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花の名前

 きまじめな足どりが、薄い氷の上を踏むように、白い廊下を歩いていた。オフェリアの、ほっそりした頼りなげな二本の脚は、誇りを抱いたつららのように、一本の細いわだちを描き、しかして、ほんの少し背を丸めて、はてのないように見える廊下の先を見つめて歩いていた。彼女の生まれついての歩みが、こつこつと硬質な音を立てると、揺れる秋色の髪の毛が、よく磨かれて塵のひとつもない廊下に、真冬の湖面のように映って揺れた。ひとつの梢のようなその姿を、オフェリアはまったく、顧みなかった。
 オフェリアの歩みは、けして盲目の人のようにはならなかった。からだの横にぴったりと沿わせた腕の曲線は、無為に振れたり、手探りをしたりすることもなかったし、鳶色の髪の毛と厚い布の下に閉ざされた眼は、銀色にきらめく無数の蜘蛛の糸のような世界を、ごく写実的に見ているに過ぎなかった。もちろん、オフェリアにはそれを見ないことだって、かんたんにできた。彼女の、宝石のような色をした眼のつよいかがやきは、なんだって、春のおとずれや落ちる葉のこする光、まばゆい偶像のかそけききらめきを、飲みこんでしまうことができた。けれども、オフェリアにはどうしても見ていたいものが、そのとき、ひとつあったので、瞳をやわらの布の下で胎児のように丸めてしまって、雨催いのあとの青色を破(わ)った、りんとした氷色の目が、うつむいたり、惑ったりするばかりだった。
 
 カルデアをはじめて訪れたとき、そこを棺桶のようだと忌避するものも多くいた。オフェリアは、それもそうだと思いながら、けれども、彼女にとって、カルデアの居心地はそんなに悪くなかった。まず、雪に埋もれた天文台というのが彼女の気に入った。それに、代わり映えのない風景は、オフェリアがカレンダーを思い出す手助けにはひとつもならなかったからだった。
「私は、そんなにきらいではないな」
 と、金の髪を、傾いだ首に揺らしながらキリシュタリアが言った。
 彼に、そんなふうに好きとかきらいとかいったものがあるのかどうか、いぶかしむのすらも詮ないことだと苦笑しながら、オフェリアは「そうね」とうなずいた。彼がカルデアのことを言っているのはすぐにわかった。けれども、オフェリアは、雪が好きなのだとは言わなかった。魔術師が、雪が好きかどうかなんて、口にするのもおろかしい、子どもじみた情けない気まぐれだとしか思われなかった。
 まず、オフェリアは与えられたへやに簡易の工房を仕立ててしまってから、手持ち無沙汰に、研究を進めていたが、彼女のこころを動かすものといったら、時おり知らされる作戦報告と、レイシフトのための訓練くらいなもので、もっとも、それを重んじるのはオフェリアにとって当然のことであったから、実に、何もないに等しかった。図書室は、一般に公開されている情報だけではオフェリアには物足りなかったし、所長のかん高い声はオフェリアの好みではなかった。それに、ドクターはなんだか頼りなかったので。
 それから、何日かが過ぎれば、オフェリアはすぐにそのへやに慣れた。即席の工房を完成させるには、あと少しの素材と保管用の試験管があればよかった。これを終えてしまえば、時計塔にいたときとは比べものにならないけれど、少しはオフェリアの居心地のよい空気を練り上げることができるだろうと思った。キリシュタリアは、もう、とうからそんな準備は終えてしまっているのだろう、彼は、誰が見ても優秀なヴォーダイムの当主だった。彼を見ると、どこか心がひしぐように狭んで、こよりをひねるように痩せていくのを感じていた。オルガマリー所長の、いばらのように尖るのを精一杯おさえたような低い声は、このヴォーダイムの当主がいるからかもしれない、とオフェリアは思った。
 朝には、へやに備えつけられた洗面所の鏡が、じっとオフェリアを見つめ返していた。ひとりになったオフェリアを、そんなふうに、奔流し、押し寄せるような思考がおそうことはたびたびあった。彼女は知らないうちに胸に宿る重いため息をやっと吐き出して、顔に水をたたき、カルデアの紋章が刺繍された備品のそっけないタオルを手探りで引き寄せて、そっと顔を覆った。彼女は右目を閉じてしばらくそうしていたが、やがてすぐに、ぱっと何かを思い出したように顔を上げて、いつものように護符の縫いこんである布で器用に右目を覆った。細い指がなめらかに編み物でもするように、さっと紐を結ってしまって、白いブラウスにボレロとジャケットを羽織れば、すぐに装いを終えることができた。
 昨晩のうちにベッドの横の机に並べて几帳面にラベリングした書類をいくつか取り出して、オフェリアはへやを出た。オフェリアの足どりがのろのろとすることは一度もなかった。風のひとつもない空調と、無味で単調にゆるやかな弧を描く廊下が、きめられた書き割りのようにオフェリアの周りを流れ過ぎた。カルデアの、ともすれば同じ景色ばかりが続く迷路のような、巨大な病棟のような風景は、けれども、やはり、オフェリアの歩みを止めることはなかった。自分の領域だけを知っていれば十分だというものもいたが、その階層を頭に入れるのは、オフェリアにとってたいした苦労でもなかったので、ひっそりと身をひそめているような壁の案内板や、不親切な矢印をたよりにする必要もなかった。ミーティングに使うためのへやへの道は、蜘蛛の巣の中心にあるようなもので、さして、惑いもしなかった。
