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第一フィナーレ

 はじめ、緑の大地がそこにあった。黄土の麦は痩せ、猛る赤い血のほとばしりが冷めてこびりついた大地は乾き、地のあらゆるところに折れた剣が突き立った。地にある乙女の祈りは聞き届けられず、ただ神のかたちをしたものが翼もち、男たちのあらゆる命というものを白鳥の指でひと撫ですると、それは刈り取られる秋の穂のようにぽとりと落ち、大神の館の門へと誘いて、乙女の嘆きは乾いた地に滴るばかりだった。けれども、その大地は、たしかに、川の底のような緑色をしていた。
 
 リン、リィンと湖面に鈴の落ちるような澄んだ音がする。スルーズとヒルドははたと顔を上げた。ふたりは石榴石みたいにきらめく瞳を見合わせて、ヴァルハラへの旅路の資格を持たない人間たちからはなれて、その音にじっと耳を澄ませた。それから、彼女たちは審判と誘いとを放ってしまって、たわいない殺しあいを足もとに敷いて、高く飛翔した。輪を描く翼が幾何学的な光をはなち、彼女たちはあっという間に、森と山を見通せる空に来た。
 オーディンの広い手のひらを映したような上空は青天にて、海にただよう氷塊よりも冷たい風が、地上の疾呼とかん高い鋼と鋼とが打ちあう音、あるいは男たちの血が糸のような線になって宙を走る音をさえぎっていた。眼下では、針葉樹の深い緑色が、合間に閉じこめた雪をのぞかせながら、槍の穂並みのようにそびえていた。
 雲間に、スルーズの金色の髪と神鉄のかがやきが海原のように光った。その、鈴のような音はしばらくひびいたあと、やがて、ぷっつりと、それがまったく不必要であるかのようにして消えた。ヒルドはそこいらじゅうに視線を巡らせ、スルーズは少しも動くことなく、目を閉じて耳をそばだて続けていた。
 そうしているうちに、ややあって、
「あちらかな」
 と、ヒルドが言った。
 彼女の目は針葉樹の森の北にある、人が姿を消して亡んでからずいぶんと長い時を越えた集落の死骸を臨んだ。スルーズもそのように思った。山を越えた北欧の隅にいる彼女たちの姉妹もまた、そのように思った。
「いえ、あちらではない」
 とスルーズは目を開けて言った。白いまぶたが黄昏につややかに光った。あちらではない、とまたもや思念が音を伝える弦のように震えて、あらゆる姉妹たちのあいだを走り抜けた。
「どこだろう」
 ヒルドはもっと高く飛ぼうとした。彼女は、どういうわけか、かならずそれを自分の目で見ようと思っているようだった。薄い大気がきらきらと散りしいて、ヒルドの髪のあいだを遊ぶように通り抜けた。スルーズはヒルドが見るのなら自分は聴こうと思い、人のするように手のひらを耳殻にあてて、しんとして、冱つるような空気の鳴く音をつかまえていた。
 しかし、それきり、鈴の音は聞こえなくなってしまって、スルーズは少しうつむいた。そして、手の中の槍を見えないようにしまいこんだ。それを見て、ヒルドも降りてきて同じようにした。まるで、その鈴のような音が、火に怯える小さなけものであるかのように、彼女たちは白い石膏細工のような指をさらして、その音の続きを待ち続けた。
「もう聞こえない」
 と、ヒルドが不満げにつぶやいた。彼女の細い腕がからだの横で子どものように揺られていた。
「またワルキューレが死んだ」と、スルーズは言った。「ワルキューレはいなくなってしまった」
「消えた」
「どこへ?」
「なぜ」
「ヴァルハラではない……」
 次から次へと、打ち寄せる波のような問いがワルキューレのあいだを行き来した。スルーズとヒルドは、その思念の波がずいぶんと薄く頼りなくなったことに気がついていた。
