれ、少年の背はより一層丸まって何かに怯えるように身をこごめ、ジャンヌのやわらかな手を掻き抱くようにしてその日の罪を訥々と語った。それはサヨナキドリのポロポロと漏れる鳴き声にも似ていた。
少年のさまよえる手は、どうしようもなく、天に満ちる円環の光に顔を背けて、彼を暗やみの中に浸そうとした。少年のひた走る人の世は編み直したはしから糸が飛び出し、ほつれて、彼の祈る声に無邪気に微笑んでみせては、その背にどっさりとたくさんの命を残していった。外の音の一切を許さない礼拝堂には、今夜も変わりなく、少年の切々とした声音が鳴り響いて、オルガンは祝福も奏でぬままに沈黙していた。
「ジャンヌ」
と、これまでにないほど背を丸めた少年は、もうジャンヌに縋り付くこともできず、重みに耐えきれぬといったように、ガラスや貝殻の埋め込まれたモザイクの床の上で深い苦悩のかたちにくずおれていた。その両手だけは、やはり見よう見まねの子どものように組まれて、少年の胸と床のあいだに押しつぶされていた。
「許してほしいんだ、ジャンヌ」と少年は掠れた声で言った。それはよく耳を澄まさなければわからないほどのか細く小さな声だった。「おれがいなくなるのを、許してほしいんだ。耐えられない。もう、重すぎるんだ。きっとおれがいなくなっても、おれよりももっと強く、気高くふさわしいおれが、人理を救うんだ。この世界がなくなったとしても、ねえジャンヌ、そうでしょう」
少年の胸のうちで、透明な短剣がいっそう震えていた。少年はおそるおそる顔を上げた。そこには、いつだって少年の頭を撫で付けて、その深い眼差しで神の愛を説き、少年のありあわせの信仰を見守ってきたジャンヌの、心を溶かす微笑みがあった。
少年はほっと息を吐きそうになった。思わず彼女の開かれた腕に手を伸ばし、
「ジャンヌ……」
「いけません」
と、朗々と響く荘厳なやさしい声音が、少年の脳を突き刺した。
少年の両手は行き場を喪って、跪いたままふらふらと彷徨っていた。頬はいつものように安堵のため息を吐くときのかたちに固まって、瞳は深海の色をなし乾いた涙の膜に聖女を映していた。
「いけません。それはあなたが決めることではないのです。あなたにはけして許されないことなのです。その権威は、ただ一人生きているあなたにはけして手に取ることのできないものです。さあ、神さまに身を委ねましょう」
そう言った聖女は、彼女にとっての戒律を、かつて生前にあったように、兵士や村人に説くときのように、ごく自然に口にしているだけだった。その清い信仰が、少年の胸の短剣を静かに、そっと、しかして確かにその心の臓の裏まで、鋭い切っ先を埋め込んだことに、気づくことはなかった。
次の日、真紅の大輪を咲かせた少年はつつましい白色になって死んでいた。
礼拝堂の扉の前の白い無機質な床の上で、聖女の旗を敷布のようにして、仰向けに横たわった少年の青い瞳を、他の人が見ることは永遠にゆるされなかった。魂の抜けたからだは、ふだん彼に仕えている者らが息をのむほどに小さく頼りなく、真白の礼装は死に装束にて、胸に突き立てられた短剣からこぼれる血が一晩を越えて黒々としても、旗の上にしとどに染み込んだ赤は鮮やかなままであった。
泣き叫ぶ少女の声が聞こえた。立ち尽くすジャンヌの脇を抜けた少女は、少年の遺骸を前にして、その盾はみるみるうちに失われ、力のない手に額をあてて狂ったような叫びを喉奥に押しとどめていた。
ジャンヌは、礼拝堂の蝋燭の灯に揺れて浮かび上がっていた少年の手の甲の紋様が薄れゆくのをじっと見ていた。
うつろになった少女と、澱のように懊悩の沈んだ瞳を固く閉じた少年とを囲んでいる光の粒子たちは、人の形が崩れるがままに、今にも消え去ろうとしていた。
彼女のせいよ。と誰かが言い、
しかたがないよ。と誰かが答えた。
彼女が彼を殺したのよ。しかたがないよ、彼はただの、そう、ただの人間だったんだよ。私たちが羨んだような、ただの人だったんだよ。呪いはどんなにか重かったでしょう。背に負ったものはどんなにか彼を苛んだだろう。彼には耐えられなかったんだよ。耐えられなかったなら、支えきれなかったならその先にやってくるのは崩壊だ、滅亡だ、私たちの中に、だれが、そんなことも知らない者がいる? あいつがやつを殺したんだ。あの赤々とした旗を見よ。だあれがマスターころしたの? あいつが殺したんだ。彼ではない彼とその盾が、どこかで偉業を為すだろう。かわいそうな駒鳥のお葬式よ。おまえを許しません。この世界はだめだった。かわいそうなロマンティック。
純白の旗を失った聖女は、誹られ、嗤われ、罵られて、最後には一人残って、それから、透明な光をぽたぽたと落としながら消えた。
***
赤い星の降り注ぐ雪山の要塞は、荒れ果て、墜落する星にむしばまれて、白い雪肌に溶けるようだったその色を錆びと鉄の焼けた色に変えていた。
生き物はとうになく、たった一人の無念を抱いて箱船は潰えてなくなった。
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