 それに、オフェリアは、ひとりの子が、まるでカルデアを大きな家のように、迷いなく歩いているのを、忘れられなかった。なので、自分だってそういうふうに歩けたらいいと、ほんの少しばかり、思っていたのだった。
 いつものように七人のミーティングを終えて、めいめいが好きに自分の領分を過ごそうとしていた。そのまま戦闘訓練に向かおうとするものもいたが、それをキリシュタリアが引きとどめているのは知っていた。食事の時間をそろえようとしているのを、はじめて聞いたとき、オフェリアはカドック・ゼムルプスのような神経質そうな人間でも、キリシュタリアの申し出にはこたえるのだろうか、と思った。
「彼らと食事をするかい」と、ミーティングルームに残っていたオフェリアに、キリシュタリアがたずねた。
 オフェリアは少し考えて、「ええ」とうなずこうとして、ふと、一人の少女の顔が浮かんだ。それで、縦に振ろうとした首を、小さく横に振った。
「せっかくだけど、またにします。ありがとう」
 とオフェリアは言った。
 キリシュタリアはうなずいて、それ以上オフェリアを引き止めなかった。キリシュタリアはとくに目立つ人だったけれども、その、ゆっくりとしたほほえみと、落ち着きはらって殺気のないありさま、それから、魔術師らしからぬ君臨の気配だけは、オフェリアには心地よかった。
 オフェリアとキリシュタリアはミーティングルームを出て、歩きながら話した。廊下に、白色と黒色の影がぼやっと落ち、硬質な足音がそろって聞こえた。
「同じチームの仲間だ。機会は何度もある。そのときは、ぜひテーブルを囲もう」
「ええ、ぜひ。ヴォーダイムの当主と同じチームになれたこと、光栄に思います」
 そう言ったオフェリアに、キリシュタリアは少し笑った。それが、心からの笑顔だということに、オフェリアは虚を突かれた思いがした。
「たしかに、アニムスフィアは血統主義だ。けれど、私はあまりそういうことは考えていない。魔術師という皮をかぶっていてさえ、それをなくせば人間だ。人間の本質はつねに変わらず、愛されてしかるべきものなのだから」
 オフェリアは思わず、隣を歩くキリシュタリアの横顔を見上げた。絵に描いたような微笑みは変わらず彼の頬にあったが、むしろ、ずっと愛情深く、したたるような慈しみが彼のまなざしからこぼれ落ちていた。
「……キリシュタリア?」
 けれども、それは一瞬だった。オフェリアに顔を向けたキリシュタリアの目には、いつものようなりんとした光が戻っていて、オフェリアは自分の見間違いなのではないかと思い直した。だいたい、キリシュタリアの表情は、なんでも、人をひきつけるたぐいのものだったので、人が神話にあこがれるようなものだ、と、その手管にみごとに引っかかったようにさえ思えて、つい笑みをこぼしてしまうほどだった。
「何かな」
「いえ、なんでもないの。ごめんなさい」
 キリシュタリアが気を悪くしないのは当然のようにわかっていた。
 ふたつの足音は変わらず穏やかな音で鳴り続けた。たがいの長い髪の毛が、肩を上がる風を通して何度もなびいたり跳ねたりした。
「気負わずにいてほしい、オフェリア。異なるカレッジ出身の魔術師同士といっても、このような交流がゆるされている場所なのだから」
「そうね。学生の頃でさえ、こんな機会なかったもの」
「考古学科はともかくとして」
 オフェリアとキリシュタリアは同時に小さく笑った。
 そのとき、オフェリアの脳裏には、ふと、つまらないと失望していた図書館で、福音書をギリシャ語で読みふけっていたキリシュタリアの姿が思い出されていた。彼が、どの章を熱心に読んでいるのかはわからなかったけれど、まさか、彼の眼前に、そのとき、まさに、愛の手と異常なほどの深さの慈悲が差し伸べられていたのだろうか。
 オフェリアはほんの少しだけ、キリシュタリアという魔術師の奥底をのぞき見てしまったような気分になった。まなざし、勝利者の瞳をのぞき見たとて、彼から返ってくるものは、千年の途方もない迷宮に根ざした回路と、玉座に差す光輪ばかりだというのに、彼にかしずくことがあったとしても、それをオフェリアが視ることはないと信じているのに、なぜだか、そう思ったのだった。
 キリシュタリアとオフェリアのへやに続く道は分かたれていて、突き当たりから伸びる道を反対に進んだ。
「そうだ、次の食事には、ぜひキリエライトも連れて」と、キリシュタリアは振り返って思い出したように言った。長い髪が金色の渦を巻いた。
「マシュ・キリエライト?」
「ああ。彼女がAチームのメンバーに加わったのは、ミーティングで聞いただろう」
「ええ、そうね、そうだった」
 オフェリアはかすかに目を開きキリシュタリアを見た。
「明後日か、それか来週か。次のミーティングは八人になるだろうな」