 そのうちに、星がまたたき、すすり泣くような、震えるかすかな声が聞こえた。スルーズはヒルドを手招いた。ヒルドはうなずいた。彼女たちは、そのかすかな声の持ち主がやってくる方角を、遠きに船の出るようなまなざしで見やった。オルトリンデ、とスルーズは呼んだ。ヒルドもまた、野ウサギを両手におさめる幼子のように、空に身を屈め、それを待った。
 はたして、青い空のうちに、ぽつり、洞窟にしとしとと降りつもった雪のような布をひるがえし、巣穴に隠れる小さな栗鼠のような潤みをもったまなこをのぞかせる、いとしい妹があらわれた。空に咲くひと散りの花弁のような白い月が、彼女の行く道を照らして、濡れた絹みたいな髪の毛を風に揺らした。そうして、明け方と、黄昏と、夜の乙女が揃った。
「オルトリンデ、オルトリンデ」と姉たちは言った。
「はい、スルーズ、ヒルド」
「オルトリンデには、あの冴えた、消え入るような鈴の音が聞こえたかしら」
 と、スルーズはたずねた。
 すると、オルトリンデは、まったく、人のようにして、盲目な問いをあらわにした。識別のための黒髪が、首を傾いだような錯覚に揺れた。彼女には、なにも聞こえていないようだった。それで、スルーズはワルキューレの思考の波が、海にただよう氷にぶつかったように、そこで途切れているのを知った。オルトリンデは、彼女の個体にふさわしく、その性質に依って、小さな手を胸の前に組み合わせ、幼げなまばたきを二、三と連ねた。
 風が吹いた。スルーズの金の髪も揺れて、彼女のからだをふわりとつつんだ。
「それはきっとうつくしい音なのでしょうね」とオルトリンデは指を組んだまま、姉の言葉を脳裏に描いているように言った。
「そうね」とスルーズは答えた。もう、彼女たちの耳にそれが聞こえないことは、教えなかった。そうすれば、オルトリンデはその音色を、谷の凍てついたささめきのように、うつくしいものだと信じたままでいられるだろうと、思ったからだった。残されたわずかなワルキューレたちは、みなそう思った。けれども、やはり、愛らしい末妹の前に、その思念は途切れてしまって、彼女は小さな首をかたむけたまま、冷えた指同士を絡めあわせていた。
「ごめんね、なんでもないのよ、オルトリンデ。可愛い妹」とスルーズは言った。
 オルトリンデはうなずいて、もと来た空を帰って行った。ひな鳥が始めて飛び立ってから、三日が経ったときのような、そんな翼をきらめかせていった。スルーズとヒルドはかなたに喪われた絵を思い出す人のように、それを見送った。
「オルトリンデには、聞こえないのかなあ」と、ヒルドは、スルーズの肩に頭を寄せた。
 桃色と金色の髪の毛が交じり合って、夜明けの朝靄に散るような光をひそやかに透かした。スルーズは、幼生期に、ヒルドが長姉にそうしていたのを思い出した。ヒルドが長姉にそうさせてもらうと、コロコロと、小さな生きものの転がるような思念が、あたたかな春の浅瀬の波のようにワルキューレの間に漂ったのだった。しかし、今、それはなかった。ただ、ふたつのうつくしい人がたが、互いの表皮と、紡ぎ糸みたいな髪のやわらかな感触だけを感じていた。
 スルーズは、霧雨のカーテンのように空に揺れる髪の合間に、去っていった小さな妹の後ろ姿を見つめた。
「わからない」とスルーズはごく小さな声で言った。
 大樹の根からわかたれた枝葉が、ちがう色の花をつけるだろうか。そんな樹を、スルーズは見たことがなかった。