「そう。……楽しみね」
「君の口からそういった言葉が聞けるのはさいわいだ」
 そう言って、キリシュタリアとオフェリアは別れた。 
 オフェリアは、彼が踵を返したのを見て、すぐに自室への道を歩いた。
 キリシュタリアが口にした名前が、胡桃が落ちるようにころころとオフェリアの心臓に転がっていった。
 マシュ・キリエライトという名をはじめて耳にしたとき、神の祝福を一身に受けたようなその名を、アーキマンという名の人間がつけたことを知って、オフェリアは思わず小さく吹き出してしまった。いい名前だと思った。それから、オフェリアは同じAの名を冠したチームに、その白い子どもが加わるのを聞いて、その名前を小さくつぶやいてみたりした。
「マシュ」
 オフェリアの声は、自室の白い壁に小さく反射して消えた。
 桃色のまぶたがゆっくりと閉じた。
 誰か、あの子に色を刷くのを忘れてしまったかのようなうす色の眼をした子が、すべての思惟を理論におもねっているくせに、その足どりをたびたびふらふらと彷徨わせているのが、オフェリアのこころをちくちくと突っついていた。オフェリアはそれを見るにつけ、ドクター、あの子に歩き方を教えなかったのかしら、と思った。それとも、マシュは何か、探しものでもしているのだろうか、と思った。水先案内をうしなったように、あてのない旅人のように、ときどき、だれも見たことがないという白いけものを追いかけたり、ドクターの歩幅から少しはなれてみたりしている、そのうっとりとした夢見る足どりが、オフェリアの日曜日にぽっとマッチを擦った。
 Aチームなんて名前をつけられてしまうよりも早く、それよりずっと前に、マシュ・キリエライトのことは知っていたのに。オフェリアは、そのマッチを今もまだ大切に持っている。小さく揺らめく炎が消えないよう、そっと手をかざし、そのマッチがつららの表面をとかして、氷が水になり、蜂蜜のようにとろり流れるのを眺めつづけている。
 ある夜、消灯時間を過ぎて、ぽつぽつとしたロウソクの灯のような小さなナイトライトが点々と連なる廊下で、マシュの、土を知らぬ細い指が、おそるおそるといったように、雪と氷の降りしきる窓に触れていた。青い月明かりに照らされてステージのようにぼうっと浮きあがる光が、真四角の窓に切りとられて、マシュの白い指先をつつみ、やわらかな色の髪は、先まで雪に溶けゆくようだった。
 カルデアに配属されてから間もないころに、オフェリアはそれを見ていた。廊下の突き当たり、曲がり角から、そっと、町の祭りの喧噪をのぞき見する子どものような面持ちで、あるいは、森の白い小鹿に恋をして見つめる狩人の若者のようにして、まっすぐな髪の毛がさらりと肩からすべり落ちるのにもかまわずに、それを見ていた。 マシュのそばに付きしたがうようにしているらしい小さないきものは、今も姿が見えなかった。そのときオフェリアの足は、はじめて、立ち止まり、足もとの氷が白くとめどない六角にひび割れてしまったように、ちりちりと、その場に踏みとどまった。ブルーガーネットの青色が何度もまたたいて、窓の外で降り落ちる雪の影が流れゆくマシュの白いすがたをずっと映していた。
 マシュ、あなたきっと、カルデアの外が似合うわ。今にも、やさしげな雪に安らかにとけてしまっても、問題はきっとないわ。
 オフェリアはたまらなくなってしまって、日付の境目に惑い、頭の中でカレンダーをいくつもいくつも数えた。そして、今日は人々のため息色濃い彗星の日なのだと思い至って、指先をそっと重ね合わせた。指先は冷えていた。オフェリアは、マシュの指先がどんな温度か知りたくなって、自分の指先同士を何度もこすった。雪のように冷たければいいと思ったし、生まれた子どものように熱ければいいと思った。オフェリアは、まだ、生まれたばかりの人間に触れたことはなかったけれども、そのあたたかさを夜更けの氷雪に夢想した。
 マシュがこちらを向かないかしら、とオフェリアは願った。それと同時に、けしてこちらに気づかないでほしいとも思った。オフェリアは自分がそんなことを考えていることに気がつかなかった。鈴の音をまとう王妃のような姿が、ひとつの白ウサギの背をなでた。やがて十二時を告げる鐘が鳴るだろう、そうしたら、あの子はおもてを上げて、はっとして、夢うつつに浸していたとうめいな足を、いともたやすく引き上げてしまって、ツンとした消毒液のにおいのする森の家へ帰るのだ。オフェリアはふるえる手をしまいこんで、無機質な時計の鳴る音がひびく前に、裾をつまんで舞台の袖に消えるように、その場をひっそりとあとにした。けれども、そのあいだもずっと、オフェリアの脳裏は白く塗りつぶした絵に、いつまでも光の子どもを描き続けて、ガラスのような窓枠の額縁に、それをしまいこんでいた。
 あの、窓に翳された指にかさなったのは、オフェリア自身のふるえる指先だった。オフェリアは、あの子どもの歩いたあとをなぞるように、ゆっくりと、つつしみ深く、エリゼの園を歩く淑女のようなつま先で、やわらかい新雪を踏みしめたときの音を立てた。