 ―はじめて、その鈴のような音を聞いたとき、ワルキューレは、それが、きっと、とてもきれいなものなのだと信じた。大神がその手から生み出すものは、もう多くはなかったが、かつてその手によって生まれたようなうつくしいかたちのあらゆるものが、ワルキューレの思い描くさまにあらわれた。青くとうめいな河辺に落ちるトルマリンのような鈴にちがいない、いいえ、きっと小鳥のような翼で羽ばたくいきものの声にちがいない、いいえ、きっと姉さまの白波の御手のような精霊が宙に舞っているにちがいない。神のかたちを受け取った長姉ブリュンヒルデの零落と、そのからだが燃え落ちるときの叫びに怯え、ピンと張った糸を炎が伝わるように拡散した憎悪と呼ばれるもの、怨嗟と呼ばれるさま、それから憐憫と名づけられたものに似た、けれどもどこか異なる、神の炉に胸を押しつけられたら、きっとこんなに熱いのだろうと思うほどの赤い血のたぎりに、ずっと縛りつけられたようだったワルキューレは、とても昔に長姉が頭を撫でてくれたときのようなその音に、しばらく目を閉じたり、無為に空に漂ったりした。鈴の音、あるいはかそけき祝福の鐘の音のようなその音が、ワルキューレのこころに何度もひびき、葡萄の芽をつむように、それを平たくしていった。
 やがて、何日も雨が降ってようやく長姉の炎が消え、枯れる花のように頭を垂れて萎んでいくときから、鈴の音が聞こえるにつれ、彼女の姉妹たちが消えてゆくことにスルーズとヒルドは気がついた。けれども、それをどうするすべもなかった。長姉ブリュンヒルデ、大神の作り出したすばらしい姿形がいなくなってしまって、どうして、その妹たちが消えぬことがないだろうかと思わずにいられなかった。北の森と、いきものと、愛する人というものを焼いた姉のこころが、妹たちの、大神に与えられた永遠の凪寄する湖を、たしかに枯渇させたのは真実だった。
 人が結ばれるときに石の建物で鳴る鐘に似たその音、それが、さざめき立つ心臓の震え、目がしらの熱さ、核の拍動、わななく唇……それだけの情報を遺すたびに、消えていく姉妹がいた。それは、まったく意味のない不思議な知らせだった。その沙汰を知ってざわめく思念が、静けさの国にひとつの矢を射込んだみたいに、波紋になって広がって、そうしてすぐに収束した。ワルキューレはおそれなかった。ただ、スルーズとヒルドは、もっと、その情報を受け取りたいと思った。それで、その鈴の音が聞こえるたびに、彼女たちは、勇士になりそこなう人びとよりも、ずっと高く、金色の太陽をいっぱいに取りこんだ翼をひらいて、音のありかを探しはじめた。ヒルドは、あるとき、桃色の暁のおとなう日に「あたしが消えたら、きっと音を探してね」とスルーズの腕輪を指で辿った。スルーズは、斜陽の金の影の中にヒルドを探し、その倒影に「私の音をきっと聴いて」と言った。それは、神々のするような契りでも、約束でもなかったが、ふたりが、たがいに、そのことを忘れることはなかった。
 しかし、あいにく、その日が訪れることはなかった。ムスペルヘイムの焔、ユミルの子より分かたれた怒りが大地を睨め尽くし、針葉樹の深い緑、浅い玲瓏色の湖を焼いて、鈴の音は六千の熱に溶け、ワルキューレは、スルーズとヒルド、そしてオルトリンデだけが残った。スルーズの瞳には、焼けついて真白の雪のようになった地に立ちのぼる、フェンリルの嘆きが映り、ヒルドは、その怒りが長姉ブリュンヒルデの炎が焚かれた日によく似ていることにおそれ、怯えた。オルトリンデは、彼女の槍の切っ先を、いかにして灼ける大地の氷炎に突き立てるべきかを考えてでもいるように、まっすぐと、そのまなざしのように向けていた。
 そのうちに、神鉄の盾がかがやきを喪い、万物のてっぺんに、大きな月のようなじりじりとした光が彼女たちを見下ろしたとき、ワルキューレは、小さな神が彼女たちの後ろに、静かに佇んでいることを知った。
 地が洗われるように氷雪にしまいこまれて、焼けついたいきものも、葉も、建物も、神殿も、なにもかもを覆いつくした。焼けてひび割れた地のことを、けして忘れまいとするように、今は亡き書物にしたためるように、雪は何もかもを覆ってしまった。
「生きよう、生かそう、愛そう」
 生きよう、と神が言った。ひとはしら残された、神々の可憐な花嫁は、雪の結晶で編んだような花嫁衣装をしまいこんで、まず、彼女が座る玉座をつくった。それから、人間の立ち入ることのできない、冷たくうつくしい城をつくった。
 ワルキューレはその玉座にかしずいて、勇士の残影と、ヴァルハラとを彼方のものにした。神の、農耕を知らぬ、創造を知らぬやわらかな手が、ワルキューレの頬をつつむように撫でた。髪を梳き、細い首に触れて、深雪のように光のこもった肌と胸をかすかにさわった。そうして、姉妹たちのかたちと同じものが、かつて植物が朝に葉をひらいたように、少しずつ生まれ出ていった。
「これを『御使い』と呼ぶ」と神はささやいた。
「御使い……」とワルキューレはくり返して言った。ヒルドはほほえみ、オルトリンデは大きな瞳をぱちくりさせた。ヴァルトラウデ、ジークルーネ、そんなひびきを待っていたワルキューレは、新しい名を何度も、舌の上でおもしろそうに転がした。
「見よ」と神が眼下を指して言った。「あわれ、神と切りはなされることもなく、からだは焼けて、食物はなく、子を抱いて今にも死に絶える人間が、あんなにもいる」
 おだやかな声音に、ワルキューレはうなずいた。そこには、雪に凍え、巨人の名残に逃げ惑い、かまどに子どもを隠し、飢えて死ぬ人間がたくさんいた。
「生きられまい。私が愛しても、すでに、彼らの命は残るまい」
「それをどうするべきか、我々は答えを持ちません。我が神は貴女、行動の入力を待ちます」とスルーズは言った。
 すると、神は可憐な笑みを唇のはしにのせて、ふふ、と言った。それから、花車なかかとをツクツクと鳴らし、凍る城の窓のもとへ行くと、指先で霜をとりのぞくように、氷でできた窓硝子をなぞった。
「私が、彼らを看取ってやる。神に看取られる人間は、これで最後だ。スルーズ、ヒルド、そしてオルトリンデ。今から私の言いつけをよく守り、言われたとおりにしなさい」
 そうして、スルーズとヒルド、そしてオルトリンデの三騎のワルキューレは、神さまの言いつけどおり、北の果てから金の髪を持つ男のみどりごを、南の果てから金の髪を持つ女のみどりごを連れてきた。そして、西の果てからは茶の髪を持つ男のみどりごを、東の果てから茶の髪を持つ女のみどりごを連れてきた。死んだ親の腕の中から、つぶれた足で空を仰ぎ見る親の背から、その子どもたちを氷の城へ連れてきた。スルーズの腕の中で、ふたつのみどりごが眠り、ヒルドの腕の中でひとりのみどりごが泣き声を上げ、オルトリンデの胸のうちで、ひとりのみどりごが微笑んでいた。
「殺そうか、愛そうか」と、神は言った。
 そして、他の人びとはみな巨人につぶされて死んだ。おだやかな、慈愛の信仰と見紛う笑みを刻んだ仮面が、じっと、残された親たち、子どもたち、神とわかつことのできなかった人びとを、あっという間に、少女が押し花をつくるときのように押しつぶしてしまった。神がふうと、そっとした息吹をため息つくと、新しい雪がそれらを覆い隠した。かたい地層にもなることができず、人びとの凍ったからだは砕けて、雪の下で冷たいかけらになった。