 あの子と話ができたら、とオフェリアは思った。彼女の目に映っていたいくつもの可能性の銀糸はかがやくことをやめて、どこにもうつろうこともなく、遷延は糸みたいにほどけて見えた。視るのも視ないのも、そのときのオフェリアは、したくはなかった。彼女の手の温度を知るために、きっとその眼は必要がないことだと思い、たったひとつの願いを知るために、今や、ひとつひとつの沸き立つこころが、わずかに、オフェリアがつかむことができる唯一のものになった。
 オフェリアはまぶたを開いた。へやは変わらず、眼を差すような明るすぎる白いライトが煌煌と照って、それがとくに乾いて見えたので、オフェリアはほっとするような気持ちになって、小さく息をついた。
 ――明後日か、それか来週か。
 キリシュタリアの些細な言葉を、オフェリアはまるでたいせつな言いつけかのように何度も反芻した。
 明後日か、来週に行われるミーティングに、どうやらマシュ・キリエライトが参加するらしい。彼女はどんな声で、どんなふうに自己紹介をするのか、眼鏡の奥でうすらいの色をする瞳がどんなふうに七人を見回すのが、あたらしい小鳥をむかえる少女のように待ち遠しかった。
 
 地上に出ている窓には変わらず雪がまばらにはりついて、どこまでも進む山海は水平線の深いところのようにかがやいていた。青い顔をした魔術師たちが、あいかわらず、廊下や施設をさすらっていて、スタッフは気ぜわしそうに足音を鳴らしていた。
 もう、一日が終わろうとしていた。オフェリアは課題をすっかり終えてしまって、これから戦闘訓練に向かおうとしていた。訓練がきまった時間に行われることは少なく、その日のはじめに、予定が示されることが多かった。この時間は、戦闘訓練を終えたものがとくに多かった。それで、あちらこちらに、ぽつぽつと談笑するものが、多少はあった。
 オフェリアはそれを尻目に見ながら、シミュレーターに入った。けれども、すぐに、間を置かず、向かいのシミュレーターからマシュが出てきて、オフェリアの来た道を歩いていった。オフェリアはシミュレーターを起動することも忘れて、思わずその姿を目で追った。
 マシュに割り当てられた時間は、もうとっくに過ぎて終わっているはずだった。なので、オフェリアは彼女が訓練の居残りをしていたのだとわかった。戦闘訓練なんていうもので、マシュの細いよろめく足と、ガラスと水とにひたしたようなとうめいな手指が、かたく引きしまってほんものの氷柱のようになってしまいはしないかと思った。
 気ぜわしそうに、いつものように、落ち着きなくやってきたドクターがマシュの手を引いて歩いていった。彼はマシュの歩幅を気づかわしげに、顔をのぞきこんだり、からだを屈めてみせたりしているけれど、オフェリアだったら、そんなことはしないのにと思った。ただ、彼女の横にならんで、慕わしい姉妹のように手を触れあわせて、指を握り、少し前後に揺らしてみたり、ふたりのからだの間で押しつぶしてみたりするのに、と願った。女性の友だちって、きっとそんなことをするのだと、オフェリアは信じていた。
 日曜日のおとずれるより前、気ぜわしい休日の前の金星の日に、時計塔の学術棟を出て、城下町のような浮き足立つ街に、そういう少女たちがいるのを、目にしたことがあった。あの女生徒たちが友だちというものたちだったなら、きっと友だちは、そういうことをするのだと、その光景は黄昏にやけて金色の光が差したひとつの絵みたいに、オフェリアの心に強く残っていた。
 オフェリアはうつむいて、決まり切った文字列を指で運び、シミュレーターを起動させた。静かな、空調がわずかにうなるときのような音を立てて、オフェリアの目の前に雪原が広がった。やがて、獰猛な、あるいはあわれっぽい、さまざまな声がひびいた。しかし、それらがオフェリアの耳に届くことはなかった。善良な、彼女のこころは優秀で、そつがなく、シミュレーターに与えられたかりそめの紋章のかがやきは、透きとおってうつくしかった。オフェリアは、簡単で、ともすれば退屈な訓練に真摯にのぞんだ。そして、彼女にかしずくべき英雄がどんなものなのか空想した。友愛を築ければいいと思った。オフェリアは、こころからそう思っていたのだった。
 風のゆらぐ音がして、敵性生物を模したデータがオフェリアの真横を走り抜けるよりも前に、使い魔の残影がそれを切り裂いた。十字のかたちに裂かれたデータがピシャリと赤色を迸らせた。オフェリアはそのありさまを振り返ることはなかった。けれども、そのとき、ふと、図書室に行こう――と、そう思い立った。
 キリシュタリアの福音書が過ぎったわけではない。彼女はそんなに信心深いわけではなかった。けれど、なら、キリシュタリアは魔術師にして、神を愛しているのかしら、とだけ思った。神に愛されたような血統のひと、さぞ抜きんでて、彼のために沸き立った時代すら現れそうな人が、神を思っているのならば、自分もちょっとだけのぞいてみようかと、少しだけ、そう気になっただけだった。
 訓練を終えてシミュレーターから出ると、オフェリアはすぐにその場をあとにした。まっすぐな廊下を歩いて、角を曲がり、人々の喧噪を横目で見ることもせず、夜の図書室へと向かった。いつも、まったく孤立してしまっているように静かに切りとられている図書室の扉は、今もなお、やはり身を潜めたままでいた。扉を開けると、終業間際の司書スタッフがオフェリアをひと目見ることもなく、あつらえのカウンターの向こうで会釈した。