 みどりごたちは凍えぬよう、やわらかな絹の布で丹念にくるまれた。みどりごたちは、女王となった神の、玉座に流れる小さなつま先に転がって、泣いたり笑ったりした。それを、ワルキューレはどうしたらいいかを知らずに、三人、つとそれを見下ろした。
「こらこら」と女王は笑った。「ヒトの子は、育てねば大きくはならん。見ているだけでは、大きくはならぬよ。大神の子たち、ワルキューレ、この子らを育てるのは、おまえたちだ」
「ヒトの子の育て方を、ワルキューレは知りません」とオルトリンデが言った。末妹は、とくに、姉のやさしげな手を受け取るばかりだったので、自分の手が小さないきものを、どうしてあつかったらよいか、わからなかったのだった。
「もう勇士はいないもの。勇士を愛するかわりに、人の子を抱けば良いの」とヒルドが答えた。彼女は熱い指の先で、かすかなうぶ毛が縁取るみどりごの丸い頬を、果実をさわるようにつついていた。
「我が神のおおせのままに」
 と、スルーズは言った。ヒルドとオルトリンデはこたえなかった。
 そうして、はじめに、神さまを語り継ぐ最初の子どもたちが生まれた。病を知らず、傷を知らず、神の白い手とワルキューレの冷たい鎧に触れて育った四つの子どもは、いよいよ、背が伸び、新たな神話を口ずさむようになったとき、丈夫な門に閉ざされた小さな土地に降ろされた。
「神さま、スルーズさま、ヒルドさま、オルトリンデさま」と子どもたちは口々に言った。「あなたたちに育てられた私たち、これからどうして生きてゆきましょう」
 あたたかな植物よりも、地を駆ける小さな動物よりも、子どもたちは、彼らの大人に追いすがり、小さなころにそうしたように、ワルキューレの凜凜とした鎧に手のひらをあてた。
 スルーズはうつむいて、彼女の思念を姉妹に送ろうとした。けれども、すぐにやめて、「おいで」と言って、囲われた土地の中にある小さな森へと子どもたちを連れて行った。ヒルドとオルトリンデもそのあとをついていった。
 緑の木々が、巨大な太陽の影を葉の形に切りとって、地面にさわさわと落としていた。栗鼠が木の実を運び、小さな鳥が、巣に卵をあたためていた。子どもたちはそれを見て、わあっと声を上げた。金の髪の子どもは、小川を飛びこえ、長い耳のついた生きものが子の毛繕いをしているのを見た。茶の髪を持つ子どもは、木立の影の穴蔵でつがいになっている動物を目にした。
 スルーズは、それらを示して、
「あのようにしなさい」
 と、子どもたちに言った。勇士を慰める彼女たちは、けれども、子の為し方を教えられなかった。ヒルドは、木陰に吹くかすかな風に揺れる子どもの髪を、手のひらでゆっくりと撫でつけた。オルトリンデは、彼女の手を握ったままの子どもの手を、ゆるやかに、振り子のように振ってみた。
「小さな子どもが、生まれたとき、御使いがまたやってくる」と、スルーズは子どもたちに言った。
「ほんとうに?」
「本当よ」
「それから、この土地にある門はけっして開いてはいけないよ」とヒルドが言った。いつか、神々を賛美する人びとが唄った音に似て、流れるように、彼女はそう言った。「御使いが、君らを迎えに来たとき、そのとき、神さまに教えられた物語のように、きっと門が開くから」
 子どもたちは顔を見合わせて、声をそろえて、「わかりました」と言った。ぱっとした、彼らが彼らの死のためにこれから育てるべき、とりどりの花々に似た笑みが咲いた。
 ワルキューレは飛び立った。彼女たちの神がいる城に帰り、弱弱しいいのちが消える日を待つために、この、深い眠りにつくような世界が、その吐息を続けるあいだは、私たち、身を寄せて、戦士のように、兵のように、姉が死に巨人が滅ぼした地を守ろうと思ったのだった。
 時代が流れ去った。幾百の時がすぎて、のぼる陽がまるでやさしいものであるかのように山々の端にたゆたい、清流に泳ぐ魚が何億の子を産み、ずっと、神をたたえる音楽は生まれぬまま、小さな箱庭の数が九十九になったとき、スルーズは城を飛び立つ、かたちだけを姉妹の姿になぞらえたワルキューレを見送っていた。城の屋根よりもずっと高いと思われる、星々に届きそうな天空にのぼり、スルーズは、九十九の庭からたちのぼる花と、凍る血のかおりを見ていた。
「スルーズ」と、空の高きスルーズを見つけたヒルドが呼んだ。
「何を見ているの」
「子どもたちの死を……見守っていたわ」
「なぜ? 旅立ちの儀は、もう二千百五十七回も見ているのに」
「いいえ」とスルーズは小声で言った。「あの音を探しているの。覚えているかしら、ヒルド」
「もちろん覚えてる」とヒルドは答えて、スルーズと同じ高さまで上がってきた。「けれど、もうきっと聞こえないよ、スルーズ。だって、ワルキューレはもうあたしたちしかいないのに。それにもう、あたしたち、鈴の音にはなれないよ」
 お姉さま、もういないんだから。ヒルドは、変わらず、すねたようにつぶやいた。
 大気の薄い上空は、女王のもとに、冷たい風が吹きすさぶことはなく、ただ死に絶えた波のように凪いでいた。ヒルドはスルーズをのぞきこんだ。桃色のやわらかな、人びとが最後に手にするハシドイの花のような色をした髪がなびいて、スルーズの視界にたわむれた。スルーズは冴え冴えとした碧空に咲くような金の睫毛を伏せて、寂寞とひびく声音で、ずっと昔に燃え尽きた姉の面影を思い出しながら言った。
「そうね、私たち、みな一緒だものね」
「そうだよ。みんな、一緒だもの……」
 スルーズは、子どもたちが雪の大地に放り出され、放浪する人のように、震える手に美しい花々をたずさえ、やがて巨人に踏みつぶされるとき、あの、ワルキューレの死のありさま、嘆きともつかぬ熱い核の波打ちが、かつて聴き探し求めた鈴のような祝福の鐘のような音が現れ出るのではないかと、思っていた。けれども、やはり、そのような音は、ワルキューレが三騎になってしまってから一度も聞こえることはなかった。
「戻りましょう」とスルーズは言った。「妹が、玉座の横で待っている。我が神の命を今か今かと待っています」
 ヒルドはうなずいて、スルーズの見やっていた眼下をちらりと一瞥した。
「旅立ちの儀は、心配することないよ。量産型たちがよくやってる」
「ええ。心配など、してはいないわ」
 スルーズの長い髪が、彼女が振り向くとともに土星の輪のような軌道を描いた。二騎はまたたく翼を広げ、落ちるように高い空を下った。
 オルトリンデ。とスルーズは、いつもどこかきょとんとした瞳をして、スルーズとヒルドのあとをついて歩く妹を思った。幼生のとき、長姉の足跡を踏んだスルーズとヒルドの小さな足跡を、さらにたどって跳ねるように歩いていたオルトリンデが、凛としたおもざしで、ときに、思い詰めたような表情で女王のそばに付きしたがっている、その姿はこの世界によくよく似つかわしく、うつくしかった。
 そういえば、可愛い末妹、夜の黒髪のオルトリンデには、あの音が、すばらしい鈴の音が聞こえなかったのだっけ……。
 氷の城の、機能性をうしなった、ただまばゆいばかりの尖塔が迫ってくる。鋭く磨がれたつららのような切っ先が、スルーズの黒い瞳の真ん中をつらぬくように光っていた。スルーズは落ち葉が身をひるがえして地にぬかずくときのように、落下をゆるやかにして、つま先で尖塔に立ち降りた。ヒルドは、スルーズをちらりと一瞥して、女王のもとへ向かうために姿を消した。