 慎ましやかな灯りが雪に反射する月明かりみたいに、ぼう、と照る中、てっぺんの見えない本棚が、枯れた冬の森のようにそびえているその場所で、カルデアにいる他のマスター候補とすれ違うことはなかった。彼らの求めるものは、データベースで探ったほうが早かったので、露店で果物でも物色するようにかび臭い本を手に取るものはまれだったからだった。
 その中で、オフェリアは、赤い皮の表紙を探して歩き回った。キリシュタリアが腕に支えてそのまなざしを傾けていた本は、たしかそんな色をしていたように覚えていた。暗い赤色のベルベットのような表紙は、暖炉の前の絨毯のように暖かく見えて、彼の金色の髪に控えめに反射して、ゆるやかな夕暮れのような色に、しっとりとかがやいていた。別段、その本を読んでみようと思っていたわけではなかったけれども、そうでもしないと、あてどがなかった。思い立ったとき、たしかに、英雄の像にキリシュタリアが過ぎったのは本当だった。オフェリアはほんの少しだけ、深いため息をついて、今までに何度もしてきたように、自分をあざける微笑みをつくった。
「閉館です」と無機質なアナウンスがひびいた。
 結局のところ、その本はいつまでも見つかる気配がなかった。まるで、玉座に座る彼のためだけに、御手が編んだ本だったようにすら思われた。それで、オフェリアは、はじめから、そんなにたいしたことじゃなかったの、というふうに、暗い森から去って歩き出そうとした。
「オフェリアさん」
 こつ、と小石を転がすような音がした。オフェリアが振り向くと、そこでは、マシュがほうけたような顔をして、オフェリアを見上げていた。たった今、森でどんぐりを集めていた子どもが落ち葉を踏みしだいて帰ってきたような、かすかなよろこびの気配が、深雪を敷いたような瞳の中に立ちのぼっていた。
 オフェリアはマシュが手に抱えているものを見た。それは大判で薄く、子どもが読む絵本のようだった。
「この図書室で何か借りたの?」とオフェリアはたずねた。
 マシュは、自分が手に持っているものをたずねられたのだとわからず、首を傾けた。なので、オフェリアは彼女の手を指した。
「それ」
「これは……人魚姫です」とマシュは小さな声で言った。そして表紙をそっとオフェリアに捧げてみせた。
「人魚姫って、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの?」
「はい」
 そう答えたマシュの、うつむいたつむじが見えた。テグス糸なんかよりももっと透きとおって細いその髪が、彼女の表情を覆い隠していた。まさか、マシュが、人間になりたい女の子の本を読んでいるなんて思ってもみなかった。それも、とびきり物寂しくて、切なくて、高潔な人魚の物語を。
(マシュ、あなた、人間になりたいの?)
 と、オフェリアはたずねたかった。暗い海の底から這い上がって、見渡せども、希望をのせた船があつらえたように横切ることなんてないのに、彼女は、与えられた足の痛みに耐えて、這いつくばることもせず、針のさすような地を歩いていくというのだろうか、マシュには、そんなことができるのだろうか。オフェリアは、まったく、まばゆいものを見るさまで、ショーウィンドウに並んでいたうつくしい人形のような表情をしたマシュが、そんなふうに海の上を夢見ているなら、白妙の浜の上に自分の足で立ち上がるのなら、彼女はとてもきれいな人になるのだろうと思った。真珠のような肌をもって、とりどりの珊瑚よりもずっとかすかな瞳をかがやかせている彼女がカルデアの窓の外を見ていた、その光景が思い出された。彼女が海の上を夢見るなら、そうだ、私は、空を飛んでみたい―
「きれいな挿絵なのね」と、オフェリアは、おずおずと掲げ持たれている本を受け取り、中身を開いて言った。
「きれい……一般的に言って、美しく流麗な絵画というべきでしょうか。この本の世界を的確に表している絵です」
「そのとおりね」オフェリアは微笑んだ。オフェリアはこのときばかり、海底にじっと沈んでいるような、貝のようにこごって、水面の揺らぐ光の網を眺めているように引き詰めて、強ばっていた気持ちを忘れた。
「マシュ、このあとはどうするの。もう戦闘訓練も検診もないでしょう」と、オフェリアは思わずたずねた。
「このあとですか。へやにいる犬を触ってから眠るつもりです」
「犬を飼っているの?」
「はい」
「それは、あのまぼろしの白い生きものではなくて?」
「フォウさんのことですか。フォウさんは、犬ではないので。そうですね、私が飼っているというには、少々語弊がありますが」と、マシュは少しうつむいた。「オフェリアさんも見てみますか?」
 オフェリアは、まさか、マシュがそのように自分を誘うとは思ってもみなかったので、おどろいた。それから、マシュの気が変わってしまうのを恐れるように、すぐに付け足して言った。
「え、ええ。ぜひ。ぜひ、見てみたいわ、マシュ。あなたの犬」
 マシュの淡い髪の毛がわずかに揺れた。彼女がうなずくときは、そうやって細い髪がそよ風に吹かれたように動くのだということを、オフェリアは知っていた。
「こちらです、ついてきてください」
 マシュはそう言って、オフェリアの方を振り向かずに廊下を歩き始めた。行き先が決まっているとき、マシュの足どりが迷わないことを、オフェリアはこのときはじめて知った。淡く冷たい絵のように思った雪の日のマシュが、いまはかそけき幻だったようにすら思えて、ぼうっとするのを恐れて、マシュの足跡を懸命に踏んだ。
 廊下はだんだんと暗くなり、人げのない街道のようになっていった。なんとも言えない静けさは、オフェリアの知るどの沈黙とも違っていて、ひんやりした空調と、なぜだか切らしてしまっている灯りが、目の前を歩く子どもの姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「マシュ?」
 とオフェリアは思わず、足音のひとつも立てずに歩いている少女の名を呼んだ。
「もう少しです」
「……そう」
 問いかけを、急く声音だと思ったのか、マシュの左目が肩越しにオフェリアを向いた。
 そのうちに、いよいよ人影はなくなり、平坦なトンネルが続くようにしんとした静寂に、オフェリアはすっかり息苦しくなって黙っていた。オフェリアは心をひきしめた。しかし、それは杞憂だった。
「ここです。私のへやではないのですが、空いているので」
 しばらく凍りついたように口をつぐんでいたマシュが立ち止まり示したのは、廊下のいちばん端にあるマスター用のへやだった。それで灯りがついていなかったの、とオフェリアは肩を落とした。
 他のへやと同じように、そのへやには専用の番号が必要だった。マシュが慣れた手つきでキーを叩いて扉を開けると、中は真っ暗で、扉のかたちに落ちた四角い額縁のような廊下の光に、ふたりの人影がぽつんと収まっていた。
 オフェリアがへやの中を見回すと、暗いへやの隅にうごめく小さな影があった。
「マシュ、なにかいるわ」
「はい」とマシュは返事をして、手探りで扉のそばにあるスイッチを操作した。すると、へやの灯りが音もなく点いて、とたんに痛いほど白く青ざめたへやがあらわになった。
「子犬なの!」
 とオフェリアは声を上げた。
 白い色をした子犬が、こわごわといったようにベッドの隙間から顔を出していた。オフェリアとマシュを何度も見て、クンと鳴いた。
「おいで」とマシュはが屈んで、子犬の方に両手を差し出した。
 マシュの目線に合わせて、オフェリアも腰を折った。真っ直ぐな長い髪の中に顔が隠れて、子犬の透きとおるような目が、オフェリアをまっすぐに見つめた。
 子犬はその場で何度か前足を踏み、意を決したようにマシュの手のなかに頬ずりした。マシュはそれをあやしながら、片手で机の上を指し示し、「すみませんが、そこのキャンドルを取ってください」と言った。
 オフェリアは机の上に置いてあった小さいキャンドルとホルダー、それとマッチを手にとって、すぐにマシュに手渡した。子犬はその平たいキャンドルを見ると尻尾をさかんに振って、くるりと回った。
「明るいへやをいやがるんです」
「そうなんだ。そのキャンドルはそのため?」
「はい」
 マシュは床にキャンドルを置いて座りこむと、オフェリアを招き寄せた。オフェリアは少しためらってから、マシュの隣にぺしゃんとへたりこむように座ってみた。地べたに座るのなんていつぶりだろうかと、オフェリアは目で笑いながらマシュの横顔を眺めた。
 ジュ、とマッチを擦る小気味よい音が響いて、キャンドルに火が灯されると、子犬はしばらくマシュとオフェリアを交互に見てから、大人しくその場に前足をそろえて寝転ぶようにくつろいだ。
 へやの灯りが消されて、闇の中にぽっと微笑むように火が立ちのぼった。
「オフェリアさんもいるから、もうひとつくらい」とマシュはひとりごとのように言い、もうひとつキャンドルに火を灯そうとした。
「待って。私にやらせてくれないかしら」とオフェリアは、マシュの方にからだをかがめ、ささやいた。
 すると、マシュはまるでこわれものを渡すかのように、そっと、その白い指に小さなマッチ箱とひとつのキャンドルをのせて、オフェリアに差しだした。オフェリアはそれを、そのこわれものにふさわしく、たった今孵化した雛をあつかうような丁寧さで受け取った。ふたつの白い手の中でキャンドルがころりと転がった。
 オフェリアの点けたキャンドルが、はじめのキャンドルに寄り添って、やわらかく撓いながら揺るいでいた。子犬は怯えることも吠えることもせず、黒い瞳に水飴のような小さな炎を映していた。その、火を怖がらないけものの、あつらえ物のような姿に、彼女を見上げるマシュの氷雪の降りつもる目を思い出していた。
 オフェリアは両手で膝をかかえるように座りなおし、睡るときのように膝に頬をのせた。すべらかに生えそろったセピアのまつげに、綿のような炎の小さな光が、格別な、無数の玉のようにかがやいた。マシュは少しも動かないで、几帳面に足をそろえて伸ばしたままでいたが、規則正しい速さと、繊細さとで、子犬の毛並みを手の甲でずっと撫でていた。