 なぜ、オルトリンデにはあの音が聞こえなかったのか、ずいぶんと長い間、その問いを呼び寄せたことはなかった。彼女の前に、透きとおる鈴の音になりゆくワルキューレの思念が途切れていくことも、彼女たちのうち、一騎たりとも疑問に思ったことはなかった。ワルキューレは疑問を持たない生きものだったからだった。長姉のように、恐ろしい目に遭いたくはなかったからだった……。
 不安をあらわす人のように、オルトリンデの武器を持たぬ白い手が、姉の言葉を脳裏に描いていた日を、スルーズははっきりと覚えていた。巨人につぶされ、死にゆく人びとの顔を全て覚えていられる日は少なかったが、オルトリンデの、その指先が、震えもせず、怯えもせず、なにか、氷雪を切り出してつくった短剣でも握っているかのように、確固たる決意を持っているかのように、姉妹を見つめていた光景を、忘れられなかった。
 スルーズは、やはり、そのかすかに生まれかけた朝露のような問いに、答えを見出すことはできなかった。今はまだ。
 
 はじめにあった緑の大地は、黄土の麦を炎に変え、赤い血のほとばしりは勇士ではなく人びとと赤子から生まれ、大地は冷たい愛に濡れ、地のあらゆるところに、炎の名残が燃え立った。地にある乙女は姿を消し、ただ、神の遺したものが翼もち、百の庭の人びとの頬を熱もつ指でひと撫ですると、それは愛を捧げ、花弁がゆくりなく散るように、どこまでも続く雪の上に取り残され、神のもとへと誘いて、あたたかないのちが冷たい愛のうちにて凍った。
 
 オルトリンデはかつてあった木の葉のように舞い散って、流れ星のような槍を持ち、いつも泣いているような、氷の背を向けるばかりのひとがいる、冰雨の城へ飛び去っていた。まだ、彼女の姉妹の、赤々とした、かつて見た勇士よりもずっとうつくしく、一房の葡萄がつぶれたように彼女たちの白い胸にしたたった血が、姉たちを塗りつぶした光景が、幾度も、何千年も繰る記憶よりも鮮明に思い出されていた。
「聞こえました、鈴の音、ああ、貴女たちにはこんな音が聞こえていたの。スルーズ、ヒルド、お姉さま――だれか――」
 彼女の混迷の嘆きが、夕陽よりも深い瞳からほとばしって、凍った玉のように、青い空中にきらきらと反射し、彼女のからだから螺旋のように地に落ちていった。
「入力を求めます、入力を……」
 オルトリンデは氷の城の尖塔に、真っ逆さまに落ち、そのするどさに長姉のあざやかな槍を思い出し、つらぬかれた姉たちの、空に溶け出る黄昏のような光を思い出し、はたと、白い花嫁衣装を思い出した。彼女たち、オルトリンデの神が、小さな玉座に、細い足をそろえて座っている追憶がやってきた。
 落ちゆく星の先端のようだったオルトリンデの槍は、さっと地面に突き立つようにして、雪と氷は沈下し、いくつもの太陽と月と、その下に凍った人びとのかけらが、こもごも舞うように地を切り裂いた。オルトリンデの頬に、目を焼くほどに熱い涙がいくつもこぼれて、久しく、ぽたぽたと雨だれのように地面に流れた。
「遺されてしまった、我が神、あなたの愛、お姉さまの愛、私、ひとときも忘れたことはありませんでした」とオルトリンデは槍に縋り、膝をついて、幼生期にもしなかったように、ただ泣いた。「でも、今わかったの。少しだけ、わかったの」
 
 オルトリンデ、勇士の魂を運ぶもの、シグルドの命をつないでなんとする。すでに心を得ている、オルトリンデ、北欧の末妹。神々に取り残された母に寄り添い、道をえらんだ彼女が、人がたでなくなったことに気づいていない、それこそ、人であると、黄昏に流るるきらめきは思った。鈴の音になったふたりは思った。オルトリンデ、私たちの可愛い妹、名の通り、彼女はするどくうつくしい剣の切っ先であった。

 
 終