 そうしてふたりは長い間座り、だんだんと溶けていく蝋に沈んでいく炎を見つめていた。
 オフェリアは丸いまぶたを閉じた。そのうちに、オフェリアははるか遠くかすかにおぼえている、彼方の時代のふしぎな光景が目の前に浮かぶように思った。
 黒い暖炉に燃える小さな赤い炎が、父と、大きな蓄音機を照らしていた。炎の影が、父の頬にあたたかな夕暮れのような波を映していた。オフェリアには大きすぎて山のように見えるソファに、悠然と、深々座った父の足もとで、いっしょにゆるやかな炎を見ながら、黄金色の音をした音楽を聴いていた。幼いオフェリアは、曲の名前を父にたずねた。父の口が動いた。けれども音は聞こえなかった。父は、なんと言っていたのだっけ……。
「黄昏って、こんな色をしているのでしょうか」
 と、ふいにマシュが言った。それはたずねているというよりも、思わずこぼれてしまった唄のようだった。
「どうかしら」とオフェリアは答えた。「私の知る黄昏と、あなたが知るべき黄昏は、ちがうのかもしれない……」
 マシュから言葉は返ってこなかった。彼女の、子犬を撫でる手つきは止まっていた。さっきからおとなしくしている子犬は心地よさに眠ってしまっているようだった。
「その子に名前はあるの?」
 と、オフェリアは気になって顔を上げて言った。
 その問いかけに、マシュは、はっとした素振りも見せず、ずっと前からこうしていたというように子犬を手の甲で撫でるのを再開した。
「名前ですか」とマシュは首を傾いで言った。「この子は実験用の犬なので名前なんてありません。ご存じじゃありませんでしたか」
「ええ」と、オフェリアは胸苦しい気持ちで言った。「実験用の犬には、名前をつけないものなのかしら」
「識別番号はあります。実験用ですから」
 とマシュは小鳥のように軽やかな声で言った。
 マシュの瞳には、もう消えかけているキャンドルの黄色いほむらが、雪の中の亡骸のように横たわっていた。オフェリアはとつぜん、羅針盤をうしなった小舟の上にでもいるような気がした。黄昏の海で、すべての輪郭がたがいに溶け合って眠りについてしまうさなかに一人叫びを上げている子どもの像が脳裏に結んだ。蜂蜜をこごらせた波間に、白い子犬を抱いた白い腕がゆらゆらと揺れている。
「では、死んでしまうの」
「はい。いずれ、すぐに」
「そうしたら、あなたはいったいどうするの」
 暗い暖炉の穴に燃えるような小さな炎がとうとう消えた。断頭台にすべり落ちる刃のように、真っ暗な闇がやってきてふたりをいともたやすく押しつぶした。オフェリアは濃い闇の奥を見つめた。
 ゆっくりとまばたきをするための時間をおいて、
「いえ、別に、何も」
 少女の声が言った。
 けれども、オフェリアは、それが本当にマシュの声であるのか、どうやってその答えを得たらよいのかわからなくなった。もし彼女が、おろかなゴーレムに帰り道をなくされて、その歩みを止め、うずくまっていてくれたら、オフェリアは彼女の手を引いて、道を作り、あらゆる光を指で留め、彼女の白い家まで送り届けられるのに、と思った。慣れた目にぼうっと浮かんできた子犬が、くるくると喉を鳴らす音がした。
 あなただったらどうするの、とマシュはたずねなかった。オフェリアは何かを言わねばならないと思って口を開いたが、言葉の端切れは喉や唇にしがみつき、何度試しても、いやいやをするように出てくることはなかった。
 そのときぱっとへやが明るくなって、マシュが手元のスイッチを入れたのだとわかった。オフェリアは、まじまじと彼女の顔を見た。いつもと変わらなかった。
 扉の向こうには、あいかわらず人の気配はなく、たった今このへやだけが、雪山にぽつねんと切り取られてしまっているようだった。
「マシュ、あなたも、私もいつか死ぬのよ。そうしたら、そうしたら……」
 ようやくオフェリアは口を開いた。彼女は、自分の口から漏れる途切れ途切れの言葉が、彼女を小さな子どものようにしてしまっていることに気づいていなかった。オフェリアのしゃんと伸びて澄ましたダリアの花のような姿は、今はしゃがんで、くぐもって、灯の消えた暖炉の横にたたずむ幼い追憶だった。
「そうしたら?」
 マシュの淡い目はふしぎそうにオフェリアを見た。
「……なんでもないの。ごめんなさい」
 オフェリアはマシュの足もとを見つめて、毎朝鏡に映る自分の顔を思い出した。けざやかな街の少女たちの思い出が遠ざかり、色褪せて、石畳に立ち尽くしていた、つんとした爪先に目を落とし、それから、日曜日がやってくるのが、夕暮れの長い影がどこまでも落ち、忍び寄るように思い出された。
 沈黙のあと、オフェリアは立ち上がって、「おやすみなさい」と別れを告げた。マシュは決まりきったボタンを押されたように、「おやすみなさい」と言った。オフェリアはほんの少しほほえんで、その部屋をあとにした。白い子犬の尾が揺れていた。
 
 一季節の半分が過ぎたとき、もう、マシュの存在をけげんに思う者はほとんどいないように思われた。オフェリアは、早めにカルデアの食堂を訪れては、マシュと食事を共にしていたし、気ままな魔術師たちが紙の束を片手にして、新聞にビラを挟み込んだような粗末なサンドイッチをほおばっているのを視界に留めながら、コールラビとリンゴのサラダを多めに皿に盛ったり、鮭のスープを注いだりしていた。
 けれども、その日の食堂にマシュと友人の姿は見えなかった。その日、カルデアの白い廊下は、どことなく、氷がちりになって漂ってでもいるようにほんのりと冷たかった。オフェリアはわれ知らず、身につけたジャケットの上から腕をあたためるように擦った。
 食堂を出たオフェリアは、すぐにぱったりと出会った友人に呼び止められた。
「オフェリア」
「ぺぺ。これから訓練なの?」
 オフェリアは頬を緩ませて友人を見上げたが、すぐに眉をひそめた。調和的な磊落を持った友人の、心のこもった思慮深い目が伏せられて、けれども迷いはなく、オフェリアのことをじっと見つめていたからだった。
「いいえ、違うの」と友人は言った。「マシュがね、あなたを呼んでいたの」
 なぜ、とオフェリアはたずねなかった。
「医療室に行きましょう」
 胸の中がひどくざわついた。唇を一文字に結び、しかし、同時にどこか湖水のように静かでもあった。小さな飴が光を透かすような色をした、キャンドルのまぼろしが過ぎった。
 オフェリアは友人について、医療室に向かった。ドクターが導いた、簡易なカーテンで仕切られたその奥に、子どもはいた。スチールの華奢な椅子に腰を掛けている彼女は、いつもしているように真っ直ぐ、どこか夢想めいた虹彩を細密画のきらめきのように水の中にたたえて、オフェリアを見た。彼女が無意識のように片手で髪をかきあげ、そっと花びらの耳にかけると、白い頬に蜜のような赤い血が流れた。それは、彼女の膝に抱えている血汐のかたまりの中に、泡沫が合流するように落ちていった。
 オフェリアはしじまにひびく足音を進ませて、彼女の前に立った。彼女は立ち上がって、抱いているというよりは、無機質の箱を持つように腕のうちにおさめている、脾臓の色をまとって、燃える夕焼けよりも黒ずんでいるそのかたまりの、白い毛先を見つめた。ウィッチクラフトの研究を、今さら、しようはずもない、これは、ただの失敗だったのだ、とオフェリアは直感した。若く、大きないきものへの実験、それがどんな意味をもつのか、オフェリアの玲瓏のこころは考えたが、また、一方で、それを今は忘れてしまうべきだと、暖炉の前の父のような声音が、ささやいていた。
「オフェリアさんは、前にこう言いました」
 と、子どもは言った。それから、すぐに口をつぐんだ。オフェリアはそれをじっくりと待った。白い毛先は乾いてしまって、空調に揺れることもなく、ただ冷えきるばかりだった。
 閉ざされた唇は、しばらく経って、存外、すべらかに開いた。ガラス細工のように清かな声がオフェリアの耳に心地よく流れてきた。
「『あなたも、私もいつか死ぬのよ』って」
「言ったわ」とオフェリアは静かに言った。今や、周囲の物音や、少女たちを振り向かぬ忙しない人びとの声は消えて、友人もドクターも去り、ただ、あの日の、暖炉のやわらかな、ぬるい灰をかき混ぜたような心地よい会話だけが、五月雨の降りすさぶ湖に響く波紋のように、オフェリアを取りまいていた。
「そのつづきを知りたくて……」
 そう言う調子は、感傷的に続きを知りたがっているのではなかった、むしろ、途中でページの破られてしまっている物語の結末を、さまよい求める子どものようだった。
「花が必要です」とオフェリアは言った。「たしか、カルデアには中庭があったはず。ほんものの土と、花を植えている場所が」
 マシュはこっくりとうなずいた。寒そうに、身を寄せている、マシュと子犬の、今はもう亡き絵のような風景が思い浮かんだ。オフェリアはマシュの、赤くなった手を取った。
 それから、二人は静かに、ブナの葉陰に消える少女たち、あるいは金色に光る街の煉瓦道を踊る少女たちのように、その場を去り、やわらかな土と、区画された花が笑う地にたどりついた。マシュは、ずっと、服に染みこむ子犬のいのちを取りこぼすまいとしているように、からだを丸めて、だいじに、胸の中に抱えていた。
 二人は春のような空調がそよぐ木陰にしゃがみこみ、膝をつき、小さな園芸用のこてで土を掘り返して、ユリのおしべのような赤色に染まったそれを、ひっそりと、綿のベッドに寝かせるみたいに置いた。きよらかな白が残った毛先が風にまろく揺れて、ふんわりとして、みせかけの土のシーツをかぶって、永遠に花の下に眠った。あたたかな闇を好んだ小さな憐れを慰めるように、マシュの置いた白い花の茎が、ころりと眠りに就く幼子のように傾いた。
「つづきを、遂行できました」と小さな声が言った。彼女は立ち上がって、土によごれた膝を払うこともなく、じっと、その胸の内におさまってしまうほどのこんもりとした小さな山を見下ろしていた。
 ありがとうございます、と言うあえかな光がオフェリアの頭上にあたたかく落ちた。
 オフェリアは立ち上がり、マシュの、土に赤らんだ指の先をからめて、手をつないだ。そして、ふたりのからだの間で、やわらかに、そっと、押しつぶしてみた。
 

 終